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「授業でいえない世界史」 15話 イスラム世界 ファーティマ朝~マムルーク朝、アフリカ

2019-02-08 23:43:06 | 旧世界史6 イスラーム世界

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ファーティマ朝】

 それから、アッバース朝も100年ぐらい経つと、帝国が広すぎてとても支配できない。周辺で地方政権が分裂する。
 909年、エジプトファーティマ朝が分裂します。アッバース朝が嫌いな国です。ここで新しい国を作って、その時に新しい都もつくる。それがカイロです。今でもエジプトの首都です。
 ここは同じアラブ系の国ですが、シーア派の国です。国の名前のファーティマというのはムハンマドの娘で、その娘と結婚したのがシーア派が正統とする4代カリフのアリーです。つまりアリー支持派です。アリーを支持するグループがシーア派です。それにちなんだ国の名前です。

 イスラーム帝国は広すぎる。だから辺境地帯で地方政権が誕生してどんどん分裂していく。広げるときはいいけど、広すぎると守りが大変です。異民族が侵入してくるんです。


【トルコ人の移動】

 今度は中国史と関わります。中国史で中国の北方民族、馬に乗った民族、彼らは動くのは速い。1000キロ、2000キロぐらい平気で移動する。彼らが移動して、中央アジアからこのイスラーム化した西アジアに入ってくるんです。イスラーム帝国に入ってきて国を建てていく。彼らがトルコ人です。
 中国史では何と言っていたか。漢字で出てきた。中国史では突厥と言っていた。騎馬遊牧民です。彼らは馬に乗っていて戦いには強いから、それを見込まれてアッバース朝の王様から軍人に雇われる。彼らも好んで軍人になっていく。

▼トルコ人の拡大


 しかし彼らは今でいう軍人と違って、王様の奴隷として軍人になっていきます。奴隷軍人なんです。しかも王様と緊密なつながりを持つエリートです。イスラーム圏にはこういうシステムがあります。横文字で言うと、彼らのことをマムルークという。
 奴隷というとものすごく悲惨な生活をしているような気がしますが、実はそれはヨーロッパの奴隷のイメージであって、ここの奴隷はけっこうお金をもっていて豊かです。我々日本人の持つ奴隷のイメージとはかなり違います。そこには血の通った主人と奴隷の関係が成り立ちます。
 だからこれは奴隷ではなくて、日本で言えば養子のようなものだという人もいます。確かにそうとらえた方が分かりやすいです。しかし教科書には奴隷と書いてあります。その奴隷をマムルークと言います。

 ただ優れた軍人は他の王様も欲しいから、奴隷を売ってくれとなる。そうなると自分の意志とは関係なく、売られていきます。売られる人間というのは、自由人ではなくてやはり奴隷だということで、雇い主から雇い主に売られていたので、やはり奴隷かな、という感じです。
 だから奴隷というのは、その生活の悲惨さを言うのではなくて、お金で売買されるかどうかが基準になるようです。他人の意志でお金で売買されるとは、自分の意志は無視されるということです。つまるところ人間と奴隷との差は、その生活水準ではなくて、個人の意思が尊重されるかどうかにかかっているようです。


 ただ現在でもこのスタイルを取っている職業人はいます。すぐれた野球選手は、球団のオーナーから見ると戦力として非常に欲しいから、高額でトレードされます。トレードとは売買です。5億とか10億で売買される。これがトレードです。イスラム圏の奴隷は、こういうプロ軍人として、今のプロ野球選手のイメージに近い。オレはあの球団には行きたくないと言っても、オーナーが移籍しろと言えば、行かざるをえない。

 サラリーマンはそういったことはない。例えば私が、ある企業に勤めていているのに、別の会社に移れと社長に言われても、私はそれを断ることができます。正当な理由なく、一方的に解雇されることはありません。
 ここにはそういう権利はない。そういう奴隷軍人です。しかし生活は豊かです。権力も持っている。武力も持っている。だから彼らが腹を立てると怖い。奴隷が主人の国を乗っ取って、別の国を建てたりします。

 

▼11世紀のイスラーム世界





【セルジューク朝】

 彼らトルコ人がそのマムルークになって雇われているなかで、その一方で中央アジア出身のトルコ人たちをまとめた国が建てられた。これが1038年です。セルジューク家が建てたからセルジューク朝という。彼らは中央アジアから入ってきた人たちですが、もともとの出どころはモンゴル高原です。中国史で出てきた騎馬遊牧民の突厥です。
 1055年、セルジューク朝のトゥグリル=ベクがバグダードに入城し、先に侵入していたブワイフ朝を滅ぼします。これはアッバース朝カリフの要請に応える形で入城します。

