見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

騎馬遊牧民の興亡/スキタイと匈奴 遊牧の文明(林俊雄)

2017-01-24 23:40:54 | 読んだもの(書籍)
〇林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』(興亡の世界史)(講談社学術文庫) 講談社 2017.1

 2006年から2010年にかけてハードカバーで刊行された「興亡の世界史」全21巻が、いつの間にか文庫本になっていた。私は、このシリーズがけっこう好きで、三分の一くらいは読んだのだが、本書をスルーしてしまったのは、「遊牧の文明」にあまり関心がなかったせいだと思う。今回は、タイトルだけで心が動いて、すぐ購入してしまった。

 本書の前半は「スキタイ」を、後半は「匈奴」を扱う。スキタイは、名前の知られている騎馬遊牧民としては最も古い存在の一つであり、前8/前7世紀から前4世紀にかけて活動した。著者はこれを「草原の古墳時代」と呼ぶ。ちなみに中国は春秋戦国時代、西アジアはアッシリア帝国が滅んだすぐあとで、アケメネス朝ペルシアと同時代である。こんなに古い遊牧文明があったのかと認識をあらためる。実は「興亡の世界史」は、従来の「世界史もの」に比べて騎馬遊牧民を重視した構成になっているのだそうだ。「従来の歴史学では、騎馬遊牧民に関する叙述は、その重要性にもかかわらず、多くはなかった」と語られているが、確かに私も世界史の授業でスキタイについて学んだ記憶は全くない。

 はじめにスキタイが登場するのはカフカス(コーカサス)と黒海北方の草原地帯、西アジアであるが、よく似た文化が中央アジア北部からモンゴル・中国北部まで分布しているので、それらを含めて「広義のスキタイ」と呼ぶこともある。ヘロドトスの『歴史』は、黒海北岸のスキタイについて記述しているが、考古学的調査によれば、東方の内陸アジアに出現したスキタイのほうが早く、彼らが他の騎馬遊牧民に追われて、西アジアに移動してきたと考えられている。

 スキタイを他の文化と区別する特徴は「動物文様」「馬具」「武具」にある。動物文様については、本書は写真図版が豊富で(白黒だけど)分かりやすい。「草食獣の脚を前後から折りたたむ」などは「スキタイ以外の美術には見られない」のだそうだ。こういう特徴を知っていると、古代の美術を見ても面白いだろうな。時代による変化もあって、西部では、後期(前4世紀後半~)になるとギリシアの影響が顕著になり、グリフィンが登場する(鷲グリフィンと獅子グリフィンって初めて知った)。それから、北カフカスと黒海北岸のスキタイ古墳で発見されている石人も面白い。

 前4世紀、黒海北岸のスキタイは、東方から移動してきた新たな遊牧民の圧迫により衰えていく。一方、中国北方の草原地帯には匈奴が出現する。匈奴については『史記』『漢書』の記述が中心となり、張騫とか李陵とか霍去病とか、知っている名前が頻出するので、正直なところ、前半より格段に読みやすかった。しかし、これまでは中国の側から匈奴を見た歴史しか知らなかったので、本書のように、単于(匈奴の君主)の系譜を丁寧に追っていくような記述は初めてで、とても面白かった。初代頭曼単于、2代冒頓単于(最も有名)から、22代蒲奴単于まで、省略なく記述されている。

 この時代、内陸アジアではさまざまな小国家の興亡があり、匈奴の中でも分裂や権力争いがあった。漢人と匈奴の関係は、絶対的な敵対ではなくて、匈奴が才能ある漢人を取り立てるとか、食うに困った漢の貧民が匈奴の側に逃亡するとか、いろいろな交流があったようだ。そうやって文化は混ざり合ったんだろうな。また、武帝の西域経営がかなり高圧的だったことや、それでも漢との関係はまだよかったが、王莽の新は漢民族中心主義を強行したため、匈奴との関係が険悪になったことは初めて知った。かの有名な王昭君には云(うん)という娘(再婚後の娘)がおり、云は王莽との間で外交交渉に献身したが、長安に連行され、漢の復興を目指す軍隊によって、王莽とともに殺されてしまう。なんと王昭君より悲劇的な女性ではないか!

