徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

7月の記録と8月に訪れたい展覧会

2006-07-31 | 美術(Index)
7月の記録

展覧会(日付は鑑賞日)
  • 7日  海に生きる・海を描く 千葉市美術館(終了)
  • 8日  書の国宝 墨跡 五島美術館(前期)(終了)
           圜悟克勤墨蹟その2その3
  • 8日  古筆と墨跡 畠山記念館(終了)
           圜悟克勤墨蹟
  • 14日 没後30年 高島野十郎展 三鷹市美術ギャラリー(終了)
  • 16日 アルベルト・ジャコメッティ-矢内原伊作とともに 神奈川県立近代美術館 葉山(終了)

  • 22日 書の国宝 墨跡(後期)五島美術館(終了)
  • 22日 青磁の美―秘色の探求― 出光美術館(9/3まで)
  • 23日   「花鳥-愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」(第4期)三の丸 (8/6まで)
  • 23日 東京国立近代美術館 常設展
  • 25日 プライスコレクション 「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館(8/27まで)
  • 25日 東京国立博物館 常設展
           書跡
  • 29日 国宝「随身庭騎絵巻」と男の美術 大倉集古館(終了)
  • 30日 萩焼造形の美 人間国宝 三輪壽雪の世界 東京国立近代美術館 工芸館(9/24まで)

    「キュレーターズ・チョイス」東京都写真美術館は、見ることができませんでした。
    本日現在感想が未のものが、沢山。古筆と墨跡 畠山記念館、書の国宝 墨跡(後期)五島美術館、青磁の美 出光美術館、東京国立近代美術館 常設展など。そのままかも知れません。

    8月に訪れたい展覧会

  • 「ペルシア文明展」 8/1-10/1 @東京都美術館
  • 「開館110年記念 美のかけはし」 7/15-8/27 @京都国立博物館
  •  国宝「古今和歌集序」伝源俊頼筆 @「館蔵日本美術による Gold~金色が織りなす異空間」前期:8/3-9/3 @大倉集古館
  • 『秘蔵の名品アートコレクション展』日本とヨーロッパ 花鳥風月の魅力を探る 8/3- 8/24 @ホテルオークラ 
  • 「近代洋画の巨匠たち 浅井忠 岸田劉生 そしてモネ」8/5-10/9@泉屋博古館 分館
  • 「ピカソ 5つのテーマ」3/18-9/17@ポーラ美術館(箱根)
  • 「パウル・クレー 創造の物語」 6/24~8/20 @川村記念美術館
  • 「花鳥-愛でる心、彩る技 (第5期)」8/12-9/10@宮内庁三の丸尚蔵館
  • 「モダンパラダイス展」 8/15-10/15 @東京国立近代美術館
  •  国宝 青磁鉄斑文瓶@「青磁の美」 8/27- 9/3 @出光美術館
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    萩焼造形の美 人間国宝 三輪壽雪の世界

    2006-07-30 | 陶磁器
    萩焼造形の美
    人間国宝 三輪壽雪の世界
    東京国立近代美術館 工芸館
    2006年7月15日から9月24日

    96歳にして現役の三輪壽雪。その最新作「鬼萩割高台割茶碗」(173 カッコ内は展示番号)(175)「鬼萩窯変割高台割茶碗」(178)の三点から回顧展は始まる。2006年4月27日に窯詰め、29日に火入れ、5月6日に窯出しされという作品だ。パンフレットに表紙を飾っている。力強さ極まれり。この言葉がぴったりの作品。

    さらに展示室1には、「鬼萩茶碗 銘 鬼が島」(92)(1985、山口銀行)が並ぶ。第十一代三輪休雪は、昭和58年、兄に引き続き人間国宝に認定され、その二年後に、第32回 日本伝統工芸展に「鬼萩茶碗」を発表する。その頃の作品だが、そのときの作品だろうか。(作品の展覧会出品の説明がないのですが、どうにかならないでしょうか)

    展示室2には、「修業と「休」の時代」の作品。伝統にそった品のよい茶碗も並んでいるが、一番奥のガラスケースにはいった「白萩手桶花入」(1965年 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵)は力強い造形。さらに、展示室3にかかけて、昭和42年(1967)に、第十一代三輪休雪を襲名した後の作品が並ぶ。「萩茶碗 銘 早瀬」(27)(1968)、「萩茶碗 銘 梅鶯」(38)(1972)、「白萩茶碗 銘 春雷」(40)(1973)など、白釉薬の割れたような文様が美しい。

    展示室4の後半以降は、「大器「鬼萩」の創生」。「鬼萩」とは、もともと粗砂を混ぜた土で作られた作品のことで古くから技法として伝わっていたが、壽雪は造形にも独自性を追求し、力強い作品とした。そして晩年にいたると茶碗は大きさも大きくなっていく。ちょっとゆがんだ「白萩灰被花入」(134 1990)や蓋の部分を一寸削いだ「白萩陶匣 銘 花の宴」(145 1998)など、白萩と題する白釉薬を強調した作品の造形の面白い。

    そもそも、私が、萩焼について興味をもったのは、昨年、萩を訪れたときから。萩では萩の宿 常茂恵菊屋家住宅で、休雪の作品を鑑賞しているのですが、10代か11代か判らないままの鑑賞だった。(今回の展覧会でも何点か菊屋家住宅所蔵の作品が展示されていました。)それで東京に戻り、萩焼と三輪休雪について調べ(こちら)、三輪休雪は、「休和(10代休雪)は「休雪白」、純白の藁灰釉を創案、萩に新境地をもたらし、さらに壽雪(11代休雪)は「休雪白」を実質的に展開、「鬼萩割高台茶碗」などは破格の造形感覚で茶陶界にも新風をもたらした。人間国宝に休和(10代休雪)は1970年に認定され 壽雪(11代休雪)は、1983年に認定されている。」と、知った訳です。(なお、記事には、萩焼旧萩藩藩窯坂窯と三輪窯の開窯と発展についても、まとめてあります。)