 そしてかなり大きい国になります。東は中央アジアから、イラン・イラク、そして西はアナトリアまで。この西のアナトリアを領有したことが、今のトルコ共和国の起源になります。このアナトリアはそれまでビザンツ帝国の領土だった。そこにセルジューク朝が入ってきたことが、ヨーロッパ人の恐怖心を高め、このあとでいう十字軍の征服活動になります。
 ただしアラビア半島は砂漠だから、20世紀に石油が出るまでは誰も欲しがりません。

 つまりアラブ人の世界に、東方の騎馬遊牧民のトルコ人が入ってきたということです。そして奴隷からのし上がって支配者になっていく。
 言葉も顔もアラブ人とは違うんです。しかし千年たった今では血が混じり合って、アラブ人やヨーロッパ人に似た顔になってますが、もともとはアジア系の人々です。


 彼らはアッバース朝から実権は奪っても、カリフは名目的に飾っておいた。そしてそのカリフからスルタンという称号をもらった。これを日本語に訳すと「統治者」という。つまり宗教的権威とは切り離して、政治的な権力だけをカリフから認められたわけです。

 こういうふうに、アラブ人に代わってトルコ人が支配層になる。これが11世紀です。

 この頃のヨーロッパでは・・・これも後で言いますが・・・キリスト教のローマ教会がイスラーム帝国と戦争をやると宣言して、参加するものこの指止まれというと、ヨーロッパ人がいっぱい止まりだして、イスラームに対して征服活動をしだした。オレがイスラームの土地をぶんどってやる、というんですよ。

 1096年からの約200年間、7回にわたって攻撃を仕掛けます。彼らヨーロッパ軍のことを、胸にキリスト教のトレードマークつまり十字架のマークを上着につけて征服に行ったから、彼らは十字軍と呼ばれます。
 これはヨーロッパ勢です。彼らはキリスト教が発生したところつまりエルサレムを一時的に奪います。ここはこの時イスラーム教徒の支配地になっています。

 こうやって、西アジアのイスラーム地域には、東からはトルコが来るわ、西からはヨーロッパのキリスト教徒が攻めて来るわ、グシャグシャになる。



【アイユーブ朝】

 次の12世紀になると、エジプトにまた別の王朝ができる。これをアイユーブ朝という。建国は1169年です。建国者はサラディンという武将です。本名は、サラーフ・アッディーンというんだけれども、これを縮めたあだ名がサラディンです。サラーフ・アッディーンの短縮形のようなものです。
 1187年、サラディンは十字軍と果敢に戦い、エルサレムを奪い返します。それでヨーロッパに名を知られます。しかしこれで終わらない。
 ここまでが12世紀です。



【イル=ハン国】

 次は13世紀です。1200年代です。中国史は先にやりました。モンゴル高原から中国を征服して、この西アジアまで征服してくるのがモンゴルです。中国方面からは2回目です。1回目はさっき言ったトルコです。そして2回目が今から言うモンゴルです。
 モンゴル人は、アジア大陸を征服して、ここにモンゴルの分家をつくる。これがイル=ハン国です。1258年です。これがアッバース朝のカリフの息の根を止めます。ほんとに殺害する。実権を失ったとはいえ、まだ生きながらえていたアッバース朝はこの時に滅亡します。
 ここでモンゴルが攻めてきた支配したから、イスラーム教は禁止されたのかというと、これが全く逆です。支配者層になったモンゴル人自らが、このイスラーム教の教えの圧倒的な厚みに感化されて、イスラーム教徒になっていきます。支配する側が支配される側の宗教に染まっていく。これがモンゴルのイスラーム化です。



【マムルーク朝】

 これと前後して、エジプトには1250年マムルーク朝ができます。マムルークとは、さっき出てきた奴隷という意味です。彼らはまたここでも王朝をつくる。そしてここに攻め入ろうとするモンゴル軍を撃退していく。その後、イル=ハン国は、約100年後の1393年にティムールによって滅ぼされます。


 まとめると、今までいろんな国が出てきたんだけど、覚えようとしてもなかなか覚えきれないというのが実情ですね。

 出てきた国を確認すると、ウマイヤ朝からアッバース朝になった。
 10C、エジプトではファーティマ朝が分裂した。
 11C、アッバース朝をトルコ系のセルジューク朝が占拠した。

    するとヨーロッパから十字軍が攻めてきた。
 12C、エジプトにアイユーブ朝ができた。
 13C、モンゴルが攻めてきて、イル=ハン国ができた。
    エジプトでマムルーク朝が対立した。
 14C、ティムールが攻めてきた。
 グチャグチャですね。西からも、東からも敵が押し寄せてくる。西アジア地域の宿命のようなものです。メソポタミア文明の頃から、これは変わりません。



