徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

Chardin 1699-1779 シャルダン展-静寂の巨匠

2012-09-27 | 絵画
9月27日 
  • #46 Chardin 1699-1779 シャルダン展-静寂の巨匠
    @三菱一号館美術館

    WEBの解説による日本でも何点かは紹介されていて見ているはずという。全く記憶にない。
    オランダ絵画のようにひたすら写実的という訳ではないから,決して素人受けはしないだろう。
    光の表現という面でもフェルメールに軍配があがりそうだ。質感という点では雰囲気はある。主題もシンプルなだけに見飽きない。わびさびの世界だ。

    フェルメールの場合と同じように、シャルダンは没後に忘れ去られ、19世紀中盤に、奇しくもフェルメールを再評価した評論家のトレ=ビュルガー(1807-1869)により再評価されたという。さもありなん。

    驚くべきは、このロココの時代にこのような絵画を描いてフランスで生活できたという事実。


    ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)は、フランスを代表する静物・風俗画の巨匠です。わが国で初めてのシャルダンの個展となる本展は、ルーヴル美術館名誉総裁・館長ピエール・ローザンベールの監修により、厳選した38作品のみで構成されます。
    シャルダンの最も美しい作品と言われる《羽根をもつ少女》、シャルダンが描いた唯一の花の絵《カーネーションの花瓶》、晩年の静物画の最高傑作であり、個人所蔵のため普段は非公開の《木いちごの籠》を含む26作品が日本初公開となります。
    また、1740年にシャルダンが国王ルイ15世に謁見を許され献呈した《食前の祈り》は、その後各国の王侯貴族が競って入手しようとし、注文が殺到しました。同主題の作品は4点のみ現存し、そのうちロシアの女帝エカチェリーナ2世が愛蔵した作品と、シャルダンが亡くなるまで手元に残した作品が出品されます。
    食前に捧げる感謝の祈り(ベネディシテ)の途中で言葉に詰まってしまった幼い子、それを見守る母と姉の視線が交わされる瞬間を描いた《食前の祈り》のように、本展は、日常生活のなかの静寂あふれる描写が評価されたシャルダンの秀作を纏まった形で鑑賞する極めて贅沢で稀有な機会となるでしょう。
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    2012年9月の記録(その他)

    2012-09-25 | 美術(Index)
    9月15日
  • #41 日中国交正常化40周年記念「日中美術展―東洋美術の未来を探る―日本画と工筆画」
    @東京美術倶楽部

    工筆画とはほとんど日本画だった。

    9月25日
  • #45 特別企画展「国宝 古今和歌集序と日本の書」@大倉集古館
     日本の書は東京国立博物館と特殊東海製紙株式会社の所蔵品。視た作品ばかりで、別のところから、もう少し別の作品も借りて並べてもらえれば。
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    琵琶湖を巡る近江路の神と仏 名宝展

    2012-09-25 | 美術
    9月25日
  • #44 琵琶湖を巡る近江路の神と仏 名宝展(前期) @三井記念美術館

    素晴らしかった。

    重文 善水寺 誕生釈迦仏立像 奈良時代
    重文 石山寺 如意輪観音半跏像 平安時代
    重文 園城寺 不動明王坐像 良海発願 仏師盛忠作 平安時代 長和3年(1014);体内銘あり。仏師盛忠基準作例。サクラの一材から手先までを彫出し、造像当初からの光背が残る。
    重文 葛川明王院(かつらがわ) 千手観音立像 平安時代;葛川明王院の本尊(両脇侍に不動明王・毘沙門天を従える)
    重文 石山寺 大日如来坐像 快慶作 鎌倉時代;石山寺多宝塔の本尊、面部裏に仏師快慶の墨書銘。快慶の早い時期の作で、溌剌とした顔付き、バランスの良い体軀など極めて美作
    重文 長命寺 地蔵菩薩立像 栄快作 鎌倉時代 建長6年(1254);台座裏の墨書銘
    重文 西教寺 薬師如来坐像 鎌倉時代;もと京都・法勝寺の旧仏と伝わる。

    重文 飯道寺(はんどうじ) 十一面観音立像 平安時代
    重文 石部神社(いそべじんじゃ) 厨子入薬師如来坐像 平安時代;
    重文 建部大社(たけべたいしゃ) 女神坐像(じょしんざぞう)平安時代