    今回はじめて意識して、「三輪壽雪の世界」を鑑賞でき、とても素晴らしかった。お勧めです

    参考 三輪休雪の主要作品
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    国宝「随身庭騎絵巻」と男の美術

    2006-07-29 | 美術
    国宝「随身庭騎絵巻」と男の美術
    2006年6月3日から7月30日
    大倉集古館

    概要:国宝「随身庭騎絵巻」に感動。「五節句図」酒井抱一筆、「維摩黙然」下村観山筆もよかった。「乗興舟」 伊藤若冲も必見。

    おまけ。次回開催の大倉集古館「館蔵日本美術による Gold~金色が織りなす異空間」と泉屋博古館 分館「近代洋画の巨匠たち 浅井忠 岸田劉生 そしてモネ」には大期待。「第12回秘蔵の名品アートコレクション展」チケットですべて入場可。



    新日曜美術館で、国宝「随身庭騎絵巻」が29日・30日全場面展示されるというテロップがでたので、行くのを控えていたこの展覧会。いそいそといってきました。

    大絵巻展から戻ってきて、辻惟雄「日本美術の歴史」を読むと、まるで、展覧会と絵巻展がシンクロしてしまったのですが、それくらい「日本美術の歴史」は、絵巻についての説明が多い。「日本美術の歴史」のなかで、写真が掲載されていて、未見のひとつが藤原隆信の子藤原信実(1176-1266)の作例として掲載されている国宝「随身庭騎絵巻」。

    その国宝「随身庭騎絵巻」。実物を見て一寸感動しました。伸びやかな筆遣いが素晴らしい。秦兼清、兼任、中臣末近、そして後嵯峨院の御随身と記録がある秦久則、兼利、兼躬、頼方、久頼、弘方。後者には宝治元年(1247)と記載があります。はじめの三人は信実の模写、次の四人は信実、最後の二人は嗣子為継の筆によるものとされているそうだ。確かに中央の4人は伸び伸びとした筆遣い。最後の二人は細面に描かれています。江戸初期に住吉家に伝来し、徳川家献上、吉宗が田安家に下賜、一ツ橋家家宝として伝来。

    このほかには、
    「一の谷合戦絵巻」(江戸時代18世紀)
    「虫太平記絵巻」 江戸時代 ;武将の上にキャラクタに合わせたのでしょうか虫が兜のかわりのっている。楠正成には蟷螂。笑えます。戦に負けると虫も散り散りに去っていくとかがペーソスがあるとの説明に納得。
    「融通念仏縁起絵巻」(室町時代);良忍上人(1072-1132)の御業績を描いたもの。原本は1314年に成立するが現存せず。本図は1382年良鎮が製作した百余本のうちの一本で、越智家高が寄進したものと推定。

    書として
    昭憲皇太后御和歌 東郷平八郎 
    六然訓 勝海舟 1879年;熟練した筆致、品格高く爽快。
    梅花詩 西郷南洲筆; 実直大胆な書風。
    とある。勝海舟と西郷隆盛を並べてあるのも人格を比較しているようで面白い。

    「乗興舟」 伊藤若冲;モノトーンの作品。状態がよく感激。
    「維摩黙然」下村観山筆 大正13年(1924);維摩が黙然として指を二本だしている。それよりも、豪奢な調度品、官能的な侍女、髪飾り、そして蓮華片のピンクに目が行ってしまうのは煩悩です。

    重要美術品「五節句図」酒井抱一筆 江戸・文政10年 ;小朝拝(正月元旦)、曲水宴(三月上巳あるいは三月三日)、菖蒲台(あやめのだい)(五月初めの午の日)、重陽宴(九月九日)の4点。七夕は展示されていない。酒井抱一の季節感あふれ、細かいところまで描かれた作品。それにしても、年中行事の話が判って面白かった。曲水宴は3月3日の行事とは。重陽の節句には御帳の上に茱萸(しゅゆ)袋、御前には菊瓶を配している。また、七夕は天平勝宝七年より宮中が二世を祭ることをはじめたとか、菖蒲台は天平十九年より始りて、などとの詞書があった。

    重要美術品「徳川家康・天海像」、重文「加茂競馬図」 久隅守景、「洞窟の頼朝」前田青邨筆 昭和4年は前期のため拝見できず残念。



    なお、8月3日から24日まではホテルオークラで、恒例の「第12回秘蔵の名品アートコレクション展」。秘蔵の名品アートコレクション展のチケットで、大倉集古館「館蔵日本美術による Gold~金色が織りなす異空間」、泉屋博古館 分館「近代洋画の巨匠たち 浅井忠 岸田劉生 そしてモネ」も鑑賞できる。大倉集古館では、昨年見逃した、料紙があまりにも美しいと写真からも想像される伝源俊頼筆 国宝「古今和歌集序」が展示。

    泉屋博古館 分館では、住友家の近代日本がコレクションが展示される。藤島武二「幸ある朝」、岡田三郎助「五葉蔦」、山下新太郎「読書の後」、松山省三「芝居茶屋の娘」、渡辺ふみ子(亀高文子)「離れ行く心」、渡辺與平「ネルの着物」などの女性像を始め、和田英作「こだま」、梅原龍三郎「姑娘卿々弾琵琶図」、岸田劉生「麗子六歳之像」、「二人麗子図(童女飾髪図)」、中川紀元「少女」、小磯良平「踊り子二人」、森 芳雄「女性たち」などの女性像を特集展示、さらに藤島武二「大王崎」「室戸遠望」、熊谷守一「野草」「鴨跖草(つゆ草)」、坂本繁二郎の300号の大作「二馬壁画」、「箱」、梅原龍三郎「北京長安街」、岸田劉生「晩秋の霽日」「自画像」「冬瓜葡萄図」、曾宮一念「ザボン」とある。

    問題は、3つも展覧会を見るとなると美味しく適当な価格で食事する場所が付近に少ないこと。
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    東京国立博物館 常設展示 -書跡-

