ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 50話の1 冷戦とアジア独立

2019-08-25 09:00:45 | 新世界史16 戦後

 第二次世界大戦が終わりました。日本には原爆が落ちました。
 日本の占領した地域である東南アジアは、ほとんどそれまでヨーロッパの植民地でした。日本がこれだけ占領したということは、一旦全部イギリスもフランスもオランダも、日本が追い出したんです。
 でも日本が負けたから、イギリスが戻ってきて植民地を続けようとする。フランスが戻ってきてまた植民地にしようとする。オランダが戻ってきてまた植民地にしようとする。でも東南アジアの人たちは、日本軍に追い出されていった彼らの姿を見ていました。

 日本とドイツが負けて世界は平和になるか。ソ連がアメリカ側についたということが火種になっていきます。アメリカとソ連は経済体制が違う。これは「政治・経済」でもいいました。戦後史は「政治・経済」で言ったこととだいぶ重なります。
 資本主義の親玉がアメリカ、社会主義の親玉がソ連です。今から見ると、こういう水と油の経済体制でアメリカとソ連が「なぜ手を組んでいっしょに戦えたのか」ということのほうが、かえって不思議なくらいです。「戦後に対立することは分かっていただろうに」と感じますが、その通りになっていくんです。



【ドイツ分裂】 ドイツは分断されて一番被害を被ります。下の図のように分断されたドイツが、半世紀後の1990年に統一されて、また一つのドイツになりました。それでも第一次世界大戦前からみるとだいぶ小さいのです。今のドイツはこれです。
 ドイツは戦争末期に、ドイツの首都ベルリンに東からはソ連が攻めて来る。西からはノルマンディー海岸に上陸したアメリカ軍が攻めてくる。それにくっついてイギリス軍も入ってくる。フランス軍も入ってくる。ということで、ドイツはソ連に占領され、アメリカに占領され、イギリスに占領され、フランスに占領される。さらに首都ベルリンもソ連に占領され、アメリカに占領され、イギリスに占領され、フランスに占領される。それでこんなバラバラになっている。

 ベルリンは、ソ連占領地域の中に飛び地みたいにあります。変な格好です。よく間違うのは、「ベルリンはちょうどこの占領地域の真ん中にあって、そこをベルリンの壁で分断されていた」という勘違いです。そのほうが分かりやすいけど、そうじゃないです。ソ連の占領地域の中にベルリンという首都があって、つまり今の日本の中に東京があるようなものですが、その東京が四つの国によって分割されているような状態なのです。

 それから下の地図でも分かるように、ドイツの本拠地であるプロイセンの領域は、ソ連とポーランドに分割されました。ドイツはもともとプロイセンが領土を広げたものですが、国のルーツともいうべきプロイセンの領域は今はドイツの領土ではありません。その半分は今もロシアが飛び地として持っています。ドイツ史が説明しにくく、プロイセンといってもピンとこないのはこういうところにも原因があります。

▼ドイツ分割




 アメリカの占領地域である西ベルリンを含めてソ連は本当は全部取りたいんです。だからソ連は、西ベルリン側を援助しない。物資を輸送しない。パンとか米を輸送しない。そういうことをやった。これがベルリン封鎖1948年です。
  このままだったら、西ベルリンに住むドイツ人は飢え死にしてしまう。アメリカはどうしたか。周りはソ連の占領地域だから陸上の貨物輸送はできません。トラック輸送もできない。だから空から落とすんです。つまり空輸です。これにはソ連もビックリして、いずれ封鎖を解きますが、この対立はそのまま続いていきます。

 そしてそれまでのドイツは翌年1949年には分裂して、いわゆるアメリカ側の西ドイツと、ソ連側の東ドイツに分断されてしまう。西ドイツはドイツ連邦共和国です。東ドイツはドイツ民主共和国です。そして一つの都市ベルリンのなかで、東ベルリンから西ベルリンに行かないように、1961年に壁をつくるんです。人の移動を禁止する。これがベルリンの壁です。これはこのあと約30年間ずっと人の移動を阻んできました。
 1990年のドイツ統一は、このベルリンの壁が崩れることによって実現されたものです。



