ひょうきちの疑問

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新「授業でいえない日本史」 3話の5 古代 持統天皇

2020-10-29 06:54:00 | 新日本史1 古代2

【持統天皇】 天武天皇が亡くなると、686年に、持統天皇といって女の天皇が即位します。天武天皇のお后です。父親は天智天皇です。つまり天武天皇とは、叔父と姪の関係で結婚しているわけです。
今と違って、古代では天皇は女性オーケーです。女性天皇をどうするか、今も政治的な議論はあるけれども、現状ではダメです。しかし古代では女の天皇がよくでてくる。ここでなぜ女の天皇が立ったかというと、持統天皇は息子を天皇に即位させるための一時的なつなぎとして即位します。

※ これ(持統女帝の即位)は唐側男帝の即位を極度に嫌ったからだった。・・・・・・しかも持統天皇の後の文武天皇が即位した後は、また元明・元正と女帝がつづき、その後また聖武天皇一代が男帝の後へ直ぐまた孝謙女帝となり、その後淳仁男帝の後にふたたび称徳女帝となって、ようやく光仁男帝につがれた。奈良朝七代のうちじつに四代が女帝だった。・・・・・・唐側から見て、男帝よりも女帝の方が傀儡政権として望ましいことは明白で、すべてはそこに関連しているのである。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P93)



しかしその息子である草壁皇子は若くして死んでしまいます。すると草壁皇子の息子、つまり持統天皇にとっては孫を天皇にしようとします。それまでがんばらなくちゃ、というわけです。
ただ結構、大きな事をやっていく。やったことは、694年に、それまでの都は、ちっちゃな村みたいなものだった。それを中国の真似して、大々的に本格的な都を造る。これが平城京じゃなくて、その前にもう一つあったんです。藤原京といいます。かなり大きな都です。

※ 藤原京が建設されたことは、難波GHQを煙たがって、なるべく首都を海岸から遠くしようとする日本側の動きを先取りした、唐羅側の立案と考えられる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P90)

※ 近年の調査によると、藤原京の朝堂院(官庁)の規模は平城京のそれよりも大きいことがわかったが、これでこの首都建設が日本の国力消耗の一手段として実施されたものであることがわかる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P95)



この藤原京の場所は、奈良盆地の南の方に、俗に大和三山といわれる、ちょっと低い山で、きれいな山が三つあるんです。その三角形の中、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)、天香具山(あまのかぐやま)・・・・・・この天香具山が一番有名です・・・・・・この大和三山の間にあります。
この都で歌をつくった持統天皇の有名な歌がある。
『春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすちょう 天の香具山』
これは百人一首にある有名な歌です。

※【異説】 聖なる山に洗濯物が干されているわけはない。では、白妙(タエ)とは何かといえば、天の羽衣伝承そのものだったのだ。天の羽衣を着る天女は、日本を代表する聖なる巫女で、その天の羽衣を奪った(手に入れた)者が王位を獲得する、という発想があったようなのだ。というのも、天皇が即位して行う儀式・大嘗祭のクライマックスで、天皇は天の羽衣を着ることで「人間ではなくなる」からだ。そこで件の歌を読み直せば、持統天皇のいいたかったことははっきりする。持統天皇は政権交替のチャンスを歌にしていたのだ。天武天皇の皇后であると同時に、持統天皇は天智天皇の娘でもあった。壬申の乱で一度は天武天皇に奪われた天の羽衣を、持統天皇は密かに、「天智の娘」として暗躍し、奪い返そうと目論んでいたのではなかったか。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P72)




【文武天皇】 697年、持統天皇の孫の幼い天皇が即位します。これが文武天皇です。この文武天皇の時に、中国式の政治の決まり、これが文章でつくられていく。


※【異説】 文武天皇は、新羅文武王ではないかとする説もあります。



701年
です。もう700年代に入りました。聖徳太子から約100年経ちました。大宝律令です。律令というのは決まりです。政治の決まりです。大宝年間にできたから大宝律令です。今と同じ平成のような年号がすでにある。大化の改新のときに、大化という年号ができたのが最初です。この年号には、土地と人だけではなく、時間を支配するという思いが込められています。これも中国経由の思想です。

※ 文武天皇の大宝元年(701年)に、遣唐使が再開されることになった。その理由については、その後(壬申の乱後)鋭意国内の復興に努めた甲斐があって、ようやくふたたび遣唐使を派遣できるまでに回復したというのが従来の説である。しかし実際は、大宝元年完成の大宝令を唐廷に上納するのがその使命だった。それを唐廷が嘉納して、ここに遣唐使が再開されることになった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P112)

※ 従来の歴史では「白村江の戦い」後、日唐の関係はきわめて円満で、日本からはたびたび遣唐使も派遣され、極力彼地の高い文化を吸収して、ついに咲く花の匂うがごとき天平時代を現出したという。しかしこれではどうも話がうますぎる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P15)