 匈奴は南匈奴と北匈奴に分裂し、南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むようになる。一方、北匈奴は後漢の記録から消えてしまう。そこで、この北匈奴の後裔が「フン族」ではないかという説が生まれた。むかし、高校の世界史でこの説を聞いたときは、大陸の東と西がちゃんとつながっているんだということを実感して、少し感動したことを覚えている。しかし、この説について、著者はさまざまな議論を紹介しながら、慎重な立場を取っている。

 中央アジアの本格的な考古学的調査は、まだ始まったばかりで、さまざまな可能性が残されているように思う。本書「考古学からみた匈奴時代」の章には、1978年、北アフガニスタンで見つかった六基の墓とおびただしい金製品のことが紹介されている。これは、昨年2016年、東博の『黄金のアフガニスタン』展に来ていたものだ、とすぐに思い当たった。「学術文庫版のあとがき」には、原著(2007年)刊行後の発掘調査の主な進展が記載されている。これらも、やがて、展示会などを通して、私たち一般市民の目に触れる機会があることを願っている。
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コーヒーにナポリタン/昭和喫茶のモーニング&ランチ(TATSUMI MOOK)

2017-01-23 22:14:21 | 読んだもの(書籍)
〇喫茶店文化研究会監修『昭和喫茶のモーニング&ランチ:東京編』(TATSUMI MOOK) 辰巳出版 2016.6

 いつの頃からか、喫茶店のモーニングというのが好物になった。厚めのトーストにコーヒー。バターとジャムはほしい。卵やサラダはついていてもいなくても可。なぜか関西方面に旅行に行くと、こういうモーニングを出してくれる喫茶店によく当たる。京都のイノダコーヒーとか小川珈琲とか、大阪の三番館とか。これらは、チェーン展開はしているけれど、地域に根づいた喫茶店で、旅の楽しみになっている。それに比べると、東京都心部は、チェーン店のカフェばかりが目に入る。

 と思っていたが、本書を見ると、東京にもまだまだ昔ながらの個性的な喫茶店が残っているようだ。第1章は「モーニング・セット」おすすめの14店、第2章は「ランチ」推しの14店、第3章は「昭和の純喫茶進化形」10店、第4章は「定食サービス」に特徴のある10店を紹介する。文庫と新書の中間くらいの小型ムック本だが、喫茶店の内装や店主の紹介は最小限にとどめ、思い切りよく料理をアップにした写真が多くて嬉しい。店の所在地は、銀座や新宿も混じっているけれど、浅草・上野・入谷・三ノ輪など東京の東部(下町)と、吉祥寺・国立・立川などの西部(中央線沿線)の両極端が多くて、納得できる。

 モーニングの14店に私が行ったことのあるお店は1軒もなし。まあ東京育ちなので、必然的にそうなる。銀座の老舗「トリコロール」本店のモーニングは、バランスよく品がよくて美味しそう。いつか食べにいける機会があるかなあ。浅草の「珈琲屋」は厚切りトーストのボリュームが魅力的で、本書の表紙にもなっている。

 喫茶店のランチといえば、やっぱりスパゲッティ・ナポリタンが定番。二番手がチキンライス入りオムライスで、トマトケチャップは昭和生まれの好物なのだな。私も大好き。ナポリタンは、どのお店の写真を見ても、あまり差があるように見えないのがいいところ。しかし、新橋の「POWA」は別格な感じがした。グルメ雑誌にもよく紹介されるというナポリタン、一度、食べてみたいが、お店の内装が大人向けすぎて、心理的なハードルが高そうである。

 「昭和の純喫茶進化形」「定食サービス」では、カレーやシチューに加えて、焼き魚にごはんと味噌汁、しょうが焼き定食などの変わりメニューを出す喫茶店が紹介されている。本郷三丁目の喫茶「ルオー」はカレーとコーヒーのお店。懐かしいなあ。また食べに行きたい。
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視聴中:『射雕英雄伝』(2017年版)、『趙氏孤児案』他

2017-01-22 23:00:00 | 見たもの(Webサイト・TV)
 この週末は、あまり体調がよくなかったので、二日間とも家に引きこもって、テレビやビデオを見ていた。

■『射雕英雄伝』全52集(2017年、浙江華策影視)