    2006-07-26 | 
    東京国立博物館 常設展示 -書跡-

    企画展示 特集陳列「唐様の書」,国宝室 和歌体十種、国宝 久能寺経ほか、いくつか書の名品が展示されていました。

    企画展示 特集陳列「唐様の書」 本館特別1・特別2室 2006/7/11~2006/8/6
    江戸時代の日本の書は、御家流に代表される和様と、中国書法を範とした唐様とに大別されます。御家流は、幕府の公式書体として用いられ、また寺子屋などを通して一般庶民にも広まり、江戸時代を通じて日常の場で幅広く用いられました。いっぽう、中国・明時代末の混乱を避けて来日した学者や僧侶などによってもたらされた唐様の書は、江戸時代前期、幕府の儒教奨励政策を追い風に、僧侶・儒者など知識層を中心に根付いていきました。受容と洗練を繰り返しながら、文人精神の表現手段にまで高められた江戸時代の唐様の書をお楽しみください。

    唐様の書なるものがあるのは初耳。やわらかい書体の「語」 良寛筆 も展示されていたので、これが唐様かと。「楷書千字文 市河米庵筆」なる漢字の手本もあった。
  • 池大雅筆「水流帖」(原本)杜甫や李白の詩から撰んだ五言詩三十六句を篆隸楷行草(てんれいかいぎょうそう)の各書体で書き分け、淡墨(たんぼく)で折帖(おりじょう)に揮毫したもので、晩年50代の筆と推定されます。詩情と筆致が一体化し、悠揚迫らぬ書風は、自然体を志向した生き様と、文人の書の高みを思わせます。とのことだが、この作品はすばらしかった。写真も掲載されているが、長尺に書かれた様は壮観。


    第1室 2006/7/19~ 2006/8/27
  • 雑阿含経巻第四十五(ぞうあごんきょうまきだいよんじゅうご)光明皇后願経(こうみょうこうごうがんぎょう);天平15年(743)5月11日,藤三女(光明皇后)が父母の冥福を祈って発願供養された一切経の中の1巻。五月一日経とともに名高い。本巻はもと高野山正智院に伝来した。黄麻紙に薄墨界を引いて書いた端正な楷書体は天平写経の特徴をよく示している。
  • 紫紙金字法華経断簡(紫切) 伝菅原道真筆 奈良時代・8世紀; 暗くてよく見えません。

    国宝室 2006/7/4~2006/7/30
  • 国宝 和歌体十種
     『和歌体十種』は、10世紀の末から11世紀初めに成立した歌論書。平安時代中期の歌人・歌学者で「三十六歌仙」の1人、壬生忠岑(みぶのただみね)の著作とされることから「忠岑十体」の別名ももつが、今日では疑問視されている。
     本書は、その現存最古の写本で、藍と紫の飛雲(とびくも)を大ぶりにすき込んだ薄手の鳥の子紙に、和歌を10体に分類して、それぞれに5首の例歌を仮名で添え、漢文で説明を加えたものである。
     筆者については、巻末に江戸時代の古筆鑑定家、古筆了佐(こひつりょうさ)が藤原俊成(ふじわらのとしなり)の祖父の藤原忠家(ただいえ)とするが、確証はない。(文章も画像もeMusuemから





    第3室 2006/7/19~ 2006/8/27
  • 国宝 法華経一品経(慈光寺経) 1巻 鎌倉時代・13世紀 埼玉・慈光寺蔵 33巻のうち
  • 国宝 法華経提婆品(久能寺経) 1巻 平安時代・12世紀 静岡・鉄舟寺蔵
    いつみても素晴らしいのですが、両者とも見返し絵が、ほとんどない巻でした。

  • 法華経巻第四断簡(戸隠切) 藤原定信筆 平安時代・12世紀
  • 法華経 藤原定信筆 平安時代・12世紀 個人蔵
    藤原定信の筆の法華経が2点。戸隠切は、一字宝塔法華経。升目にあわせて書かれています。右肩上がりのかなり特徴のある書体です。戸隠神社の巻1から巻4は重文です。(画像はSRCリンク)


  • 重文 和漢朗詠集 巻下(益田本) 1巻 平安時代・11世紀; 益田鈍翁の旧蔵品。宋時代の唐紙、染紙に雲母砂子を撒いた料紙や雲紙などを用いる。






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    プライスコレクション 「若冲と江戸絵画」展

    2006-07-25 | 美術
    特別展 プライスコレクション 「若冲と江戸絵画」展
    東京国立博物館
    2006年7月4日~8月27日

    漸く表記を鑑賞してきました。展示替えは殆どないとのことなので安心していましたが、招待券の期限が来てしまうので慌てていってきました。

    1.正統派絵画
    2.京の画家
    3.エキセントリック
    4.江戸の画家
    5.江戸琳派
    の構成になっていますが、最後の第4室は、「光と絵画の表情」のコーナーでは、舞台に使われるような照明装置を使い、「自然光のように変化し、作品に表情を与える陰影ある光」を実現しています。この件は、最後に触れますが、このコーナを見に行くだけで、(たとえ若冲に興味がなくても)この展覧会は見に行く価値があると断言します。

    目に付いた作品を展示順に。

    2.京の画家
  • 山水図 池観了筆(1753-1830) 2幅 江戸時代・18~19世紀; 積み上げられた山の表現、丸みをもった輪郭線。池大雅の弟子とのこと。「播磨ゆかりの江戸絵画 大倉集古館」で 1861年に来日し、長崎派の文人画に影響を与えた徐(雨亭 1824-67~)筆の「蜀山図」を拝見したが、同じような感覚をもった覚えが。
  • 幽霊図 長沢芦雪筆(1754-1799) 1幅 江戸時代・18世紀; 髪を掻き揚げる仕草、表情。恐ろしさ満点の傑作です。
  • 美人に犬図 山口素絢筆(1759-1818) 1幅 江戸時代・18~19世紀; 一寸ふくよかな顔、流れるような着物、赤い襦袢。まとわり付く仔犬。
  • 梅花猿猴図 森狙仙筆(1747-1821) 1幅 江戸時代・19世紀; 「狙仙の猿」と評判を得たそうです。細かな毛並みがふわふわしています。