【東西冷戦】 第二次世界大戦が終わっても、世界は半分は戦争状態です。いつでも戦争できるように、ソ連グループとアメリカグループにほぼ世界が割れます。
 アメリカグループはNATOという。漢字でいうと北大西洋条約機構です。結成は1949年です。戦争終わって4年しか経っていないのに、もう次の戦争の準備をしている。
 それに対して「相手がやるんだったらオレたちだってやる」と、同じ年にCOMECON、これはソ連側です。経済相互援助会議をつくる。経済という名前がついているように、社会主義圏の経済をソ連が応援する。アメリカのマーシャルプランというアメリカの経済援助に対抗する形で。

※ 第1次大戦に従軍して活躍したものの、結局軍人としては出世の道は開けなかったマーシャルは、ダグラス・マッカーサー将軍などに猟官運動をした結果、中佐から大佐に昇進します。しかし、マーシャルは部隊の統率能力が欠けていたとして、マッカーサー参謀総長によってジョージア州の第8連隊司令官を解任されますが、その6年後の1939年に、ルーズベルト大統領によって陸軍参謀総長に抜擢されます。・・・・・・(マッカーシーは)マーシャルが上官34人抜きで参謀総長に抜擢されたのは、ルーズベルト大統領の側近ハリー・ホプキンスやルーズベルト夫人の推薦があったことを明らかにしています。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P40)

※ 第2次大戦の戦いが終わってみれば、ロスチャイルド家はパリロンドンだけになっていた。・・・・・・ナポリ、フランクフルト、ウィーンの各家の消滅は、それぞれイタリアの独立運動、ベルリンを首都にしてのドイツの勃興、第2次大戦というヨーロッパ社会の大変動を背景にしていた。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P122)

※ (第2次大戦後)イギリスに代わって世界勢力になったアメリカの有力銀行が陸続と進出してきて、老舗のロスチャイルド父子銀行を尻目に、ヨーロッパの戦後復興の資金を調達した。ついで復興なった日本などから巨大な株式組織の銀行群がやってきて、これらは本来、ロスチャイルド父子銀行のようなマーチャント・バンクの領域である外債やユーロダラーの調達に進出して競合するようになった。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P126)


 さらに軍事的にはワルシャワ条約機構です。こうやってソ連とアメリカが、それぞれグループを作って敵対しだした。
 イメージとしては、大砲がどっちを向いているか。アメリカの大砲はベルリンから東側を向いている。それに対して東にあるポーランドの首都のワルシャワからは、ソ連の大砲が西側を向いている。こういう状態でにらみ合いが続いていく。
 
▼第二次世界大戦後のヨーロッパ
  


 戦争が終わってすぐにこういう状態になっていく。結局「何の解決にもなってないじゃないか」ということなんです。
 ドイツ連邦共和国ドイツ民主共和国、連邦と民主が違うだけですが、民主がついている東ドイツの方が実は民主的じゃなかった。
 北朝鮮だって、国家トップが選挙ではなく世襲制で受け継がれている国が、朝鮮「民主主義」人民共和国と民主主義を名乗っています。だから名前で判断したらダメなんです。民主主義が無条件でいいというわけではないのですが。

 アメリカやイギリスを動かしていた国際金融資本家と、共産主義国家ソ連の指導者はユダヤ思想を持った同根の人たちです。・・・・・・しかし、彼ら(国際金融資本家)は、お膝元のアメリカをまだ完全に掌握できてはいませんでした。・・・・・・アメリカ国民が健全な状態だったため、国内をさらに疲弊させる必要がありました。普通の人には理解できない発想ですが、国民が健全だと支配者を操る側は困るのです。・・・・・・
 アメリカを乗っ取る目的で作り出されたのが冷戦構造です。ソ連一国ではアメリカと対峙させるのに心許ないので、ソ連中国という二つの大きな共産国家をつくり、アメリカという自由主義圏と敵対させる構図にして、アメリカ国民の恐怖感を煽ろうとしたのです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P146)