 1月9日から東方衛視で放送が始まった『射雕英雄伝』(2017年版)、なんとYouTubeにすぐ流れてくることが分かってしまった。断片的な情報だと、週末に4話ずつまとめて放送されているらしく、現在、第8話までUPされている。もちろん中文字幕版だが、何度もリメイクを見ているドラマなので、全く視聴に問題はない。

 私は2003年の李亜鵬版が好きすぎて、2008年の胡歌版はどうも気に入らなかった。2017年版の主役、郭清(楊旭文)と黄蓉(李一桐)は「新人」と聞いていて不安だったが、悪くないと思う。楊康(陳星旭)はリメイクごとに雰囲気が変わるので、正解がよく分からない。モンゴルの描写は戦闘シーンに迫力があって、とても満足。だが、やっぱり梅超風は2003年版を超えるのは難しいなあ、などが序盤の感想である。このまま、本国の放送をリアルタイムに追いかけていきたい。

■『趙氏孤児案』全45集(2013年、中国中央電視台)

 昨年暮れから、GYAO!ストアで「天命の子~趙氏孤児」と題して配信されている。舞台は中国春秋時代の晋の国。趙朔とその一族は政敵の屠岸賈によって皆殺しにされたが、生まれたばかりの幼児だった趙武は、趙朔の食客・公孫杵臼と、友人・程嬰の機転によってただひとり生き残り、成人後、趙氏の再興を果たす。「史記」や「左伝」が伝える有名な物語で、元曲や京劇でも親しまれてきた。ドラマは、医者の程嬰(呉秀波)を主人公に、屠岸賈(孫淳)との腹の読み合い、頭脳戦が前半の見どころ。屠岸賈の造形が、愛妻家であり、刻苦勉励する能吏でもあり、単なる悪人でないところが魅力的だ。

 年末の配信が16話までだったので、続きが見たくてやきもきしていたら、ようやく17~30話がリリースされ、視聴継続中である。『射雕』と比べると、当たり前だが、画面も脚本も重厚である。さすが中国中央電視台制作(日本ならNHK)というところか。

 日本のドラマも見ている。今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』は、第3話まで視聴中。のめり込むほどではないが、今のところ、女性大河にありがちなストレスはなく見ている。『精霊の守り人』第2シーズン(連続9回)も今週末から始まった。陰謀と魔術とアクション満載で、だいたい中華古装劇を見るような感覚で見ており、楽しい。あと、これらと全く異なるシリアスな現代劇をひとつだけ、NHKドラマ10『お母さん、娘をやめていいですか?』を見ている。なんだか結果的に、NHKのドラマばかり見ているようだ。
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菌(微生物)のおかげ/醤油・味噌・酢はすごい(小泉武夫)

2017-01-20 22:54:57 | 読んだもの(書籍)
〇小泉武夫『醤油・味噌・酢はすごい:三大発酵調味料と日本人』(中公新書) 中央公論新社 2016.11

 食文化に関する本は、時々読みたくなる。若い頃は全く興味がなかったジャンルで、あまり知識の蓄積がないので、1冊読むと、新しい知識がたくさん得られる。本書は、日本人の食文化の基層とつながりが深い「醤油」「味噌」「酢」の三つの調味料について述べる。便宜上、三つの章に分けているが、醸造学的あるいは発酵学的視野から見ると、三者は互いに関連が深い。共通するのは「麹菌」である。気候風土が適しているため、日本には麹菌が、地球上で最も旺盛かつ強健に分布棲息している。麹菌は日本の「国菌」であると語られているが、そんな呼び方があるのか。

 本書の記述は文理融合的で面白かった。第1章は「醤油」で、まずその歴史を概観する。「醤」という字は中国由来だが、古来、日本には「比之保(ひしほ)」ということばがあった。おそらく肉や野菜を塩に漬けて保存することが行われており、材料から染み出た水分(浸透圧の原理)が、味のついた液体となることが知られていたのだろう。奈良時代の木簡や文書には、さまざまな「醤」が記されており、大豆や小麦を漬け込んだ「穀醤」は、今日の醤油の原形と見られる。初めて「醤油」の二文字が現れるのは室町時代だが、鎌倉・室町の醤油はトロリとした「溜(たまり)」状であり、江戸初期から今日の醤油の造り方が行われるようになった。

