天下人たちの時代 -信長・秀吉・家康-
2006年7月22日から9月3日
徳川美術館
書状はとりあえず飛ばして、目に付いたものだけ。
三英傑の人となり
織田信長
4 唐物茶壺 銘 金花 大名物 織田信長所持 南宋- 元 13-14世紀
5 唐物茶壺 銘 松花 大名物 同上所持 南宋-元 13-14世紀
安土城を完成させた織田信長に、各地からさまざまな名物が贈られた。中でもとりわけ信長を喜ばせた品が、当時とても有名な名物であった金花・松花の茶壺であったと記録されている。 特に「松花」は現存する茶壺の中で、最も数多く記録に登場し、茶壺としては唯一重要文化財に指定されている。
茶壷なるものは、博物館でまじまじみたのは初めて。高さ30センチもあろうかという壺です。大きさに吃驚です。
豊臣秀吉
9 豊臣秀吉朱印状 刀狩令 天正十六年七月八日付 桃山 天正16年<1588> 名古屋大学文学部
歴史を感じます。
10 真珠付純金団扇 豊臣秀吉所用 朝鮮王朝 16世紀
11 豊公遺宝図略 山内英司氏寄贈 江戸 天保3年<1832>
「豊公遺宝図略」(真静編 呉景文・岡本豊彦画 天保3年(1832)刊2冊。豊臣秀吉の遺宝の図集。兜、鎧、太刀掛、表袴、王冠、茶道具などが載っている。)に掲載された「真珠付純金団扇」。赤い団扇です。秀吉の派手好きがよくわかります。翌日に京都国立博物館で、同じく「豊公遺宝図略」から素文透柄鏡・菊桐紋蒔絵柄鏡箱(京都・妙法院(寄託品))を拝見。「豊公遺宝図略」は有名な図録のようです。
徳川家康
文書に見る「天下人」のしるし
さも目出度き御時代かな
40重文 豊国祭礼図屏風 六曲一双のうち 江戸 17世紀
慶長9年(1604)8月に行われた、秀吉七回忌の祭礼の情景を描く。右隻は豊国神社の社頭における田楽猿楽と武者行列、左隻は方広寺大仏殿を背景に、上京・下京の町衆が揃いの華美ないでたちで、風流踊に熱狂する光景を描いている。祭礼の計画を進めたのは、秀吉の歿後、天下人となった家康であった。天下人によってもたらされた安定と平和を、世に大きくアピールするねらいがあった。
翌日に京都国立博物館で、重文 豊国祭礼図屏風 狩野内膳筆も拝見している。比較などについては別項で。
茶の湯 伝統と新風
41 太閤記 巻七 小瀬甫庵著 二十二冊のうち 江戸 万治4年<1661> 名古屋市博物館
42 古芦屋姥口雹釜 名物 豊臣秀吉・徳川家康所持 室町 15世紀
実にたっぷりとした、古芦屋の名釜である。武野紹鴎が所持し、当時の茶書や名物記に「筋釜」として登場している。『玩貨名物記』所載。 これも古芦屋の、滑らかな地肌の結構な金味が見所である。 ただ現状では、展示されている側の裏がかなり傷んでいる。それだけでなく、釜の銅より下は、後世の補修になる物と思われる。明らかに肌の調子が違うので、すぐに分かるだろう。先に「実にたっぷりとした」と書いたが、釜の胴より下が不自然に高く大ぶりになったのはこの為であり、当初の釜はもっと扁平の、自然な形をしていた筈である。 従って、この釜の見所は、胴上のオリジナルの部分であると言えるだろうか。後世の補修部分と、当初のオリジナルの部分とを比べれば、オリジナルの、古芦屋の肌合の素晴らしさが一目瞭然であろう。(名古屋茶道大鑑より)
43 竹茶杓 銘 ひがし山ごぼう 伝豊臣秀吉作 岡谷家寄贈 桃山 16世紀
44 古瀬戸肩衝茶入 銘 横田 大名物 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康所持 室町 15世紀
45 朱塗四方盆(若狭盆) 名物 明 16-17世紀
名物古瀬戸茶入の双璧と称賛されているのが、「鎗の鞘」と「横田」である。「横田」は所有者の名と思われるが不明である。大振りで背の高い寸胴形で、胴の中ほどに斜めに大きな篦痕(へらあと)がある。総体に渋紙釉がかかり、梨子地状に銀色に発色する斑点が無数にあり、荘重な味わいの中に華やかさを含んでいる。
