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Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

1890-1940年代の日本鍼灸

2018-06-23 | 間中喜雄先生
リンク先は、後藤道雄著
「ヘッド氏帯の臨牀的応用と鍼灸術」
刀圭書院1917年(大正6年)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981024
(国立国会図書館 近代デジタル・ライブラリー)
京都大学の小児科医、後藤道雄先生が書いた「ヘッド氏帯の臨牀的応用と鍼灸術」という文献です。
書かれたのは、1917年(大正6年)です!!!

 ヘンリー・ヘッドが内臓関連痛から人間で最初のデルマトーム・マップを作成したのは1900年ですから、そのわずか17年後には、「ヘッド帯」を鍼灸に応用することを提案しています。この後藤道雄先生は、京都大学生理学教室の石川日出鶴丸教授(1848-1947)門下です。石川日出鶴丸教授は、1908年にイギリスのケンブリッジ大学に留学して、サー・チャールズ・シェリントン(Sir Charles Scott Sherrington)に学んでいます。シェリントンは、ヘッドよりも10年前にアカゲザルの神経を切断して、最初の動物デルマトームの研究をおこない、シナプスを命名して、1932年にノーベル生理学賞を受賞した神経学者です。
 石川日出鶴丸先生は、戦前の1910年代から1947年にかけて、鍼灸の科学的研究を行いました。ですから、門下生の後藤道雄先生が「ヘッド帯」の考え方を鍼灸に応用したのは、当時の西洋医学の最先端をいっています。

※1:石川 日出鶴丸「鍼灸術に就いて (一)」
『自律神経雑誌』Vol. 1 (1948-1951) No. 1 P 4-5
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1948/1/1/1_1_4/_pdf
 この「鍼灸術に就いて (一)」という論文の中で、石川日出鶴丸先生は、「従来の鍼灸術は一掃されなければならない」と述べています。「ヘッド帯」や「デルマトーム」、「内臓体壁反射」を鍼灸の研究に応用したのは、日本では石川日出鶴丸先生が最初になります。

 石川日出鶴丸先生は、1938年(昭和13年)に京都帝国大学医学部生理学教室の教授を退官された後は、三重医専の校長となりました。そこで、芸能生理学の研究をはじめました。これは、お米に俳句や絵を書く名人や、江戸時代・元禄時代から続く小児鍼の家の名人・藤井秀二先生の小児鍼の技術を分析して、「名人の技」を再現するというユニークなものでした(※2、※3)。
 しかし、1947年(昭和22年)9月23日にGHQは鍼灸廃止令を出します。GHQから質問書を受け取った石川日出鶴丸教授は、鍼灸師の樋口鉞之助(ひぐち・えつのすけ)を連れて、GHQの軍医ワイズマン大尉の身体に施術し、「鍼灸術に就いて」という意見書を10月24日に提出しました。そして、提出した、その日に教授会の席上で脳溢血で亡くなられました。12月22日にはGHQにより鍼灸の存続が決まりました。石川日出鶴丸先生は、鍼灸業界の大恩人にあたるわけです。

 本来は、戦後、日本鍼灸会は石川日出鶴丸先生を会長にする予定でしたが、この急逝により、京都大学生理学教室を継いだ笹川(ささがわ・きゅうご:1894-1968)を会長にして、石川太刀雄(いしかわ・たちお)を副会長にして、『自律神経雑誌』を立ち上げます。のちに、1950年に良導絡を発見した中谷義雄(なかたに・よしお)は、笹川の指導で医学博士を取得します。
 
 後藤道雄先生の「ヘッド氏帯の臨牀的応用と鍼灸術」を国立国会図書館 近代デジタル・ライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981024)で見ると、98年前に書かれたとは思えない内容です。

 1892年(明治25年)に、鍼灸では、大保適斎(おおくぼ・てきさい:1840-1911)という群馬医学校の初代校長の外科医が神経学説による鍼を提唱し、『鍼治新書』解剖篇・治療篇・手術篇を出版しています。これも、西洋医学の神経学説によるものでした。1892年は、まだヘッド帯は存在していません。

保適斎『鍼治新書』
解剖篇 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834668
治療篇 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834669
手術篇 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834670

 面白いことに、大保適斎(おおくぼ・てきさい)先生の西洋医学の神経学説に基づく鍼は、大阪で普及したそうです。大阪は、昔から陰陽五行説のような空理空論が嫌いな実利主義・現実主義だからだそうです。
   大阪の盲学校の吉田多市(よしだ・たいち:1871-1937)先生や、その弟子である大阪府立盲学校初代校長の志岐与市(しき・よいち)先生に大久保流は伝わりました。吉田多市先生は1871年、小豆島出身で、群馬県の大久保適斎先生に鍼を習い、1897年(明治30年)頃に大阪に来て吉田久長に学びます。
 1902年(明治35年)の大阪では、小児鍼の藤井楠二郎(藤井秀二の父)を会長に、「うさぎ鍼」の岡島瑞顕(おかじま・ずいけん)や「ナガトヤ灸」の長門谷貫之助(ながとや・かんのすけ)、吉田多市先生などで「大阪鍼灸会」をたちあげて、『大阪鍼灸会雑誌』を発行しました。明治時代の大阪は、日本で一番、鍼灸が盛んな土地でした。
   1903年(明治36年)には山本新梧が関西鍼灸学院を設立します。
   1910-1920年代には、辰井文隆(たつい・ふみたか:1887-1946)が大阪市浪速区に辰井高等鍼灸学院を設立します。
   1925年(大正14年)には山崎良斎(やまさき・りょうさい:1890〜1940)が、大阪市西区九条に山崎鍼灸学院を創ります。
   1930年(昭和05年)には山崎良斎が大阪市阿倍野で明治鍼灸学校を設立しました。関西の鍼には大久保流の影響があると思います。
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※2:「石川日出鶴丸先生を偲んで」
勝田 穰『自律神経雑誌』Vol. 26 (1979) No. 3-4 P 85-90
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1948/26/3-4/26_3-4_85/_pdf

※3:「昔を語る鍼灸」(続)青地 正皓, 長門谷 丈一, 滝野 憲照, 藤井 秀二
『自律神経雑誌』Vol. 13 (1966) No. 4 P 11-14
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1948/13/4/13_4_11/_pdf

※4:「内臓体壁反射についてー石川教授父子の功績」
多留 淳文『日本東洋医学雑誌』
Vol. 51 (2000-2001) No. 4 P 533-562
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed1982/51/4/51_4_533/_pdf

※5:「鍼灸術に就いて (四)」
石川 日出鶴丸『自律神経雑誌』 Vol. 1 (1948-1951) No. 4 P 4-6
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1948/1/4/1_4_4/_pdf


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