 歴史の次に「醤油ができるまで」の理科学的な解説がある。醤油とは、大豆と小麦でつくった麹と食塩水を原料にして発酵させ、それを搾って熟成させたもの、という基本的な工程さえ、私は知らなかったので、どんな発酵微生物(麹菌、醤油酵母、醤油乳酸菌)がどのように働くかなど、非常に興味深かった。

 次に「味噌」。これもはじめは歴史で、『三代実録』に初めて「味噌」の文字が登場し(早い!)『宇津保物語』に「みそ」が登場するとか、平城京で「未噌」が売られていたことが正倉院文書から分かるとか、『和泉式部続集』の詞書に「みそを人かりやるとて」とあるとか、豊富な実例が引かれている。戦国武将たちは、豊富な蛋白質を含み、兵糧となる味噌の生産を奨励した。朝鮮出兵の際、伊達政宗が持ち込んだ仙台味噌の品質が優秀で名を上げたという話は初めて知った。江戸時代になると、その土地土地で愛される御当地味噌が発展していく。

 味噌は色(赤・白)や味(甘・辛)によって、材料の配合や発酵微生物の種類にバリエーションがある。主たる材料は大豆で、米と米麹を使うのが「米味噌」、麦と麦麹を使うのは「麦味噌」だが、東海地方には大豆のみでつくる「豆味噌」がある(八丁味噌はその一例)。これは日本古来の味噌ではなく、朝鮮半島から高麗人によってもたらされたと考えられている。たぶん人間は食いしん坊だから、食文化は自然と混淆するんだなあ。

 最後に「酢」。そういえば『万葉集』に「醤酢(ひしほす)」を詠んだ歌があった。酢といえば寿司だが、平安時代の『和名類聚抄』には「鮨」、『延喜式』には「鮓」の表記がある。「酢」は発酵した「熟酢(なれずし)」と見られるが、「鮨」の解釈は一定しない。寿司好きの日本人は、早く食べられる寿司を求めて、なれずし→押しずし→巻きずし、ちらしずしを生み出し、江戸末期に握りずしが普及する。すし種も美味を求めてずいぶん変わってきたことに気づかされた。

 酢はエチルアルコールに酢酸菌が作用したもの。穀物を分解してできた唐、または果実に含まれる唐分に酵母を加えて酒(エチルアルコール)をつくり、「飲ん兵衛な」酢酸菌を作用させて酢を作る。なるほど、酢にもいくつか種類があるが、鹿児島福山町の黒酢は、中国から伝わった古い製造法を用いている。壺酢とも呼ばれ、何万個(!)もの壺が山の斜面に並んでいるという。小さな写真が載っていたが、いつか風景を見に行きたい。

 醤油・味噌・酢、私はいずれも好きだが、ふだんあまり接する機会のない「溜り醤油」や「白味噌」も味わってみたくなった。そして、われわれの豊かな食生活が、菌(微生物)のおかげだということがよく分かった。
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弱者に寄り添う/宣教師ザビエルと被差別民(沖浦和光)

2017-01-18 22:17:34 | 読んだもの(書籍)
○沖浦和光『宣教師ザビエルと被差別民』(筑摩選書) 筑摩書房 2016.12

 話題の映画『沈黙』を見る前に!というPOPに惹かれて、つい購入してしまった。本書は、フランスシスコ・デ・ザビエルを主とするイエズス会宣教師たちの海外布教の足跡をたどった著作。日本だけでなく、インドやインドネシアも舞台となっており、いずれの地域でも、彼らが底辺層の民衆への布教に力を尽くしたことが語られている。ザビエル(1506-1552)は、バスク地方にあったナバラ王国に生まれた。ザビエルとともに「イエズス会」を結成するロヨラ(1491-1556)もこの地方の生まれで、二人ともバスク人だったというのは、初めて知った。

 サビエルたちが活躍する時代の少し前、14世紀の西ヨーロッパはイスラム勢力に包囲されていたが、15世紀末、イベリア半島のレコンキスタ(国土回復)が完成すると、形勢逆転して、大航海時代の幕開けとなる。15世紀末から16世紀にかけては、宗教改革の大激動期でもあった。ルター派、カルヴァン派などプロテスタント各派が果敢な闘争を展開する一方、カトリック教会の中からも、民族や国家という枠組を越え、万人に開かれた「神の国」を目指す「イエズス会」が結成される。このへんは、だいたい自分が理解していた歴史像のとおりだった。