【イスラーム文化】

 いろんな絡みで、いろんな宗教と接触し、キリスト教勢力も来る。中国の遊牧民も来る。そうしながらイスラーム文化圏が、いろんな文化を取り入れていくわけです。
 結局、どんな敵から攻められても、戦争には負けても文化的には勝ったんです。モンゴルだってイスラーム帝国に戦いでは勝っても、イスラーム教を受け入れていく。だからイスラム教はますます栄える。

 この時代は、ヨーロッパよりもこのイスラーム世界のほうが文化が高い。頭もいい、計算もできる、字も書ける。ヨーロッパ人は字が書けない、計算できない、まず紙がない。

 しかしここには紙がある。紙があって、字が書けて、計算ができるから、契約ができる。ということは商売ができる。金貨や銀貨のお金だって当然あります。このころのヨーロッパでは、まだお金は一部にしか流通していません。
 イスラム商人たちは、そのお金を使って、何百キロも離れたところで商売をし、中にはガッポリ儲ける商人たちも出てくる。これが船乗りシンドバットのモデルです。

 船乗りシンドバットは物語上の人物ですが、彼らは実際に風向きもちゃんと知ってる。季節によって風向きが違う。これを利用すれば貿易ができて、大儲けができる。船が1年を通じて移動できるんです。
 この季節風の知識を得て、彼らが操ったイスラムの船をダウ船という。この船乗りがシンドバッドですよ。
 アラビアンナイト、これがイスラムを代表する物語です。日本では千夜一夜物語といいます。


 しかもギリシャの学問は、すぐにヨーロッパに伝えられるんではなくて、このイスラム世界で一旦アラビア語に翻訳されて保存されているんです。彼らイスラーム教徒がまずギリシャ文化を学んだ。その500年もあとになって、ヨーロッパでやっと紙ができて、ヨーロッパ人が勉強しはじめる。まだこのあと500年もかかるんだけど。 

 アラビア語をヨーロッパ人が、自分たちの書き言葉であるラテン語に翻訳して、やっとヨーロッパ人がギリシャ人が考えたことを読めるようになるんです。こうやってギリシャ文化がヨーロッパに伝えられた。ここからヨーロッパが動き出して、やっとイスラームの水準に追いつく。
 それまでのヨーロッパは遅れた地域だったのに、それが追いついたとたんに、なぜか爆発的に発展していく。
 イスラーム世界は、これで終わります。



【アフリカ】

 次はアフリカです。世界史はあっちこっち行きます。アフリカは野蛮な土地ではない。ちゃんと国があります。今なぜ遅れた地域になっているか。
 これは後で言いますが、ヨーロッパ人が荒らしまくって、アフリカの黒人社会を壊したからです。この最たるものが奴隷貿易です。アフリカの働き手の若手の多くが、奴隷として連れ去られた。


 これは前に言ったイスラーム圏の奴隷と違って、本当に悲惨です。彼らは今でいう拉致にあう。突然後ろから羽交い締めにされて、手を縛られてブタのよう船に入れられて、大西洋を渡ってアメリカに連れて行かれた。この後500年後におこることです。

 アフリカにやってくるのはヨーロッパ人です。その前はアフリカにもちゃんと国がありました。

 ガーナ王国マリ王国。ちゃんと文明も栄える。国もあった。そのほかにもあるんですが、代表してこの二つ。

 ガーナ王国の後、14世紀にマリ王国。ここも非常に繁栄して、金があふれるほどとれた。そういう王国もでてきます。
 ポルトガル人が、スペイン人が、そしてイギリス人がやってくる。これでアフリカが変わる。

 アフリカ大陸の自然環境は、赤道から北にあるのがサハラ砂漠です。北はイスラーム圏です。古代ではエジプト文明が栄えた。

 よく赤道をサハラ砂漠のまん中あたりに引く人がいますが、そうじゃない。サハラ砂漠の南に赤道はあります。赤道直下は熱帯雨林で、さらにその南北に砂漠があります。これは地理の基本だったですね。

 商業が栄えたのは、アフリカの西ではなくて、アフリカの東のほうです。東岸の海岸です。なぜなら、この東海岸にイスラム商人の船乗りシンドバットたちが、インド洋を西に東に貿易をしていくわけです。インド洋の西の突き当たりがアフリカの東岸です。儲かる商品があれば、何でも売り買いしていく。

 だからここらへんのアフリカのもともとの言葉はバンツゥー語といいますけれども、これにアラビアの商人の言葉が混じり合う。そして別の言葉になっていく。これがスワヒリ語です。東海岸にもジンバブエなどの国ができます。

次はヨーロッパに行きます。
これで終わります。ではまた。