    重文 桑実寺(くわのみでら) 桑実寺縁起 土佐光茂(とさみつもち)筆 室町時代;室町幕府第12代将軍足利義晴発願


    <パネル展示>「神体山と近江の神々 ―八王子山・三上山・竹生島―」

    国宝 聖衆来迎寺 六道絵[等活地獄図(とうかつじごくず)]鎌倉時代
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    アントワープ王立美術館所蔵 ジェームズ・アンソール

    2012-09-21 | 絵画
    9月21日
  • #43 アントワープ王立美術館所蔵 ジェームズ・アンソール-写実と幻想の系譜-
    @損保ジャパン

    ENSORは見そびれてばかりで、はじめてまとまって見れる。
    思えば、数年前、パリで開催されていたENSOR展も公務員ストで見そびれた。
    アントワープ王立美術館も、先月工事中だった。アントワープで見れなかった作品が見れなかった作品の一部が見れる。
    それにしても、ブッリュセルの王立美術館でも近代絵画は見そびれたのは、返す返すも残念。


    今回は、
    ジェームズ・アンソール《オステンドの昼食後(またはオステンドの午後)》1881年
    ジェームズ・アンソール《陰謀》1890年
    ジェームズ・アンソール《首吊り死体を奪い合う骸骨たち》1891年
    ジェームズ・アンソール《絵を描く骸骨》1896年頃
    ジェームズ・アンソール《イーゼルに向かう自画像》1890年頃
    など

    ペーテル・パウル・ルーベンス《ミネルヴァ》1630年
    レオン・フレデリック《ふたりのワロン地方の農家の子ども》1888年
    ピーテル・ブリューゲル(子)《七つの善行》1616年以前
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    ドビュッシー 、音楽と美術 ー印象派と象徴派のあいだで

    2012-09-16 | 絵画
    9月16日
  • #42 オルセー美術館、オランジュリー美術館共同企画
    ドビュッシー 、音楽と美術 ー印象派と象徴派のあいだで
    @ブリジストン美術館

    ドビュッシー の音楽のリズム感、色彩感が、10章の絵画を見て、すこし分かったような気が。


    クロード・アシル・ドビュッシー(1862-1918)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスを代表する音楽家です。その作品は、伝統的な楽式・和声を超えて、自由な音の響きを重視した感覚的な印象を表現する革新性によって知られています。
     音楽史上でドビュッシーを最初に「印象派」と呼んだのは、1888年末のフランスの音楽アカデミーでした。ドビュッシーの2番目のローマ留学作品をおとしめることが目的だったようです。かならずしも美術史上の印象派との関連からそう呼んだのではなく、アカデミックな伝統的手法を無視した作曲態度を非難するためだったのです。印象派の画家たちにとってはむしろ名誉なことだったでしょう。
     現在の音楽史の通説では、ドビュッシーは象徴派に位置しています。歴史的な流れからすれば、美術の場合も音楽の場合も、印象派のつぎに登場するのは象徴派です。印象主義によって写実主義が完成したと考えるならば、その後を行く前衛芸術は反写実主義を標榜せざるをえません。象徴主義はその急先鋒のひとつです。しかし、印象派の代表者モネの例にみられるように、印象主義を究極的な地点にまで追求すると象徴的な表現に到達します。つまり、印象派と象徴派とは、反発する面と通底する面があるのです。画家のワシリー・カンディンスキーは、ドビュッシーについて、つぎのように記しています。

     ドビュッシーのように最も現代的な音楽家たちは、おおむね自然から印象を借り出してきて、それを純粋に音楽的な形式をとった精神的イメージに変容させる。そのためドビュッシーは往々にして印象派の画家たちと比較された。 印象派の画家と同じ方法で、彼は自然を自由に翻案して、極めて個性的な曲を作る、と主張されているのだから。しかし、この定義だけでドビュッシーの重要性を説明できると言い張るのは無理があろう。 印象派とのこのように共通点があるものの、彼は心の内側にあるものと切に向き合ったのであって、そのため、作品の中には、現代人の魂のひび割れた音、そのあらゆる苦悩と神経の慄きの音をすぐさま聴きとることができる。
    カンディンスキー『芸術における精神的なもの』1912年より