 そして、未知の世界に福音を伝えるため、海外に進出した宣教師たちは「植民地経営の思想的な尖兵」であったという考え方がある。著者は(例外はあるにしても)そのように考えていたと告白しており、私自身も同じ認識を持っていた。しかし、本書を読んで、イエズス会=侵略の尖兵という、一見「いい話の裏を暴いた」ような通説が、宣教師たちの活動実態に即していないことを思い知らされた。

 ザビエルは、1542年5月にインドのゴアに到着すると、現地語を学び、漁民の間で布教を開始する。彼の書簡が伝えるところによれば、まず漁民たちの文化や風俗を理解し、子どもたちのために小さな学校をつくり、病人の救済にも取り組んだ。「彼らにキリスト教の福音を直接説くことは、結果としてはその次の課題であった」という。漁民たちは、ヒンドゥー教の「不殺生戒」を犯すことによって、アウト・カーストの賤民と見られていた。

 1546~47年にかけては、マルク諸島(インドネシア東部、ニューギニア寄り)に赴く。島々には、元来、古マレー系の人々が住んでいたが、16世紀になると、特産品の香料を求めて新マレー系が移り住み、インドやアラブ系の商人を通じてイスラム教が入ってきた。しかし、古マレー系の先住民はイスラム教を受け入れず、イスラム商人は先住民の「首狩り」の習俗を蔑視していた。ザビエルは、首狩り族と疫病の危険があるという忠告にもかかわらず、未開の島々に渡り、野営をしながら先住民の村々をまわって、病人を介護し、子どもたちを教育しながら、彼らに洗礼を授けた。

 このような、インドとインドネシアにおけるザビエルの活動実態を知ると、文明化した日本での布教など、さほどの困難ではなかったろうなという感想とともに、日本での布教が、地位や教養のある人々だけをターゲットにしたものであるはずがないよな、という推測が湧いてくる。

 マルク諸島からの帰途、ザビエルは、マラッカで鹿児島出身の海商アンジロー(ヤジロー)と出会う。ザビエルは、アンジローともう二人の日本人をゴアに連れ帰り、洗礼と教育を施した。そして、アンジローを案内人とし、1549年、ついに日本の鹿児島に上陸する。鹿児島、平戸、山口など布教の旅を続けながら日本語を学び、「40日間で神の十戒を説明できるくらいは覚えました」というのに感心した。一方的にキリスト教の教義を押し付けたのではなく、ちゃんと現地文化を理解しようとつとめていたのである。

 1551年、日本を離れたザビエルは、中国・広東の沖合の島で亡くなり、遺骸はマラッカを経て、いまインドのゴアに埋葬されている。そして、ザビエルの遺志を継いで日本にやってきた宣教師たちは、戦争孤児の施設をつくり、学校を建て、生活困窮者や重病人の救済活動を精力的に行った。私が教科書やドラマを通じて培ってきた宣教師のイメージは、有力大名に布教する姿ばかりだが、実は「漂泊の遊芸民や賤民層からの入信者も少なくなかった」という。琵琶法師のロレンソ了西(了斎)とか遊芸民のトビアスとか、名前を聞くだけで小説的な想像力を刺激される。

 また「癩者」も多かった。フランシスコ会は、日本の7か所に病院を設け、その多くは救癩のための施設だった。迫害時代に入っても、フランシスコ会は特に東北地方での布教に力を尽くしたという。こうした実態を知らずに、イエズス会=侵略の尖兵みたいな一面的な見方を振りかざすことは、今後、やめにしようと思った。そして、イエズス会宣教師を警戒する通説の出どころとしては、続いて日本にやってきた新教国オランダの影響が強いのではないかと考えた。
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若冲は別腹/とりづくし+伊藤若冲+泉涌寺(京都国立博物館)

2017-01-17 23:19:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
 大阪東洋陶磁美術館の汝窯水仙盆を見たあと、ただちに京都に向かったら、空間がねじれているかのような天気の違い…。コートの雪を払いながら、京都国立博物館の平成知新館に入る。

 

■平成知新館2F-1~2 新春特集陳列『とりづくし-干支を愛でる-』(2016年12月13日~2017年1月15日)