※ 天武朝14年、持統朝11年、計25年間というものは、わが国から1回も遣唐使が派遣されていないのみか、先方からも1回の使者の来朝もない。・・・・・・「戦後両国の関係はきわめて円満」などはとんでもない話である。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P18)

※ (701年に遣唐使に派遣された粟田)真人の一行が、3年間も彼地にいたことも普通ではない。おそらく彼はまず新製の大宝令を提出して、そこに示されているように、日本がすべてを唐朝に範をとった、立派な文化国家になったことを説明し、未来永劫白村江の戦ごとき大それたことをすまじきことを誓い、平身低頭して恭順の意を表したことであろう。それにたいして唐廷は一応承知したが、念には念を入れて、土左衛門の足に石をしばりつける意味で、一層平和無抵抗主義仏教をひろめて国是とし、さらに国力消耗作として、できたての藤原京から、もっと大きな平城京への遷都と、全国に国分寺・国分尼寺の建立強要されたのだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P114)



また「日本」という国名が用いられたのもこの頃からです。つまり天武天皇後に「日本」という国号も定まり、「天皇」の称号も定まったということです。このことは大変大きな変化が起こったということです。
この律令をつくった人は、藤原不比等です。中臣鎌足の息子です。なぜ名字が違うか。さっき言ったように、死ぬ間際に姓を変えたからです。中臣から藤原に変えたのです。これも中臣鎌足が架空の人物で、それとは別に以前から藤原氏が存在したとするほうがいいように思えます。日本初の本格的な都が「藤原京」という藤原の名前がついていることから見ても、そこに藤原氏の大きな力が関係しているように思います。



【律令制度】
【大宝律令】
その律令、これが政治のルールになっていく。決められたことは、従わないといけないから、ここで何が決められたかが重要です。制定されたのは、701年大宝律令です。

※【異説】 我が国の地方制度が「」から「」に変わったのも701年であることが藤原宮木簡から確認されている。このことから、「評」は九州王朝の制度、「郡」は大和朝廷の制度と考えることができ、ここで我が国の主権者の交代、つまり「王朝の交代」があったことになるのだ。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P21)

※【異説】 薩夜麻は唐の庇護の下で復位はしたが、もはや薩夜麻の倭国(九州王朝)には、白村江以前のような力はなく、ヤマトの天武・持統・文武(天皇)の時代を経るにつれて衰退していき、701年には文武(天皇)が大宝律令を制定し、大宝年号を建元する。そして、703年の「(当時は周)」の武則天(則天武后)の大和朝廷(日本国)の承認により、我が国の代表の座を「大和朝廷」に明け渡すことになる。すなわち、我が国に「王朝交代」がおきたのだ。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P186)

※【異説】 (旧唐書の)「日本国伝」には「長安三年(703)、其の大臣朝臣真人(粟田真人)来りて方物を貢ぐ」とあり、これは疑いなく大和朝廷のことで、しかも「日本国は倭国の別種なり」「或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり」とあるから、8世紀初頭には大和朝廷(日本国)が九州王朝(倭国)を併合していたことになり、「九州年号(倭国年号)」の終了と大宝建元はまさにこれと軌を一にしているのだ。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P21)

※【異説】 九州の九国だけは大宰府を介して支配しており、他の諸国とは異なる扱いとなっています。すなわち、大和朝廷は九州王朝の旧直轄支配領域(九州島)だけは、九州王朝の「中央組織」であった大宰府による間接支配を行ったのです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P50)



律令は中国の真似です。律令体制は、大化の改新からではなく、ここから本格化していくとみたほうがよさそうです。中国に遣隋使を派遣された人たちが、こういう知識を持ってくるんです。中国はこういう決まりがあって、こういう政治をしているんだと。
実際に作ったのは藤原不比等ですけど、制定者は偉い人の名前で、これは刑部親王(おさかべしんのう)という。親王というのも天皇の息子にしかつかない。一歩間違えば、天皇になったかもしれないような天皇の息子です。
さらに律令にちょっと、日本になじまないところがあったから、部分変更する。車がちょっとリニューアルするような感じです。これが718年、養老年間に作られたから養老律令です。これでだいぶ日本の風土に合うようになった。ここで手を加えた中心人物、これが藤原不比等です。法律をつくった人ですから法律には詳しい。