 東西冷戦とは、米ソの二大国が世界の覇権を求めて対立したという正統派歴史学者の解釈では、とうてい真相がわからないものです。東西冷戦は、国際金融勢力が自ら樹立したソ連という国家を使って、アメリカ「国家」を解体しようと狙ったものであると、私は解釈しています。・・・・・・第2次世界大戦後、アメリカは世界の富の半分を所有するほどの超大国に躍り出ました。アメリカ国家のこのような1人勝ちは、世界支配を意図する国際金融勢力にとって好ましいものではありませんでした。・・・・・・アメリカで新自由主義が台頭してくる時期と、ソ連崩壊が始まる時期とは一致しています。その意味は、アメリカで新自由主義政策が採用されてアメリカ製造業が海外立地で空洞化するとともに、彼ら金融資本家たちのアメリカ支配力が固まったのです。・・・・・・こうしてアメリカを動かす力をつけた国際金融勢力にとって、もはやソ連の利用価値はなくなったのです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P118)

 キッシンジャーは戦時中ヨーロッパのどこかの米情報機関で働いていた。・・・・・・キッシンジャーはアメリカ陸軍に従軍し、戦後のドイツでフリック・クレーマー将軍付の運転手をしていましたが、ユダヤ財閥のオッペンハイマー家に見いだされて、イギリス外務省所属のシンクタンクであるウイルトンパークに送られ、さらに1952年にはロンドンにある世論操作研究機関のタビストック研究所で訓練を受けたそうです。・・・・・・タビストック研究所は特に民衆を戦争賛成に誘導するための集団行動心理研究で有名であり、キッシンジャーはこの研究所で別人に生まれ変わったと言われています。その後、キッシンジャーはニューヨークの外交問題評議会(CFR)にスカウトされます。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P28)

※ 1954年 ビルダーバーグ会議オランダのオクスタービーのビルダーバーグホテルで設立される。ロンドンの王立国際問題研究所(RIIA)の指示によるものとも言われます。

※ 1月から2月にかけてダボスで世界経済フォーラム、4月から5月にかけてビルダーバーグと G8、そして9月にはIMFと世界銀行との年次合同総会がそれぞれ開催される。・・・・・・2004年、ビルダーバーグは結成50周年を祝った。このクラブ組織は1954年オランダのベルンハルト殿下の呼びかけにより、同国オーステルベークのビルダーバーグ・ホテルで結成された。(5月29~31日の間、このホテルで第1回会合が開かれたことから、ビルダーバーグ・クラブと命名された)(ビルダーバーグ倶楽部 ダニエル・エスチューリン バジリコ P34)

※ ビルダーバーグ会議への出席を金で買うことはできない。これまで、多くの企業がこれを試みたが、成功していない。誰を招くかは運営委員会が決定する。英国の「ガーディアン」紙は適切な判断のもとに、「ビルダーバーグ族」をフェビアン主義者であり、かつ世界統一秩序の信奉者だとしているが、これは過去50年の秘密会議を通じて変わっていない。(フェビアン主義者は「すべての社会活動の民主的なコントロール」と称する思想を信奉する。キーワードは「人間一人一人のコントロール」。そしてこの思想は世界統一政府によって最もうまく実現されるものだとするところは、共産主義と相通じる)。
運営委委員会の関係者によると、「招待客には1人で参加することを求めます。配偶者や男女の友人を伴うことはできません。「個人秘書(つまりは、完全武装したボディガードで、たいていは米国 CIA、英国のMI6、イスラエルのモサドといった情報機関の元職員)」は、スーツケースのなかに地対空ミサイルを忍ばせていることで有名ですから、会合への出席は断っています。食事も別のホールでとります。デービッド・ロックフェラーの「個人秘書」でさえ例外ではなく、昼食を共にすることもできません。招待客がジャーナリストのインタビューを受けることは全面的に禁止されています」