 3階は閉室中のため、展示は1、2階のみ。新春特集の「干支づくし」展示は、東博ではもう12年以上の歴史を持つが、京博では昨年始まったばかり。干支が一周するまで、当分楽しめそうだ。冒頭は斉白石の『大鶏小鶏図』。東博も斉白石の『雛鶏図』と『菊群鶏図』を出していたので、おや偶然?と思った。ほほえましいヒヨコとニワトリに和む。宋紫石の『牡丹双鶏図』は、記憶にない珍しいもの。白色レグホンみたいな鶏の夫婦が描かれている。華やかで楽しい『百鳥文様打掛』は、かつて特別展観『百獣の楽園』で見たことがある。

 雪舟の『四季花鳥図屏風』(京博所蔵)は、東京にいるとなかなか見る機会のないもので、こんな特集陳列で見てよいのかと驚いた。ぼんやり眺めているうち、右隻の身を反り返らせた松(細い枝先が画面の中央あたりに空から垂れている)と、左隻の左上から斜めに降下し、また上に向かうとする白梅のかたちが、光琳の『紅白梅図屏風』によく似ていることに気づいた。この絵は何度か見ているはずなのに、突然感じたことなので記しておく。

 京狩野六代目・狩野永敬の『四季花鳥図屏風』は、ちょっと狩野派と思えない。沈南蘋の影響を受けているとかで若冲にも似ている。長山孔寅という画家の『群鶏図屏風』も若冲もどきで、これは注文に応じて、意識的に斗米翁(若冲)を模倣したことが書き付けられている。そして仕切りの壁をまわると、次室から若冲特集である。

■平成知新館2F-3~5 特集陳列『生誕300年 伊藤若冲』(2016年12月13日~2017年1月15日)

 全28点という小規模展示(うち京博所蔵7点)だが、セレクションが素晴らしい。『墨竹図』とか『筍図』とか墨画の小品からして「私の見たかった若冲」にドンピシャ嵌る。『四季花鳥図押絵貼屏風』は、『芸術新潮』2016年5月号の特集「若冲・水墨ニューウェイヴ」で、学芸員の副士雄也さんが紹介していた作品。雑誌には小さな写真しか載っていなくて、よく分からん!とフラストレーションを感じたのだが、ついに実物を見ることができた。なるほど技量は未熟だ。顔だけ白くて体が真黒なニワトリとか何あれ。でも画面に顔を近づけて、墨の黒さ、筆さばきのスピードを味わうと「力技ともいうべき大胆さ」「ほとばしる情熱・エネルギー」が、だんだん愛おしくなってくる。この特集展示の担当は福士さんであったか、と気づく。

 このエネルギッシュな作品が40代半ば。50代の作品は『隠元豆双鶏図』など、温和で抑制された表現が見られる。若冲らしい面白味に欠けるので、あまり注目されてこなかったが、70代の軽妙洒脱な画風に移行していく重要な過渡期と考えられている。少ない作品数で、若冲の変化と進化がよく分かる展示構成である。

 人物画、山水画にも目配りが行き届いている。近年、見出された『六歌仙図押絵貼屏風』は初公開。しかし、幾何学図形のように簡略化されたフォルムの六歌仙が、ニワトリに見えてならない。特に小町。思わず笑ってしまう『蝦蟇河豚相撲図』は大好き。着色画は少なめだったが、初公開の『大根に鶏図』は晩年の作で、工芸品のような美しいニワトリなのに、無心に大根の葉をつまむ姿がリアルで面白かった。

 11メートルを超える画巻『乗興舟』は完全公開。漆黒の空、淡墨の川、その中間の墨色の山、という三色の帯が、それぞれ太くなったり細くなったりしながら続いていく姿に、気持ちよいリズムがある。出発点が伏水(伏見)口で、最後は霞に浮かぶ天満橋なのだが、漢文には「虹橋」という文字が見えて、やっぱり清明上河図を意識しているのかなと思った。羅漢さんのユートピアを描いたような『石峰寺図』も、なかなか見られないもの。『石燈籠図屏風』『百犬図』(※これは寄託品)『果蔬涅槃図』は「京博の若冲」を語る上で外せないもので、ちゃんと出してくれて嬉しかった。

