ここで、もう一度、内離島の概要を記載します。
内離島は、西表島・白浜の西約0.7kmにある無人島。北西には外離島がある面積2.10km2・標高194m。「うちぱなり」とも呼ばれる。西表島の祖納では「なーれー」とも呼ぶ。東海岸から八重山式土器や中国製の陶磁器などが出土、15~16世紀ごろの集落跡とみられる成屋遺跡がある。1728年、西表島の仲良川河口の元成屋崎から集落が内離島北端に移転、成屋村が成立した。明治6年には人口13人を数えている。リュウキュウイノシシが姿を消すと、成屋では稲作や畑作が盛んに行われたという。西表島西部と同じく、この島でも豊富な炭層が発見され、明治19年ごろ三井物産が炭鉱を開き、囚人などを集めて、採掘を開始。同28年以降、経営は他社に次々移譲されたが、島南部の南風坂坑を中心に多くの坑口が開かれ、戦時中まで操業、掘り出した石炭は主に台湾・香港などへ輸出された。坑夫納屋が立ち並び、西表島初の郵便局が南風坂に設置され、明治40年には児童数60人を数える私立小学校が成屋に開校、480人/km2という八重山諸島最大の人口密度を記録するなど当時の繁栄はかなりのものだったが、「納屋制度」による過酷な強制労働や、マラリヤの流行などで多くの坑夫が亡くなったという歴史がある。戦後は細々と採炭が続けられていたが、昭和57年に無人島化、一部が牛の放牧場になった。現在は坑口跡などが残るのみで、かつての面影はまったくない。野生化した牛に寄生したオウシマダニのため、外離島とともに法定伝染病ピロプラズマ病の沖縄最後の汚染地域となっていたが、平成8年にはダニに寄生された牛を全頭捕獲、現在では適切な処理がなされている。なお、島内にはサキシマハブが生息している。
船長が、内離島を案内してくれました。後をついて、歩きました。
(船長が案内)
木の根っこを指して、説明をしてくれました。この木は、アダンの木で、細かく裂くと筆として活用できるとのことでした。仲間がおろうとしましたが、固くて折れませんでした。
(アダンの木の根っこ)
しばらく歩くと掲示板がありました。見るとこの島に住んでいる動物の写真が貼られていました。セマルハコガメ、ヤシガニ、アカショウビンなどがありました。
(島に住んでいる動物の写真が)
もう少し上ると「坑口」と書かれた看板がありました。ここが、炭鉱の坑口のようです。
(「坑口」と書かれた看板が)
(写真撮影:2012.03)
内離島は、西表島・白浜の西約0.7kmにある無人島。北西には外離島がある面積2.10km2・標高194m。「うちぱなり」とも呼ばれる。西表島の祖納では「なーれー」とも呼ぶ。東海岸から八重山式土器や中国製の陶磁器などが出土、15~16世紀ごろの集落跡とみられる成屋遺跡がある。1728年、西表島の仲良川河口の元成屋崎から集落が内離島北端に移転、成屋村が成立した。明治6年には人口13人を数えている。リュウキュウイノシシが姿を消すと、成屋では稲作や畑作が盛んに行われたという。西表島西部と同じく、この島でも豊富な炭層が発見され、明治19年ごろ三井物産が炭鉱を開き、囚人などを集めて、採掘を開始。同28年以降、経営は他社に次々移譲されたが、島南部の南風坂坑を中心に多くの坑口が開かれ、戦時中まで操業、掘り出した石炭は主に台湾・香港などへ輸出された。坑夫納屋が立ち並び、西表島初の郵便局が南風坂に設置され、明治40年には児童数60人を数える私立小学校が成屋に開校、480人/km2という八重山諸島最大の人口密度を記録するなど当時の繁栄はかなりのものだったが、「納屋制度」による過酷な強制労働や、マラリヤの流行などで多くの坑夫が亡くなったという歴史がある。戦後は細々と採炭が続けられていたが、昭和57年に無人島化、一部が牛の放牧場になった。現在は坑口跡などが残るのみで、かつての面影はまったくない。野生化した牛に寄生したオウシマダニのため、外離島とともに法定伝染病ピロプラズマ病の沖縄最後の汚染地域となっていたが、平成8年にはダニに寄生された牛を全頭捕獲、現在では適切な処理がなされている。なお、島内にはサキシマハブが生息している。
船長が、内離島を案内してくれました。後をついて、歩きました。
(船長が案内)
木の根っこを指して、説明をしてくれました。この木は、アダンの木で、細かく裂くと筆として活用できるとのことでした。仲間がおろうとしましたが、固くて折れませんでした。
(アダンの木の根っこ)
しばらく歩くと掲示板がありました。見るとこの島に住んでいる動物の写真が貼られていました。セマルハコガメ、ヤシガニ、アカショウビンなどがありました。
(島に住んでいる動物の写真が)
もう少し上ると「坑口」と書かれた看板がありました。ここが、炭鉱の坑口のようです。
(「坑口」と書かれた看板が)
(写真撮影:2012.03)