    3.エキセントリック
  • 花鳥人物図屏風 伊藤若冲筆 6曲1双 江戸時代・18世紀; 鳥、花、魚、人物を描いた水墨画。軽妙な表現と軽やかな筆の動き。傑作。「鶴図屏風」は一寸構図に凝りすぎて、筆の運びが遅いが、こちらは、鳥、花を趣くままに描いた、筆の軽やかさが素晴らしい。
  • 猛虎図 伊藤若冲筆 1幅 江戸時代・宝暦5年(1755);画家毛益の作品を模して描いたとある40歳4月のときの作品。弟に家督を譲り絵画制作に没頭したときの作品。ユーモラス。
  • 鷲図 伊藤若冲筆 1幅 江戸時代・寛政10年(1798); 背景に薄墨を引いた鷲図。波は模様化し、若冲様式の到達点だそうだ。

  • 唐人物図 伝曽我蕭白筆 2幅 江戸時代・18世紀; 漢建国の功臣韓信の股くぐりの故事による図。曽我蕭白ではないそうだ。しかし、あまりに迫力ある人物は、印象的。
  • 寒山拾得図 曽我蕭白筆 2幅 江戸時代・18世紀; 寒山の表現はおどけている。縄衣文殊図と関係が指摘される面白い衣装の拾得図。

    4.江戸の画家
  • 二美人図 勝川春章筆 1幅 江戸時代・18世紀; のどかな春の日の後朝。文を書く座った遊女、立ち居姿の遊女を描く。精緻な着物の文様が見事。
  • 桜花花魁図扇面 歌川国貞筆 1本 江戸時代・19世紀; あまりに豪奢な扇。桜花、花魁の着物は見事。

    5.江戸琳派
  • 四季草花図・三十六歌仙図色紙貼交屏風 酒井抱一筆 6曲1双 江戸時代・19世紀; 細い筆で和歌が書かれており、優雅のひとこと。
  • 飴売り図 鈴木其一筆・酒井抱一賛 1幅 江戸時代・19世紀; 西洋人を思わせる風貌。世間胸算用の「大晦日は一日千金」をふまえた酒井抱一賛がある。
  • 月下波上千鳥図 鈴木其一筆 1幅 江戸時代・19世紀; 水墨画、静寂な風景。
  • 青桐・楓図 鈴木其一筆 2幅 江戸時代・19世紀;「国宝 関屋・澪標図屏風と琳派の美 静嘉堂文庫美術館」で拝見した「鈴木其一「雨中桜花楓葉図」 二幅」の方が、薄墨で雨を画面に斜めに描いた表現がよかったかと。
  • 漁樵図屏風 鈴木其一筆 6曲1双 江戸時代・19世紀 ; 右隻は桜に樵、左隻は紅葉に漁夫。漁夫の姿は太公望と重なる。春秋のを対比するが、黄緑や明るい茶をベースにした明るい色彩。紅葉には、たらし込みの技法。松の黒が映える。色彩豊かな中国絵画の世界。理知的な構図。傑作です。

    光と絵画の表情
    「自然光のように変化し、作品に表情を与える陰影ある光」を実現したコーナ。
  • 佐野渡図屏風 酒井抱一筆 2曲1隻 江戸時代・19世紀 ; 金地着色の屏風
  • 柳に白鷺図屏風 鈴木其一筆 2曲1隻 江戸時代・19世紀 ; 光線によって変わる白鷺の胡粉。緑の柳の変化も面白い。
  • 群鶴図屏風 鈴木其一筆 6曲1双 江戸時代・19世紀
  • 十二か月花鳥図 酒井抱一筆 12幅 江戸時代・19世紀

  • 春日若宮御祭図屏風 狩野柳雪筆 6曲1双 江戸時代・17~18世紀
  • 白象黒牛図屏風 長沢芦雪筆 6曲1双 江戸時代・18世紀;淡い光の中で見るとなんともいえずユーモラスです。多分明るい光で見ると冴えないでしょう。
  • 紅白梅図屏風 6曲1双 江戸時代・17世紀 ;浮き出るような紅白の梅。
  • 簗図屏風 6曲1双 江戸時代・17世紀 ; 簀(す)には落鮎と蟹。金地の屏風だが、光の加減で 簀が光り、落鮎と蟹がはねて見える。一寸暗くなると波が煌く。後で読めば、図録の解説で前九州国立博物館副館長の宮島新一氏がまず挙げている傑作。

  • 猿猴狙蜂図 森狙仙筆 1幅 江戸時代・19世紀; こちらの猿は、「封侯」と「蜂猿」の音が通じることから立身出世の願いをこめた吉祥図案
  • 雪中松に兎・梅に鴉図屏風 葛蛇玉(かつじゃぎょく1735-80)筆 6曲1双 江戸時代・安永3年(1774);薄明かりで見るこの屏風は、幻想的な雪景色。明るいところで見たら、きっとつまらない作品。現在知られている葛蛇玉の作品は、プライスコレクションにある「蘭石鸚哥図」を含め4点のみだそうだ。
  • 乙御前扇面図 酒井鶯蒲筆 1幅 江戸時代・19世紀;藍色が美しい。

  • 懸崖飛泉図屏風 円山応挙筆 8曲1隻・4曲1隻 江戸時代・寛政元年(1789);薄明かりで眺めれば、霧の中に崖と鹿が見える。光が差してくれば、鹿の様子がはっきりと見え、まるで霧が晴れて日が差し込んできたよう。
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    「花鳥-愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」(第4期)

    2006-07-23 | 美術
    「花鳥-愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」(第4期)
    2006年7月8日から8月6日
    三の丸尚蔵館

    第1期第2期、第3期(その1),(渡来の中国絵画)と鑑賞してきた若冲の「動植綵絵」も今回で4回目。NHK新日曜美術館で紹介された直後に行ったからでしょうか、ちょっと混んでいます。今回の目玉は、何と言っても。
  • 旭日鳳凰図 伊藤若冲 1幅 宝暦5年(1755)
    初めて、若冲を素直にいいなあと感動。
    派手な「鳳凰」。細かく描かれた真っ白な羽。赤いぼんぼりの模様もついている。鳳凰の顔は、中国絵画のコピーと想像の産物だとのこと。背景も可也凝っている。題名の「旭日」が雲間に画面右に浮かぶ。画面左下には、水しぶきが飛んでいる。