花兎文古金襴(はなうさぎもんこきんらん)(角倉金襴類裂)の仕覆が附属する。足利義政、義昭、織田信長を経て豊臣秀吉に伝わり、天正13年(1584)小牧長久手の戦いの和議の際、秀吉から家康に贈られ、更に初代義直に譲られた。
小牧長久手の戦いの和議の際、秀吉から家康に贈られたという逸話は、凄い話ですね。
47 古瀬戸肩衝茶入 銘 筒井 大名物 筒井順慶・徳川家康所持 室町 15世紀
48 朱塗四方盆 明 16-17世紀
49 竹の子文志野筒茶碗 歌銘 玉川 岡谷家寄贈 桃山 16世紀
柔らかい志野(しの)独特の釉の中に、紅の竹の子が幻想的に浮かび上がっている。向付(むこうづけ)として作られたものであるが、あまりにもその姿が端正で美しいため、茶碗に用いられた。この茶碗は、かなり灰の混ざった長石釉(ちょうせきゆう)が薄くかけられ、文様に古雅なところがあり、製作年代は比較的古いと思われる。銘の「玉川」は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の第三子である小堀権十郎による命名で、「新古今和歌集」巻第六の「冬歌」に収められている下の歌による。岡谷家寄贈。
夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥なくなり
能因法師
50重文 織部筒茶碗 銘 冬枯 岡谷家寄贈 桃山 16世紀
筒形の茶碗である。桃山時代の着物や漆工品に多くとり入れられた「片身替り(かたみがわり)」の意匠を思わせるかのように、黒釉と白釉とにかけ分けられている。黒釉の部分は、文様が削り出され、白釉の部分には鉄絵で描かれている。抽象化された文様は、世界デザイン史上の革命とも云え、いかにも冬の野原に枯れ残った草木を髣髴とさせるとも見える。底部にも白釉がかけられ、高台内に「Q」と読める印が捺してある。岡谷家寄贈。
暮らしを彩る桃山のデザイン
59◎ 紫地葵紋付葵の葉文辻ケ花染羽織 徳川家康着用 桃山-江戸 16-17世紀
この羽織は「胴着」と称されて、四代吉通が、幼年のときに着用したとの記録がある。だが文様や仕立て寸法、染の技法からみて、「駿府御分物」の中から選んで吉通が愛用した羽織と解される。家康着用の羽織は、日光東照宮や上野東照宮にも秘蔵されるが、本品はその中でもデザイン、保存状態とも抜群である。紫地に染め抜かれた葵の葉は、色とりどりに美しく、その配置も妙を得ている。縫い絞りによるおおらかな表現と、引きしまった葉柄の線にみられる繊細さなど辻ヶ花染の技巧を余すところなく駆使した代表作である。(文化遺産オンライン)(画像は
文化遺産オンラインに)
61 根芹に雪輪小紋筒小袖 徳川家康着用 桃山-江戸 16-17世紀
65 薄浅葱地雪持桐文麻浴衣 徳川家康着用 桃山-江戸 16-17
芸の道 文の道
武将が愛した名刀
命をかけた戦いの現場
89 長篠合戦図屏風 六曲一隻 江戸 18世紀
鉄砲隊が描かれています。
松平忠吉と関ヶ原の戦い
武将の横顔―戦いの文書を読む
105 徳川家康三方ヶ原戦役画像 桃山-江戸 16-17世紀
家康の経験した負け戦とは三十一歳に当たる元亀三年(一五七二)十二月、三方ヶ原で起こった武田信玄との合戦である。家康は後年、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられる。威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴し切った家康の表情が巧みに描かれており、別名「顰(しかみ)像」とも呼ばれている。(文化遺産オンライン)(画像は
文化遺産オンラインに)
先週、テレビの「功名が辻」で紹介されたばかりだったので吃驚。
戦いから武芸へ―乱世の終焉