完全秘密主義の雰囲気を保つために、通常3~4日間にわたる会期中、ホテルは貸し切りとなる。他の客はすべてホテルの建物から追い出され、ビルダーバーグ関係者一行のプライバシーと安全は、CIAとモサドによって確保される。ホテルの間取りに関する図面は機密扱いとなり、ホテル従業員の調査は徹底して行われる。質問によって忠誠心が試され、経歴や素性の裏付けには証拠書類の提出が求められる。政治との関わりも調査の対象になる。少しでも疑わしい点が見つかった者は誰彼構わず、会合の期間中はホテルから排除される。
そして、「黒の戦闘服に身を固めた警察官が捜索犬を従え、配達の車を1台ずつ、車体の内外を屋根から床下まで調べ上げた後、業者専用の入口まで導く。その一方で、武装した兵士が周りの林を巡回し、ホテルに入る道路には、がっしりとした体格の護衛官が耳にイヤホーンをつけて見張りに立つ。地球支配に関与する招待客を除き、ホテルに近づこうとする者はすべて追い返されるのだ」
ビルダーバーグ会議のホスト国政府は、出席者とその随行員の安全を確保するために、あらゆる措置をとる。軍隊、シークレットサービス、国家及び地方警察の出動にかかる費用も、ホスト国政府が負担する。それだけではない。世界の超エリートたちの信仰やプライバシーを守るため、私的な護衛費用もすべて負担する。会議の開催地となる国の法律や規則は、出席者に適用されない。税関はフリーパス、出入国審査も不要だから、身分証明書となるパスポートもいらない。そして、会期中はビルダーバーグ関係者を除き、誰もホテルに近づけないため、エリートたちは専属のシェフから料理人、給仕やその助手、秘書、電話係、掃除係、保安要員まで連れてくる。・・・・・・
もう一つの基準は町の規模だ(人目につきやすい大都市や好奇心の旺盛な人々を避けるため、常に小さな町が選ばれる)。小さな町にはさらに利点があり、大きな拳銃を持った「個人秘書」があれこれ聞かれることなく堂々と構えていられる。・・・・・・
各国からの参加者は、通常それぞれ3名実業界の大物筆頭格の閣僚か上院議員、そして学識経験者または一流新聞の編集長、といった顔ぶれになる。ギリシャやデンマークなどの小国には、最大2名の参加枠が与えられる。参加枠のない国、例えばメキシコは、ビルダーバーグの下部組織に当たる三極委員会に属している。ビルダーバーグ会議には普通、総勢130名が出席する。そのうち、欧州勢が3分の2を占め、残りは米国とカナダからやってくる。出席者の経歴を見ると、3分の1が閣僚と政治家、残り3分の2が産業、金融、教育、労働、そして通信などの各種事業方面からの参加者で構成されているのがわかる。参加者はほぼ全員が英語に堪能なうえ、フランス語の使用も許される。(ビルダーバーグ倶楽部 ダニエル・エスチューリン バジリコ P37)

※ 1954年、第1回ビルダーバーグ会議が開催されます。ビルダーバーグ会議は、毎年1回、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ諸国で影響力を持つ100~150人が集まり、政治経済や環境問題なども含む多様な国際問題について討議する完全非公開の会議です。オランダ女王の夫君のベルンハルト公によって創設されました。ベルンハルト公はロイヤル・ダッチ・シェルの重役でした。初代会長は後にNATO事務総長になる英国のピータ-・キャリントン卿。キャリントン卿は、チャタムハウス王立国際問題研究所 RIIA)の所長であり、ロスチャイルド系企業リオ・チントとバークレー銀行の重役を務めた人物です。(金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った 安倍芳裕 徳間書店 P202)

※ ビルダーバーグ会議は、1954年にオランダオスタービークという町にあるビルダーバーグホテルでの会合から始まりました。・・・・・・これを初回として以来、毎年6月に世界中のどこかの最高級ホテルで会合を重ねています。・・・・・・このグループの秘密ぶりは徹底しています。集まる会場になるホテルが貸し切りになるのはもちろん、部外者は一切立ち入り禁止。宿泊客だけでなく、ホテルの従業員も除外され、ホテル全室の盗聴器探査が行われます。そして自分たちの信頼する料理人、ウェイター、ハウスキーパー、重装備の警備員を連れてきて、会場になるホテルが会期中運営されます。過去のアメリカにおける会場には、ほとんどロックフェラー家所有のホテルか使用されてきました。・・・・・・マスコミが長い間まったくこの事実を報道してこなかったのは、出席者の中には多くのニュース・メディアのトップがいるからなのです。アメリカでは無名の存在だったジミー・カータービル・クリントンは、大統領選挙に立候補する前にデイビット・ロックフェラーの口利きによって、このビルダーバーグ・グループで紹介された。それによって、大統領への道が開けたと言ってよいのです。(闇の世界金融の超不都合な真実 菊川征司 徳間書店 P143)