    「動植綵絵」のほうは、今回は、
  • 25 老松白鳳図
  • 5 向日葵雄鶏図 宝暦9年(1759)
  • 7 大鶏雌雄図 宝暦9年(1759)
  • 20 群鶏図
  • 23 池辺群虫図
  • 24 貝甲図
    の6点。老松白鳳図は、得意の白が鮮やか。このほか鶏図が3枚もある。実際は、組で展示することを意識して描いたのではと最近思うようになってきたが、この件については、署名と構図から検討した考えを後日書きたい。池辺群虫図、貝甲図は、如何にも図鑑のよう。

    このほかに「花鳥十二12ヶ月図 酒井抱一 12幅 文政6年(1823)」、これは小禽がよかった。 「東都時名画帖」は、様々な画家による花鳥の写生帖。

    半年に亘って開催された「花鳥-愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」も次回で最終期です。
    第5期は、8月12日~9月10日開催。
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    アルベルト・ジャコメッティ-矢内原伊作とともに

    2006-07-16 | 美術
    アルベルト・ジャコメッティ-矢内原伊作とともに
    2006年6月3日から7月30日
    神奈川県立近代美術館 葉山

    ジャコメッティの展覧会があるといえば、やはり駆けつけたくなります。

    神奈川県立近代美術館 葉山は初めて。地図を見ると御用邸のお隣。夏休み・海水浴シーズンとなれば渋滞が予想されます。すこし無理して早起きをしようとしたのですが寝坊。でも、雨混じりの曇り空ということで、ほとんど渋滞もなく到着しました。駐車場が満車とありましたが、空きが数台あり、いれてもらえました。ほっ。

    展覧会は4部で構成されます。
    第I章 初期/キュビズム、シュルレアリスムを経て
    第Ⅱ章 モデルたち-ディエゴ、アネットを中心に
    第Ⅲ章 ヤナイハラとともに
    第Ⅳ章 空間の構成と変奏-人物、静物、風景、アトリエ

    第I章(第一展示室)まず出迎えてくれるのは、「歩く女Ⅰ」(1932-36)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)。姿勢のよく歩く女性の背中ラインが美しい。ののキュビズムの影響を受けた「トルソ」(1925-26)(アルベルト・ジャコメッティ財団、チューリヒ)やアフリカの影響を受けた可愛らしい「カップル」(1927)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)が目を引きます。この章では、表面の仕上げは、つるっとした普通の彫刻と同じです。

    第Ⅱ章(第一展示室、第二展示室) ここには、ごつごつした表面で仕上げられた彫刻、じっと坐るモデルと対峙して、画面中央に真っ黒に塗るつぶされた感のある肖像のデッサンがが並びます。

    印象的だったのは、第2室の部屋の中央に並べられた小さな彫刻4点。「アネットの小さな胸像」(1946)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)、「立つ裸婦、写生による」(1954)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)、「立つアネット」(1954)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)、「立つ女」(1961)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)。その脇にあった「坐るアネット(小)」(1956)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)。「立つアネット」、「立つ女」を背面から見ると、臀部のようすなどよく表されています。

    第Ⅲ章(第三展示室、第五展示室) 矢内原伊作は、東大総長の矢内原忠雄名誉教授のご子息。ジャコメッティのモデルをしながら、ジャコメッティの創作風景を著述したという。そのヤナイハラの石膏像2点が展示されている。「ヤナイハラI」(1960)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)と「ヤナイハラⅡ」(1961)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)。何年もかかってヤナイハラと親密になりながら、ヤナイハラの本質に迫った作品ということになる。また、矢内原のノートや写真による記録や、ジャコメッティの手紙も展示されている。

    第Ⅳ章(第三展示室、第四展示室) この章では、みながよく知っているジャコメッティらしい不思議な作品が展示されている。特に第4展示室は、この葉山の海も見える明るい素晴らしい展示室。そこにジャコメッティらしい展示作品が展示されているのだから、展示スペースというのも作品を見る重要なファクターだ。「石碑Ⅰ」(1958)(兵庫県立美術館)、「檻(第1ヴァージョン)」(1950)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)、「ヴェニスの女Ⅰ」(1956)(大原美術館)など。特によかったのは、「台上の4つの小立像(バージョンB)」(1950-65)(A.&A.ジャコメッティ財団、パリ)

    アルベルト・ジャコメッティは、人間の実存を暗示する細長い人物像で知られる彫刻家として、またセザンヌ以降に展開された絵画の実験の極北に位置する画家として20世紀美術に屹立する偉大な芸術家だという。ジャコメッティは、現実の人間を「見えるとおり」に描こうとしたとも解説されています。最後の回廊の展示室のビデオで、ジャコメッティは「ギリシア彫刻のように表面を移すのではなく、人間の内面を描きたい、玉葱のように剥いていって中身が空になった」というようなことを語っていました。NHK新日曜美術館では、遠ざかる人をみて、変らない真実があることに気がついたというようなエピソードがあると出演者が喋っていました。

    これらの話をきいて、実際の彫刻と対峙しても、どうも理解できません。1点だけ気づいたのは、会場を歩き回ると彫刻と自身の距離が、刻々と変ります。ジャコメッティの場合は、「遠ざかる人をみて、変らない真実があることに気がついた」訳ですが、それを追体験するためには、こちらが歩いてみればというわけです。そうすると、影絵か走馬灯を見ているようで、これがジャコメッティの言いたかったことかも、思えてきました。特に第2展示室に展示されていた4体の「アネットの小さな胸像」等とか、第4展示室の「台上の4つの小立像(バージョンB)」のように小さな作品で、強く追体験できた気がします。会場を歩く程度で、彫刻の見えるサイズが大きく変化するので、より顕著に感じられたのでしょうか。

