今年は、「功名が辻」の放映もあり秀吉ブームである。豊国祭礼図屏風が京都と名古屋で展示されていた。たまたま2日続けてみたのでちょっと吃驚だった。京都国立博物館で開催されている「美のかけはし」(2006/7/15-8/27、豊国祭礼図屏風は、前期後期で一隻ずつ入れ替え)と徳川美術館で開催されている「天下人たちの時代 -信長・秀吉・家康-」(2006/7/22-9/3)だ。
文化遺産オンラインから引用すると、
重文 豊国祭礼図屏風 狩野内膳筆 六曲二双;京都 豊国神社 (財団法人 京都国際文化交流財団 )
秀吉の七回忌にあたる慶長9年の8月12日~19日にかけて例年をはるかに凌ぐ規模で挙行された臨時大祭礼の様子を描いた屏風。豊臣秀頼が片桐且元に命じて作らせたもので祭礼の2年後の慶長11年に豊国社に奉納された。右隻には広大な豊国社を中心に据え8月14日に行われた行事を描き、左隻には巨大な方広寺大仏殿を中心に置き8月15日に行われた行事を描く。
画像(左隻)は京都新聞へのSRCリンク。文化遺産オンラインはこちら(左隻)とこちら(右隻)
重文 豊国祭礼図屏風 伝岩佐又兵衛 六曲一双;徳川美術館
豊国祭礼は、豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた祭典である。向かって右隻には豊国神社社頭における田楽猿楽の奉納、騎馬行列が、左隻には方広寺大仏殿を背景に、上京・下京の町衆が華美ないでたちで豊国踊に熱中するさまが描かれる。一双で千人近い人物が華麗な彩色と力強い筆致で、しかも細密に描きだされており、これらの群衆が織りなすうねるような狂躁や熱気は、見る者を圧倒する。本図は岩佐又兵衛筆と伝承されるが、確証はない。高野山光明院、蜂須賀家と伝来し、昭和八年徳川美術館の所蔵となった。
画像は徳川美術館へのSRCリンク。文化遺産オンラインはこちら
後者の方が、伝岩佐又兵衛というだけあり、生き生きと人々が描かれていて楽しい。また保存状態も良好と感じた。しかし、今写真で見ると、全体的な構成という意味では、狩野内膳筆もなかなか、整然とした画面構成である。
なお、2006年7月15日に、日本美術史学会西支部例会で「徳川黎明会所蔵『豊国祭礼図屏風』について-岩佐又兵衛とその工房に関する一考察」(京都大学大学院 筒井忠仁)という発表があったようだ。(PDFはこちら)。発表要旨によれば、
「もっとも初期の作例と考えられているのが、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼によって奉納された豊国神社所蔵『豊国祭礼図屏風』である。狩野内膳の落款を持つこの屏風は、計算された構想のもとに事物を整然と配置するとともに、祭礼の威儀を忠実に記録しようとする意図が見られ、一つの規範性を獲得することに成功して、後の作品に多くの影響を与えている。徳川本『豊国祭礼図屏風』もまた、画面の構成やモチーフの選択において豊国神社本を強く意識しているが、描写法の相違によって、対照的とも言える印象を見るものに与えている。そのため、これまで徳川本について論じるさいには、常に豊国神社本との比較が行われ、豊国神社本の秩序だった構成や静謐な画面と、徳川本の雑踏や乱舞の混沌としたさま、あるいは彩色や文様の描写に見られる過剰さといったものが対比されてきた。」と今までの一般的な見方を述べたあとに、別の面について言及している。詳細はPDFを。
文化遺産オンラインから引用すると、
重文 豊国祭礼図屏風 狩野内膳筆 六曲二双;京都 豊国神社 (財団法人 京都国際文化交流財団 )
秀吉の七回忌にあたる慶長9年の8月12日~19日にかけて例年をはるかに凌ぐ規模で挙行された臨時大祭礼の様子を描いた屏風。豊臣秀頼が片桐且元に命じて作らせたもので祭礼の2年後の慶長11年に豊国社に奉納された。右隻には広大な豊国社を中心に据え8月14日に行われた行事を描き、左隻には巨大な方広寺大仏殿を中心に置き8月15日に行われた行事を描く。
画像(左隻)は京都新聞へのSRCリンク。文化遺産オンラインはこちら(左隻)とこちら(右隻)
重文 豊国祭礼図屏風 伝岩佐又兵衛 六曲一双;徳川美術館
豊国祭礼は、豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた祭典である。向かって右隻には豊国神社社頭における田楽猿楽の奉納、騎馬行列が、左隻には方広寺大仏殿を背景に、上京・下京の町衆が華美ないでたちで豊国踊に熱中するさまが描かれる。一双で千人近い人物が華麗な彩色と力強い筆致で、しかも細密に描きだされており、これらの群衆が織りなすうねるような狂躁や熱気は、見る者を圧倒する。本図は岩佐又兵衛筆と伝承されるが、確証はない。高野山光明院、蜂須賀家と伝来し、昭和八年徳川美術館の所蔵となった。
画像は徳川美術館へのSRCリンク。文化遺産オンラインはこちら
後者の方が、伝岩佐又兵衛というだけあり、生き生きと人々が描かれていて楽しい。また保存状態も良好と感じた。しかし、今写真で見ると、全体的な構成という意味では、狩野内膳筆もなかなか、整然とした画面構成である。
なお、2006年7月15日に、日本美術史学会西支部例会で「徳川黎明会所蔵『豊国祭礼図屏風』について-岩佐又兵衛とその工房に関する一考察」(京都大学大学院 筒井忠仁)という発表があったようだ。(PDFはこちら)。発表要旨によれば、
「もっとも初期の作例と考えられているのが、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼によって奉納された豊国神社所蔵『豊国祭礼図屏風』である。狩野内膳の落款を持つこの屏風は、計算された構想のもとに事物を整然と配置するとともに、祭礼の威儀を忠実に記録しようとする意図が見られ、一つの規範性を獲得することに成功して、後の作品に多くの影響を与えている。徳川本『豊国祭礼図屏風』もまた、画面の構成やモチーフの選択において豊国神社本を強く意識しているが、描写法の相違によって、対照的とも言える印象を見るものに与えている。そのため、これまで徳川本について論じるさいには、常に豊国神社本との比較が行われ、豊国神社本の秩序だった構成や静謐な画面と、徳川本の雑踏や乱舞の混沌としたさま、あるいは彩色や文様の描写に見られる過剰さといったものが対比されてきた。」と今までの一般的な見方を述べたあとに、別の面について言及している。詳細はPDFを。
先日、狩野内膳らを描いたコミックを読んだところです。
『美のかけはし』では太田牛一の日記もあり、中身は読めなくとも絵と文両方から豊国祭礼の賑やかさが実感できたような気分です。
又兵衛の祭礼図は以前見ました。色鮮やかでイキイキしていました。
太田牛一の日記は、見飛ばしてしまったようです。