【アジアの独立】 では日本がイギリス・フランス・オランダを追い出したアジア諸国を、ザッと見ます。下の地図からいきます。

 まず日本がオランダを追い出した地域がインドネシアです。ここはオランダの植民地だった。戦後、オランダが日本が負けたから戻って来ようとすると、インドネシア人は「オランダは要らない」という。それで独立戦争が起こります。4年間戦って独立を勝ち取ります。インドネシアがオランダに勝つ。10年前だったら考えられないことですが、戦争の前と後でこんなに変わります。その独立運動のリーダーがスカルノです。この人の嫁さんが誰だったか。今はテレビタレントになって、よくテレビに出てる。デヴィ夫人です。


インドネシアが世界一の親日国である理由



 次はフィリピンです。ここはアメリカの植民地だった。ここは独立します。アメリカは独立を認める。しかし政治・経済に支配力を維持する。アメリカ大好きの大統領マルコスが約20年ほぼ独裁政治をして、そのあと民主革命が起こって国外に逃げていった。そこまで行くのに20年ぐらいかかります。
 次はインドです。これはあとで言いますけれど、ここはイギリスの植民地だった。ここはいろいろモメますが、独立します。
 次はミャンマーです。昔はビルマといった。ここもイギリスの植民地だった。ここも独立します。
 次はカンボジアです。インドシナ半島にある国です。ベトナムの西側にあります。ここはフランスの植民地だった。カンボジアもフランスの植民地だった。ここも独立していく。
 次がベトナムです。フランス植民地のメインであった。だからフランスはここを独立させまいとして必死で戦う。だからこのあとでアメリカに応援してもらうんです。ここからが泥沼の戦いです。決着がつくまでに、このあと延々と30年かかります。米軍がとてつもない枯葉剤とか、遺伝子まで組み替えるような毒薬を蒔いて行きます。そういうアメリカの戦闘機が飛び立つ基地が、実は沖縄の米軍基地なんです。
 最後にマレーシアです。ここもイギリスの植民地だった。ここは独立するまでに10年ほどかかりますが、1957年に独立します。

 10年たってふと見わたすと、東南アジアからほとんどの植民地は無くなった。欧米列強は、本当は植民地を独立させたくなかった。だから戦争せざるをえなかった。
 しかし彼らはすでに日本軍から追い出されていた。それを見た現地の人は「オレたちもできかもしれない」と思った。そして独立を勝ち取った。この太平洋戦争にはそういう一面があります。
 現地の人たちは彼らが逃げていくのを見た。絶対的存在だとそれまで思っていたヨーロッパの兵隊たちが逃げていった。それを見ていた彼らは「オレたちにもできる」と思ったんです。国民が分断されず、一丸になればできるんです。


「日本は謝罪を必要とすることなどしていない」外国人が語る真実!世界各国の要人の証言に衝撃!




【インドとパキスタン】 では問題はインドです。あの巨大なインド。インドには宗教が二つあった。ヒンドゥー教とイスラーム教です。彼らはいっしょに独立することができなかった。ヒンドゥー教徒はインドをつくり、イスラーム教徒はパキスタンをつくって別々に独立した。だからこの二つは今に至るまで非常に仲が悪い。これが他人事でないのは、今それそれが対立してを持っているのです。まずインドが核を持つと、パキスタンは「隣が核を持ったら恐ろしくてたまらないから、オレも持つんだ」といって核保有国になった。

  アメリカはそれに対して何も言いません。なぜか。アメリカはインドを押さえるために・・・・・・インドはソ連寄りでした・・・・・・パキスタンを利用しているようなところがあります。その証拠には、パキスタンに核を認めます。その一方で、イランや北朝鮮に対しては厳しく核を禁止しています。アメリカは自分の都合で核を黙認したり、逆に禁止したりしています。第一次大戦中のイギリスの二枚舌外交はこういうところでアメリカに引き継がれています。こういうのをダブル・スタンダード(二重基準)と言って、武力を持つ大国がよく使う手です。しかしこれをやられると多くの国が迷惑します。