    ともあれ、葉山という場所に関わらず、それなりに人の入りがいい、雰囲気のいい展覧会でした。

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    没後30年 高島野十郎展

    2006-07-14 | 美術
    没後30年 高島野十郎展
    三鷹市美術ギャラリー
    2006年6月10日から7月17日

    蝋燭のポスターやチラシを見ただけは、どんな作品に出会えるかを想像できませんでした。とらさんのBLOGを拝読して、是非いかなくてはということで行ってきました。

    高島野十郎(たかしまやじゅうろう)(1890-1975)は、東京帝国大学農科大学水産学科に学ぶ。写生はここで技術をあげたのだろう。青木繁や坂本繁二郎と同郷ということで、最先端の美術情報にも触れる機会があった。約4年間の滞欧生活で西欧の美術もじかに鑑賞。

    素晴らしいデッサンに支えられた風景画。ドイツロマン派かと思うような作品もあるが、「慈悲」のこころで自然に対峙する日本人の感性が画面いっぱいに拡がる。
    《朝霧》(1941)、桜の近景が描かれた《筑後川遠望》(1949)、有明海を描いた《春の海》(1952)、《れんげ草》(1957)、長瀞をえがいた《流》(1957)、《菜の花》(1965)など

    17日までの開催ですが、今年何本指かに入るお勧めの展覧会です。


    明治23(1890)年、福岡県久留米市の酒造家に生まれた島野十郎(たかしまやじゅうろう)は、東京帝国大学農科大学水産学科に学び、首席で卒業しました。しかし周囲の期待と嘱望された学究生活を投げ捨て、念願であった画家への道を選びます。以来、約4年間の滞欧生活をはさんで東京、久留米に居を構えながら主に個展を作品発表の場として画業を続けました。70歳を超えた1961年(昭和36年)からは都内・青山を離れ、千葉県柏市の田園のなかに質素なアトリエを建て、晴耕雨描とも言える生活を貫きました。世俗的な成功や名誉とはほど遠い位置で制作を続け1975年(昭和50年)、千葉県野田市の老人ホームで85歳の人生を閉じます。
    野十郎は果実や花を題材にした卓上静物をはじめ、信州や武蔵野、そして故郷の筑後地方や房総の風景を、いずれも写実的に、しかもきわめて微細かつ克明に描き出しました。特筆すべきは、彼の絵の写実性は対象の単なる再現性を超え、ときには対象の生命や息吹にまで至って、独自な輝きを発露させていることです。
    野十郎が静物画や風景画とともに描き続けてきたのが、火のともった蝋燭や月だけを描いた作品群です。これらの不思議な作品には、見る人の眼をそらさない強い求心力を感じさせるとともに、どこか宗教的感情を呼び起こしさえします。そこには、彼が若い頃から関心を寄せていた仏教への深い含蓄が含まれていると言われています。
    「世の画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進です」と、彼はある手紙に書いています。この真摯さは、なによりも「描くこと」への彼自身の執着のかたちであり、それはまた「描くこと」のひとつの根源のかたちを、いまもわたしたちに教えてくれています。
    彼の遺した作品は没後、ようやく広く知られるようになり、その透明感をたたえた深い精神性と卓越した技量で、今日多くの人々を魅了し続けています。青年期から絶筆「睡蓮」までの約100点の作品、資料で野十郎の世界をご紹介します。
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    書の国宝 墨跡 @五島美術館(その3)

    2006-07-13 | 
    書の国宝 墨跡
    五島美術館
    2006年6月17日から7月23日

    松源派
    蘭渓道隆鎌倉、建長寺開山。開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いてからは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。そして時頼は建長五年(1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。 禅師は鎌倉に十三年いて、弘長二年(1262)京都建仁寺にうつり、その後また鎌倉に戻ったが叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした。禅師はのち弘安元年(1278)四月、建長寺に再住、そして七月二十四日、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
     偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
    後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。

  • 重文 蘭渓道隆墨蹟 諷誦文残闕 個人
  • 重文 蘭渓道隆墨蹟 看経榜残闕 神奈川・常盤山文庫蔵

  • 重文 月江正印墨蹟 与鉄舟徳済送別偈 五島美術館;月江正印(がっこうしょういん)(1267―1350?)は、中国元時代有数の碩徳として尊敬を集めた僧侶。月江正印は清拙正澄の兄。日本から遊学する者も多かった。本幅は室町時代の僧鉄舟徳済の徳を誉めた七言の偈で、至正三年(1343)77歳の書。画像はSRCリンク


    古林清茂:古林清茂(くりんせいむ・1262-1329)は、元代禅林の第一人者で、茂古林(むくりん)と称された。号を休居叟(休居子)といい、仏性禅師の号を贈られている。法弟は多く、特に了庵清欲、竺仙梵僊(来日僧)、我が国の月林道皎、石室善玖が有名である。

  • 重文 古林清茂墨蹟 与運禅人送別偈 MOA美術館;雲州松平家伝来
  • 国宝 古林清茂墨蹟 与別源円旨送別偈 五島美術館蔵;越前朝倉家献上、織田信長、丹羽長秀、丹羽家伝来。これは弟子の別源円旨に修行皆伝の証明を書き与えたもの。古林墨跡中の代表作として著名。画像はSRCリンク

    こちらは今回の展覧会には展示されませんが、こちらに重文 古林清茂墨蹟「与月林道皎偈」 徳川美術館蔵が。

    了庵清欲古林清茂の法嗣である了庵清欲(1288-1363)は,保寧寺,開元寺,本覚寺,霊巌寺に歴住し,順帝より金襴の法衣と慈雲普済禅師の号を賜った。
  • 重文 了庵清欲墨蹟 与月林道皎送別偈 五島美術館蔵;