     ドビュッシーが活躍した時代は、まさに印象主義と象徴主義が拮抗しながら影響し合う意趣ゆたかな時代でした。ドビュッシーの創作には、同時代のジャンルを超えた芸術の影響が顕著に表れています。彼が生きた時代には、音楽や美術、文学、舞台芸術が互いに共鳴しあい、芸術家たちが共同で作品を創り上げることもありました。ドビュッシーはその代表的な存在です。たとえばその代表作「牧神の午後への前奏曲」(1892-94年)は、象徴派の詩人マラルメの「牧神の午後」(1876年)に感銘を受けて生まれた作品ですが、1912年には、舞踏家ニジンスキーによるバレーの振り付けを伴い、美術家レオン・バクスト装飾によるバレー・リュスの舞台で上演されました。その総合芸術としての革新性は、芸術界に大きな衝撃を与えました。
     ドビュッシーは若き時代より、3人の仲間———画家アンリ・ルロール、作曲家エルンスト・ショーソン、高級官僚アルチュール・フォンテーヌより、同時代の革新的美術の存在を知らされました。そして彼らのコレクションの中にあったドガ、ルノワール、モネ、ヴュイヤール、カミーユ・クローデル、モーリス・ドニ、ボナール、ルドンら印象派やポスト印象派、象徴派の美術家たちの作品に多大な関心を寄せるようになったのです。彼は、しばしばそれらからインスピレーションを得て、自らの創造活動に反映させました。それゆえにドビュッシーの作品には、ピアノ曲「版画」(1903年)や「映像」(1905-12年)のように、視覚芸術を想起させる作品が多くあります。さらにドビュッシーは、日本美術にも関心を寄せて作品を蒐集し、1905年に上梓された交響詩「海」(1903-5年)のスコアの表紙には、葛飾北斎の《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》に倣ったイメージを使用したことが知られています。
     2012年は、ドビュッシーの生誕150年にあたります。オルセー美術館、オランジュリー美術館との共催により、石橋財団ブリヂストン美術館と日本経済新聞社は、これを記念して、ドビュッシーと同時代の芸術、なかでも美術との関係に焦点を当てた展覧会を開催いたします。ドビュッシーが愛した印象派や世紀末の芸術家たちの絵画、彫刻、工芸作品のほか、愛蔵品や直筆の手紙、写真などの資料を展示し、ドビュッシーを取り巻く19世紀末のジャンルを超えた芸術創造の精華をご紹介いたします。
     本展は、オルセー美術館、オランジュリー美術館、そしてブリヂストン美術館の所蔵品を中心に、国内外から借用した作品約150点で構成されます。パリではオランジュリー美術館、日本ではブリヂストン美術館のみの開催となります。









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    バーナード・リーチ展と古代エジプト展

    2012-09-08 | 陶磁器
    9月4日
  • #39 生誕125年バーナード・リーチ展 @日本橋高島屋

    香港生まれ、ということを知り、面白く感じた。

    9月8日
  • #40 大英博物館 古代エジプト展 @森アーツセンターギャラリー

    混雑だった。
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    レーピン展

    2012-09-01 | 絵画
    9月1日

  • #38 「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」Bunkamura・ザ・ミュージアム

    素晴らしかった。素晴らしい肖像画でしか糧を得られなかったと思われるロシア社会で、西欧のモダニズムを知ったイリヤ・レーピン(1844-1930)の葛藤が感じられる。

    《浅瀬を渡る船曳き》(《ヴォルガの船曳き》の習作) 1872年
    《あぜ道にて―畝を歩くヴェーラ・レーピナと子どもたち》1879年; 前にも見た覚えが。
    《休息―妻ヴェーラ・レーピナの肖像》1882
    《皇女ソフィア》原題:ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィア・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の使用人が拷問されたとき 1879年
    《思いがけなく》1884-1888年
    《作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像》1881年
    《文豪レフ・トルストイの肖像》1887年
    《日向で―娘ナジェージダ・レーピナの肖像》1900年

    7月?
  • #37マウリッツハイス美術館展

    入場はできたのが混雑。あまり落ち着いてみれず早々に退散。
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