 インドの中心はヒンドゥー教徒です。彼らは、本当はイスラーム教徒といっしょになって一つのインドとして独立したかった。
 インドはイギリスから独立しようとします。イギリスとは対立します。インドは大国だからアメリカとの仲はあまりよくないです。それにアメリカとイギリスは同じ仲間です。だからアメリカとイギリスは、インドとは仲が悪くて、逆にパキスタンびいきです。なるべくインドの力を削ぎたいのです。
  だから戦後のインドは反米的です。パキスタンはここで応援してもらったから親米的です。日本も戦後は180度変わって親米側です。米軍に占領されてからずっとそうです。
 インドの指導者にはネルー、パキスタンにはジンナーという指導者が出ます。
  この二つの国は今でも仲が悪くて、今でも領土問題に決着がつきません。これがカシミール問題です。これを引きずったまま70年間経っています。未だに国境は不明です。



【インドシナ戦争】 次はベトナムです。ベトナム独立までには戦争が二つあるんです。場所は同じベトナムなのですが。
  前半がベトナムが独立を目指してフランスと戦う戦争、後半がフランスがアメリカを引き連れてきて、そのアメリカとベトナムが戦う戦争です。後半の戦争がベトナム戦争です。
 前半のフランスと戦う戦争はインドシナ戦争という名前がついています。約10年間、1946年から1954年までがインドシナ戦争です。ベトナム対フランスの戦いです。フランス植民地だったから、独立しようという戦争です。

 第二次世界大戦が終わった1945年に、ベトナムは独立を宣言します。リーダーはホー・チ・ミンです。
  このインドシナ戦争は、ベトナムとフランスの戦争です。しかしこの戦争は、フランスが当然強いだろうという予想に反してベトナムが強かった。ベトナム優勢です。
 これはまずいということで、ここでアメリカがフランスを応援する。そこからとんでもなく泥沼化していきます。一旦、停戦協定であるジュネーブ協定が結ばれますが、完全独立はまだまだです。今度はもう一回アメリカと戦わないといけない。

 そういう意味では、フランスに勝ってさらにアメリカに勝った国は、ベトナム以外にはない。あのアメリカが出てきたところで、ふつうはこれは独立は無理だなと思う。これはゲリラ戦です。殺されることを恐れる兵士だったら戦えない。もう地下道を何百キロと掘る。何十メーターじゃない。何百キロの地下トンネルです。ゲリラもやるし、汚いこともやる。ベトナムは必死です。
  ベトナムは、一旦アメリカからこのあと南北に分断させられます。朝鮮と同じように北と南に。南をベトナムから分断させて、南をアメリカが援助していく。こういう形で1960年代まで約10年戦いが続きます。
 
▼アジア諸国の独立



【地図】 この東南アジアの地図で見ると、植民地として一番多かったのはイギリス領です。イギリスはインドもセイロンも領有していた。その一部がパキスタンになって分離独立した。
  それからアフガニスタンもイギリスです。最近でもアメリカの空爆で人がよく死んでいるところです。
  それからビルマつまりミャンマーもイギリス領だった。
 マレーシアもイギリスだった。マレーシアの飛び地、こんなところボルネオ島、今のカリマンタン島にもある。
 さらにサウジアラビア、こんなところにもある。
  そして、2003年にアメリカとの戦争でつぶされた国、イラクもイギリス領です。
 それからヨルダンです。
 もう一つ決定的なのはここのイスラエルです。ユダヤ人の。

 次にフランス領です。シリアとレバノンはフランス領だった。植民地だったんです。カルロス・ゴーンという日産自動車の社長が捕まえられた。あの人はフランス人になってますが、もともとはそうじゃない。二重国籍です。出身地はレバノンです。なぜレバノン人がフランス人になっているのか。植民地だったからです。そういうつながりで彼はブラジルを経てフランスに行ったんです。その人が日本に乗り込んできて、日本企業であった日産の社長になっている。そして悪いことをして捕まった。
 ベトナム、ラオス、カンボジア、ここもフランス領です。

 オランダ領はこの広大な島々インドネシアです。メインはジャワ島、スマトラ島です。
  これだけの植民地が第二次世界大戦後に、ほぼすべて独立国になった。


コメントを投稿