  • 重文 虚堂智愚墨蹟 与徳惟禅者偈頌  徳川美術館;精神的基盤を禅に求めた茶の湯においては、墨蹟を茶掛けの第一とした。中でも虚堂(くどうちぐ)(1185~1269)の墨蹟は最も珍重された。大徳寺大燈国師、建長寺大応国師の法脈を遡れば、祖師に当たるが故であろう。虚堂は名を智愚、息耕と号した。育王山、径山などの名刹を暦住し、八十五歳で示寂した。この墨蹟は虚堂七十歳の時、侍者である徳惟禅者が、宝祐二年(一二五四)に諸方の仏祖の塔を巡礼するに当り、請われ与えた偈頌である。徳川家康(駿府御分物)-初代義直-三代綱誠-五代将軍綱吉-六代将軍家宣-四代吉通と伝来した。尾張徳川家伝来、独特の「手」の字。
    画像はこちら
  • 重文 虚堂智愚墨蹟 景酉至節偈 静嘉堂文庫美術館蔵;仙台伊達家伝来
  • 重文 虚堂智愚墨蹟 送(番にオオザト)陽復道者偈頌 東京国立博物館;来迎寺伝来

  • 重文 南浦紹明墨蹟 示宗観禅尼法語 五島美術館蔵。南浦紹明(1235―1308)は、京都大徳寺を開いた宗峰妙超(大燈国師 1282―1337)の師としても著名な禅僧。建長寺十三世住持。円通大応国師の号を後宇多法皇より下賜された。本幅は、徳治二年(1307)、73歳の時の書。金銀の切箔を散らし、霞引きを施した装飾料紙を使用する墨跡は珍しい。画像はSRCリンク


    宗峰妙超:大燈国師。1315年大徳寺開山。師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応燈関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。著述には『大灯国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』などがある。(wikipediaによる) 
  • 国宝 宗峰妙超墨蹟 与慧玄蔵主印可状 京都・妙心寺蔵;宗峰妙超が妙心寺開山の関山慧玄に与えた印可状。気宇壮大で厳しく豊かな書風。なお、妙心寺のサイトに寄れば、花園法皇は、大燈国師(だいとうこくし)で知られる大徳寺を開かれた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に参禅し、印可(いんか/弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)されています。宗峰妙超禅師は病に伏し重態となられ、花園法皇の求めに応じて、弟子の関山慧玄(かんざんえげん)禅師を師とするよう推挙されました。そして、花園法皇は花園の離宮を禅寺にし、正法山妙心寺と命名されました。12月22日、宗峰妙超禅師が亡くなられましたが、妙心寺では、この建武4年(1337)を開創の年としています。
  • 重文 宗峰妙超墨蹟 徹翁字号 京都・徳禅寺蔵

  • 一休宗純 尊林号偈 畠山記念館;愛猫の死を悼んだ偈。
  • 一休宗純 初祖号 徳川美術館

    曹源派・その他
  • 重文 癡絶道冲墨蹟 与悟兄都寺偈頌 五島美術館
  • 重文 一山一寧墨蹟 進道語 東京・根津美術館蔵。正安元年(1299)元王朝の外交使節として一山は船を東海に浮べた。北条政府は一山をモンゴルのスパイと疑って、伊豆の修禅寺におし込めた。しかし師の才幹は執権貞時にきこえ、同年末迎えられて鎌倉の諸大寺を司り、更に後宇多法皇に招かれて、京に入って南禅寺の主ともなり、文保元年(1317)に春秋七十一を重ねて世を去った。その書風は顔真卿の流れを汲むかと見られる。本幅は固山一鞏に対して悟後の修行を激励した進道の語である。固山は一山の来朝匆々、十六歳の若年で博多に赴いて謁しているが、これはその後十七年を経た正和五年(1316)の作にかかる。(根津美術館)画像はSRCリンク


    東陵永ヨは、中国の元時代の人で1351年に来朝し、西芳寺・天龍寺・南禅寺などの諸大刹に歴住した。
  • 重文 東陵永ヨ(王偏に興)墨跡 召庭字説 京都・天龍寺 
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    書の国宝 墨跡 @五島美術館(その2)

    2006-07-12 | 
    書の国宝 墨跡
    五島美術館
    2006年6月17日から7月23日

    大慧派(大慧宗杲(1089-1163)を祖とする)
  • 重文 東陽徳輝(とうようてひ)墨跡 与笑隠大訴尺牘 1329頃 五島美術館;旧松平不昧所蔵、水仙を空刷りした蝋箋。
  • 重文 楚石梵 与椿庭海寿送別偈;五島美術館;入元僧の椿庭海寿に与えた送別偈 

    破庵派(破庵祖先(1136-1211)を祖とする)
    無準師範(ぶしゅんしばん)(1177~1249)は、中国、南宋の禅僧。明州の清涼山、育王山などを歴住し、五山第一位の径山(キンザン)萬寿寺の住持にのぼった。来朝僧の無学祖元や画僧牧谿(モッケイ)は無準師範の門弟で、 中国のみならず日本でも広く尊敬を集めた高僧である。(「承天閣美術館」の無準師範頂相の説明から。)
  • 国宝 無準師範墨蹟 与聖一国師尺牘(板渡墨蹟) 東京国立博物館蔵;(画像は東博へのSRCリンク)

    東福寺開山の聖一国師(円爾弁円)が,その師無準師範(1177-1249)のもとを辞して帰国した翌年の淳祐2年2月,無準の住する径山万寿寺が炎上の厄にあった。博多に承天寺を創建しその住持となっていた円爾は径山炎上の報をうけると,当時日宋貿易に従事していた豪商謝国明の協力を得て,復興資材として板千枚を寄進した。謹直な趣を示す本幅はそれに対する無準師範の礼状で,その因縁から「板渡しの墨蹟」と呼ばれ世に珍重されている。松平不昧公旧蔵品
  • 重文 無準師範墨蹟 「帰雲」MOA美術館蔵:古田織部、細川三斎、徳川家、団家旧蔵
  • 重文 無準師範墨蹟 禅院牌字「巡堂」 常盤山文庫;牌字とは告知板用の文字。無準師範から円爾に送られたとされる。普門院伝来、益田鈍翁旧蔵
  • 無準師範墨蹟 「茶入」 五島美術館;普門院伝来。牌字。

