須田国太郎展
SUDA Kunitaro
東京国立近代美術館
2006年1月13日(金) - 3月5日(日)
東京国立近代美術館では、1963年に遺作展が開かれて以来の須田国太郎の画業を回顧する展覧会を開催いたします。
須田国太郎(1891-1961)は京都に生まれ、京都帝国大学で美学美術史を学びながら関西美術院でデッサンを修めました。その後大学院に進学、1919年には絵画理論と実践の綜合を求めるべく渡欧して、主にスペインのプラド美術館で、ヴェネチア派の絵画の色彩表現やエル・グレコの明暗対比の技法を独学します。1923年に帰国後は、美術史を講じるかたわら制作に励み、41歳を迎えた1932年、東京銀座の資生堂画廊で、はじめて個展を開きました。これを機に、翌年、独立美術京都研究所の開設にともない、学術面の指導者として招かれ、1934年には独立美術協会会員となって制作活動も本格化、渡欧で得た成果を糧に独自の重厚な作風を確立しました。
高潔な人格と広く深い学識、そして東西絵画の融合をも視野に収めた壮大な須田国太郎の制作活動は、日本人画家が追求した絵画表現のもっとも注目すべき実践例のひとつといって過言ではありません。すでに当館では、《法観寺塔婆》(1932年)や《犬》(1950年)、《窪八幡》(1955年)など代表作も数多く収蔵していますが、今回の展覧会は、デビューを果たした第1回個展の再現を導入とし、風景や花、鳥、動物など主題ごとに創作の変遷をたどるとともに、珠玉の油彩小品や、19歳のときから絵画制作と並行するように謡曲を習い生涯強い関心を寄せた能・狂言の素描なども加えた約150点で、須田国太郎芸術の真髄を紹介いたします。
29日は、出光美術館を後にして、東御苑を散歩道にして、さらに東京国立近代美術館へ。須田国太郎氏の作品についは、初めて認識して鑑賞することになる。
まずは、41歳を迎えた1932年、東京銀座の資生堂画廊で、はじめて個展を開催した折の作品が並ぶ。
《アーヴィラ》(1920年 京都国立近代美術館)などスペインの風景。赤茶けた世界が広がる。日本人がスペインを訪問したときの世界の色合いの違いへのショックが伝わってくる。技法的には、色合いはティツィアーノの影響を受け単色のようだが微妙な色合いを駆使している。デッサンは、セザンヌの影響を受け可也ゴツゴツした情景である。目に留まったのは東洋的世界を描いた
《発掘》(1930年 人文科学研究所)や
《法観寺塔婆》 (1932年 東京国立近代美術館)。前者は、日暮れの赤茶色の砂漠を背景に、いななく馬を駆って人物が影を描く。映画の一シーンのような静寂な世界が広がる。後者は法観寺を木々の間から望む。存在感のある木々の縦の線強調された構図で茶色だけで描く。当時「寂然たる東洋的境地を表現した」と評された作品。このあとに「ヴィーナスとオルガン奏者」とエル・グレコの模写が並ぶ。
次に、戦前の作品として、セザンヌを意識したという
《水浴》。セザンヌの「大水浴図」の構図は教会のようにも見え、セザンヌ信仰の告白であるとするならば、この須田の《水浴》は、構図のみになってしまう。《夏の朝》《夏の午後》《夏の夕》の3部作は奈良盆地の、
《時雨(筆石村)》も盆地の風景、スペインの赤茶のイメージを色濃く残している。
《歩む鷲》 (1940年 東京国立近代美術館)は、動物モチーフの代表作。
そして、戦後。「暗くなる、色彩を失う、黒くなりだす」という到達点が、
《犬》(1950年)、
《窪八幡》(1955年)、
《鵜》 (1952年 京都国立近代美術館)、また
《走鳥》(1953年)。茶系の単色から抜け出て、アクセント的に赤や白や、緑が画面に加えられている。《犬》では緑をも画面に加えることにより、寂しげな犬の黒が引き立つとともに、その夕闇の心情を描ききっている。また《窪八幡》では、構図の大胆さが緊張感を生み、また日本的な心情が赤によって引き出されている。ヴェネチア派の絵画の色彩表現、西洋絵画の構図表現を用いて日本的心情を表現しきっている作品といえよう。
最後に能・狂言の素描が展示されているが、「秘すれば花」について素養がないので、これまでの作品とのギャップに戸惑う。どう反映されているか想像もつかない。一寸残念。