 昨年は主な若冲展を全て見てまわったけど、「京都国立博物館だより」に書かれていた「若冲は別腹」に、すごく共感してしまった。そして、若冲イヤー2016年の掉尾を飾る素晴らしい展覧会を開催してくれた京博には感謝の言葉しかない。最終日に駆け込みだったので、雪で臨時閉館したらどうしようと気を揉んだけれど、見ることができて本当によかった。

■平成知新館1F-2,3,5 特集陳列『皇室の御寺 泉涌寺』(2016年12月13日~2017年2月5日)

 1階は、一部の展示室を使って本展を開催。京都市東山区の泉涌寺は、平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基は鎌倉時代の俊芿(しゅんじょう)法師で、入宋して多くの文物を持ち帰り、宋風の伽藍を目指した。彫刻は、塔頭・来迎院の三宝荒神坐像(四臂、秘仏)、楊貴妃観音と呼ばれる観音菩薩坐像、筋骨たくましい五体の護法神立像、宋や高麗の仏画に多い逆手の阿弥陀如来立像、いかにも宋風で人間的な月蓋長者像など、個性的なものが多くて見飽きない。その他、頂相、書画、工芸など豊富で面白かったが、出品リストしかないのは寂しい。せめてリーフレットくらい欲しかった。
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人類史上最高のやきもの/北宋汝窯青磁水仙盆(大阪市立東洋陶磁美術館)

2017-01-16 23:34:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪市立東洋陶磁美術館 特別展『台北 國立故宮博物院-北宋汝窯青磁水仙盆』(2016年12月10日~2017年3月26日)

 ずいぶん前から「人類史上最高のやきもの 海外初公開、初来日」という宣伝チラシを見かけて、大きく出たなあと苦笑する気持ちと、まあ当然だよね、と納得する気持ちの半々でいた。本展には、台北の国立故宮博物院から、汝窯の最高傑作『青磁無紋水仙盆』をはじめとする北宋汝窯青磁水仙盆4点と、清の皇帝が「青磁無紋水仙盆」を手本につくらせた景徳鎮官窯の青磁水仙盆1点が出陳されている。これに加えて、東洋陶磁美術館が所蔵する汝窯水仙盆1点も展示される。

 開館と同時に入って、2階にあがってすぐの企画展示室へ。正方形に近い小さな展示室で、四方の展示ケースに、いずれ劣らぬ気品ある姿の汝窯水仙盆が鎮座しているのが、一気に視界に入る。とりあえず左回りに順序よく見ていくことにする。展示ケースのガラス面に、それぞれのキャッチフレーズが添えられていた。

V)青磁水仙盆/汝窯・北宋/大阪市立東洋陶磁美術館・安宅コレクション「伝世汝窯青磁の日本代表」
 やや小ぶりな印象。口縁部には黒っぽい銅の覆輪がはめられている。貫入が目立つ。

II)青磁水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「天青色の極み」
 いちばん青みが強い。口縁部には黒っぽい銅の覆輪がはめられている。大きさは故宮博物院の所蔵品の中ではいちばん小ぶりで「V」に近い。今回の展示は、どれも鏡とガラス板の上に作品を置いて、底の裏が見えるようにしている。裏に乾隆帝の御製詩が刻まれているのだが、光線の加減で、ほとんど見えなかった。

III)青磁水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「最大サイズの水仙盆」
 他より口径が3センチくらい大きい。脚はきわめて短く、ほぼ脚がない印象。色は比較的青みが強い。覆輪なし。内側は滑らかだが、外側は貫入が目立つ。裏に御製詩あり。

I)青磁無紋水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「人類史上最高のやきもの」
 これだけ名前に「無紋」が入っているのは、貫入が全くなく、内側も外側も奇跡的に滑らかなのである。照明が当たって、きらきら輝いていた。覆輪なし。いくぶん深めで脚も長く、シルエットも美しい。裏に御製詩あり。

IV)青磁水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「無銘の帝王」
 大きさ、形態は「I」によく似ている。色は少し緑がかっている。裏に御製詩がないので「無銘」と言われるのだろう。

VI)倣汝窯青磁水仙盆/景徳鎮官窯・清雍正~乾隆年間/台北国立故宮博物院「汝窯青磁水仙盆へのオマージュ」
 これは1点だけ単独のケースに入っていた。「I」をモデルに作らせたものという。かたちはよく似せているが、釉薬の色はなかなか制御できないのだろう。質感がマットになり過ぎている。