  • 重文 剱門妙深墨跡 与聖一国師尺牘 常盤山文庫:円爾あて尺牘。
  • 重文 希叟紹雲墨跡 達磨祖師賛 五島美術館;希叟紹雲は、無準師範の法嗣。

  • 国宝 馮子振墨蹟 易元吉画跋 常盤山文庫蔵;馮子振は元代の文人。元時代,北宋の画人易元吉の描いた草虫図鑑に題した賛詞と思われる。利休が絶賛した。とのこと。

    中峰明本:元代の臨済宗の僧。浙江省銭塘の人。俗姓孫氏、号は中峰。天目山の高峰原妙に就いてその法を嗣ぐ。終生官寺に住まず、自ら「幻住」と称して遊歴と隠遁の生活を送る。その間多くの雲衲を接化し、江南の古仏と呼ばれた。仁宗皇帝より仏慈円照広慧禅師号を賜わる。至治3年(1323)寂、61才。智覚禅師・普応国師と謚号される。(思文閣美術人名辞典)
  • 重文 中峰明本墨蹟 与救侍者警策 常盤山文庫蔵;笹の葉を思わせるような独特な抑揚と肥痩を持つと評される。警策とは、修験者を励ます文。

  • 虎関師錬墨跡 花屋号 三井記念美術館;
     虎関師錬は、一山一寧の下に参じる。南禅寺十五世。黄山谷(黄庭堅)の影響を受ける。本書は師錬の傑作。数人の人物像と草花図の蝋箋を縦に利用。「花」の大書につづき、縦二行に偈を表す。中央に花屋号の題。虎関朱文印。
    本展覧会でも一押しの美的センスのある作品。美しいです。

    無学祖元(1226 - 1286):鎌倉時代に宋から来日した。仏光派の祖、鎌倉円覚寺の開山。号は無学、字(あざな)は祖元。諡(オクリナ)は仏光禅師。円満常照国師と追諡(ツイシ)される。明州(浙江省)の人。径山(キンザン)の無準師範に師事し、その法を嗣ぐ。天童山で環渓惟一(イイツ)の教化を助けていたが、北条時宗(ホウジョウトキムネ)が使者無及徳詮・宗英(ソウエイ)を遣わして名僧を招き、これに環渓の推挙を得て応じ、1279年(弘安2)来日した。鎌倉の建長寺に住し、1282年円覚寺を開創。北条時宗をはじめ、鎌倉武士などの真剣な参禅を受け、その教化に尽力し、精神的に多大の影響を与えた。法嗣に高峰顕日・規庵祖円らを出し、一派を仏光派と称する。五山派の主流をなす夢窓疎石は高峰の法嗣である。(承天閣美術館より)
  • 国宝 無学祖元墨蹟 与長楽寺一翁偈頌 京都・相国寺蔵;(画像はSRCリンク)


    祖元来朝の年十月、かつて中国経山無準禅師のもとで同門であった一翁院豪が訪ねて来て、祖元と問答をかわしたが、その時の実に堂々とした答えに祖元は大いに喜び、そのありさまを普く大衆に告知するために書かれたのがこの偈語で、品格においても、気力の点においてもまさに抜群の名幅である。
  • 重文 無学祖元墨蹟 重陽頌;常盤山文庫;益田鈍翁旧蔵。
      無学祖元は、1279年に来日した鎌倉の円覚寺開山した来朝僧。重陽頌はその年の重陽の節句のことを述べた頌という。すこし不安に満ちた筆致を感じる。

    高峰 顕日(1241 - 1316):鎌倉時代の臨済宗の僧。仏国派の祖で、南浦紹明とともに天下の二甘露門と称された禅僧。号は高峰。別に密道と称する。諡号(シゴウ)は仏国禅師・応供広済国師。後嵯峨天皇の皇子。東福寺で円爾弁円や建長寺で兀庵(ゴッタン)普寧に参じ、下野那須(シモツケナス)の雲巌寺を開創。無学祖元の来日を知り、建長寺で参じ法を嗣いだ。また一山一寧にも参じる。鎌倉の浄妙寺・万寿寺・浄智寺を歴住し、建長寺の住持となり、晩年は雲巌寺に帰る。参禅を請う学徒は多く、東国に禅宗を宣揚し、法嗣に太平妙準・夢窓疎石・天岸慧広らを出して門派を形成し、夢窓とその派はのちの五山派を代表する勢力となった。(承天閣美術館より)
  • 重文 無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 個人蔵;

    夢窓疎石(1275 - 1351):伊勢の人。道号は夢窓。法諱は疎石。 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺(リンセンジ)を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄(ムキョクシゲン)、春屋妙葩(シュンオクミョウハ)、義堂周信、絶海中津(ゼッカイチュウシン)、龍湫周沢(リュウシュウシュウタク)、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷(ゲンニュウ)、仏統、大円国師とし諡号(シゴウ)され、「七朝帝師」と称され尊崇された。(承天閣美術館より)
  • 重文 夢窓疎石墨蹟 偈頌 石川・金沢市立中村記念美術館蔵;(画像はSRCリンク)


    さりげない春の叙景と重ねながら修行上の心構えを述べた七言絶句です。「己丑貞和歳余前二日」の年紀より、貞和5年12月28日、作者が74歳のときの筆と知ることができます。穏やかな中にも骨格がしっかりとした格調高い書風です。夢窓疎石(1275~1351)は、鎌倉末~室町初期の臨済宗の僧です。足利尊氏から帰依をうけて、天竜寺を開きました。

    清拙正澄:中国元代前期の臨済宗の僧(1274~1339)鎌倉末期の嘉暦元年(1326)53歳で中国の元から来朝し、鎌倉の建長・浄智・円覚寺、京都の建仁・南禅寺の住持を歴任し、暦応2年(1339)65歳で示寂するまでの12年余り、日本禅宗の興隆に尽力した。
  • 重文 清拙正澄墨蹟 与秀山元中別称偈 福岡市美術館(松永コレクション);入元僧に与えた別称偈
  •    清拙正澄墨蹟 聖一国師墨跡跋 五島美術館
  • 国宝 清拙正澄墨蹟 遺偈(棺割墨蹟) 神奈川・常盤山文庫蔵;(画像は大阪展へのSRCリンク)
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