【国郡里制】 では行政組織です。中央と地方の関係を、国郡里制として三段階にまとめるんです。
奈良の都が今の東京と同じです。そこから、お役人を地方に派遣して、県に派遣する。今でいう県知事にさせていく。今でいうと県ですけれども、東京に行って、お国はどちらと一昔前には聞かれた。日本です、とかいうと、ふざけるな、と怒られる。国というのは県です。そこに国司を送る。これが今でいうと県知事にあたります。今の県知事と違うのは、今の県知事はその県で選ばれるんだけれども、東京で選ばれて地方に来た人です。そういう中央貴族であるということです。
でもこういう人は地方のことはよく知らない。東京の命令を聞くだけです。つまり東京の力が強くなる。だから中央集権です。中央貴族が来るというのは、中央集権です。ただ一生じゃない。だいたい4~5年交代で任期がある。
国司の側から言うと、転勤しなければならない。4~5年は福岡の県知事、4~5年は今度は愛知県の知事になったりする。全国を転勤して行く。その国司のいる役所を国衙といいます。
この国司のワンランク下に郡司がいて、これに地方のもともとの有力者がこれになるんです。地方の有力者が国司になったんじゃない。その下の郡司になったのが地方の有力者です。つまり地方豪族です。
これで地方豪族は、国司の命令を聞かないといけない立場になった。100年前までは、彼らは国造(くにのみやっこ)と言われていた。彼らはもともと生まれてからずっと地方に住んでる人たちだから、郡司の職は一生続く。これは終身です。一生よりももっと長く、親が郡司なら、子供も郡司になれる。親から子、子から孫へと伝わっていく。こういうのを世襲という。つまり郡司は世襲制です。

この人たちはそれまでは地方の親分であったのが、ここで一気に中央から派遣された国司の子分になったわけです。こんな大変化が起こったわけです。地方の親分たちにとっては、目を見張るような変化だったと思います。
余談ですが、地名で、福岡県に小郡というのがあって、これは「おごおり」と読みます。国郡里制は定着する前に、郡のことを、こおり、と呼んでいた時期があります。だからそれがなごりをとどめて、小郡と書いてこれで、「おごおり」と言う。小郡市というのは福岡にも、それから山口県にもあって、こういう地名がでてくる。
それから、村に相当するもの、50軒で一かたまりの村、これを里という。そのリーダーは里長という。地方の有力農民です。
こういうのを中央の天皇が管理する。国郡里制になります。
のちのことですが、江戸幕府を倒した明治新政府が、廃藩置県でまずやることは、この形なんです。そしてその後どうしていいか、分からなくなって、政府の要人たちがこぞって長い間、西欧視察に出かけるという異常事態になりますが、要は彼らの頭のなかにこの形が強くインプットされていたということです。それで約300年続いた藩がなくなっても反乱の一つも起こらなかったということは、そのことが広く国民の間にも理解されていたからではないかと思います。



【班田収授法】 では農民は、どうやって自分たちの土地を耕すことができるのかというと、この時代、この律令制で、土地はいったん国がぜんぶ没収するんです。土地は、天皇のものになる。つまり公地になるんです。そして国民は天皇の家来になる。公民という。公地公民制になる。その上で、農民が耕す土地は、天皇が貸し与えていくんです。一人一人に。この方法を班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)という。どうやって農民に貸していくか。
では農民側から見ると、借りた土地のことを何というかというと、口分田という。農民側、借りる側から見ると。この口分田は、年齢制限は20才ではない。わずか6歳。6歳になれば男にももらえ、女にもらえる。広さは男には2段
2段というのは約100m×20mです。一段は約100m×10m、その2倍です。ただ男女平等でない。女には、男の3分の2です。こんな大がかりなことは毎年はできない。人口調査も大変で、今のようにパソコンもないから6年に1回行う。ということは、班田が終わって次の年に生まれた人は、次の班田があった年に6歳手前で6才に手が届かないから、もらうのはそのまた6年後の11歳でもらう人もいる。6年に1回だから、生まれた年によって、6歳でもらう人もいれば、11歳でもらう人もいる。
国から借りているんだから、親父が死ねば、その土地は今のように息子の土地になるんじゃなくて、あくまでも国のものだから、死んだら収公といって国に戻すんです。
だからこれは私有地ではない。私有地だったら、親が死ねば息子のものになるけれども、私有地ではない。
こういう土地をちゃんと与えるために、田んぼを整然と縦横に区画していく。これが条里制となっていまも各地に残っている。里がつく地名、例えば佐賀県の吉野ヶ里遺跡の里というのはこの里です。条里制があった跡です。五条とか四条とかの地名は条里の条です。そのためには、どこに誰が住んでいるかが分かる帳簿がないといけないから戸籍を作る。
日本は早くに戸籍ができた国なんです。ヨーロッパなんか、戸籍は近代になるまでできない。どこに誰が住んでるところわからない。モンゴル社会などの遊牧民なんかになると、戸籍つくっても意味がない。どっちみち1年でどっかに行ってしまう。農耕社会でないとこれはできないし、日本は戸籍を早くつくったほうだということです。



【白鳳文化】
7世紀後半の文化を白鳳文化と言います。「白鳳」とはもともと元号ですが、日本書紀には現れない元号です。私年号とも言いますが、大和政権とは別に九州王朝で使われていた九州年号のようです。九州王朝が大和政権とは別に九州に存在していたことが、このような形で現れているとも言えます。

※【注】 九州年号では「白鳳年間」は661~683年です。


これで終わります。


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