 昨年5月、台北の故宮博物院を訪ねたとき、ちょうど「朝星の如く貴き-清朝宮廷に収蔵された12~14世紀の青磁特別展」という特集展示をやっていて、私はI~IVの水仙盆を現地で見ている。ただし最高傑作の「I」は別室にあって、II~IVと比較することができなかった。また、最近の故宮博物院は、大陸の団体客が多くて騒がしく落ち着かない。それに比べると、今回の展示は「人類史上最高のやきもの」を心ゆくまで堪能できる、実に貴重で幸福な機会だと思う。正直、東博に白菜がきたときみたいな騒ぎにならなくて、本当によかった。いつか台北に行こうと思っているやきものファンは、ぜひいま大阪へ!

 なお今回、I、II、VIの付属品も出陳されている。Iの付属品は、まず、紫檀描金の台座。水仙盆の楕円形に四つ脚のかたちを模しているのが面白い。汝窯青磁の軽やかな透明感と、渋い紫檀描金のコントラストのセンスがすごくいい。そして、台座の引き出しを開けると、乾隆帝による「御筆書画合璧」という小冊子(折本?)が入っている。「臨黄庭堅」「臨蘇軾」などの詩、梅、蘭、松などの墨画、そして「太上皇帝之宝」の印影など。書画なら賛や跋を記したり、何度も印を押すことで、所有権を確認できるけれど、やきものにはできないので、こんな附属品をつくったのだろうか。IIも同型の台座。VIは小判型の平たい弁当箱のような台座で、やはり乾隆帝筆「臨王義之五帖」という冊子が入っている。

 平常展『安宅コレクション中国陶磁・韓国陶磁』、特集展『宋磁の美』も力が入っていた。韓国陶磁は、青磁の優品を揃えている感じで、中国陶磁は、金や遼の三彩が面白かった。特別展の図録は、確かに写真は素晴らしいのだが、ハードカバーで重たそうだったので二の足を踏んだ。かわりに、乾隆帝筆「御筆書画合璧」の写真が大きく載っていた「聚美」という雑誌(特集・汝窯-珠玉の青磁)を買って帰った。

※1/17追記



 これと同じ写真を、行く前にSNSで見て、え!汝窯水仙盆に水仙生けちゃったのか!と驚愕したが、さすがに違った。これは日本の陶芸家・島田幸一(1937-2016)の作品。半生をかけて汝窯の「再興」に取り組んだが、納得のいくものは20点に満たなかったという。水仙盆は4点あり、うち2点の作品が展示されている。常設展エリアのいちばん奥なので、ぜひ見逃さないでほしい。このエリアだけ写真撮影可。水仙は造花。
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ケレンと人情/文楽・奥州安達原、染模様妹背門松、他

2017-01-15 23:56:47 | 行ったもの2(講演・公演)
国立文楽劇場 平成29年初春文楽公演 第1部(1月14日、11:00~、16:30~)

・第1部『寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)』『奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)・環の宮明御殿の段』『本朝二十四孝(ほんちょうにじゅうしこう)・十種香の段/奥庭狐火の段』

 明けましておめでとうございます。正月は大阪文楽劇場の初春公演を見に行くのが、すっかり定例になってしまい、これがないと年が明けた気がしない。今年も舞台の上には「にらみ鯛」と「大凧」。大凧の文字は、生國魂神社(大阪市天王寺区)の中山幸彦宮司による「丁酉」。



 第1部は「国立劇場開場五十周年を祝ひて」目出度く『寿式三番叟』で幕開け。舞台の後方の雛壇に三味線と太夫、9名ずつが並ぶ。中央は呂勢太夫と鶴澤清治。三番叟は一輔(又平)と玉佳(検非違使、イケメンのほう)。かなり激しい動きで長い時間、動き続けるので、これは体力がいるなあと思った。あとで劇場1階の展示室をのぞいたら、過去の『寿式三番叟』のダイジェスト映像をつないだものが流れていて、文雀さんと先代の玉男さん(左を遣っているのが今の玉男さん)、蓑助さんと勘十郎さん、かなり若い桐竹紋寿さん、吉田文吾さんなど、懐かしい映像を見ることができて嬉しかった。

 『奥州安達原』は題名だけ知っていたが、初めて見た。安倍貞任、宗任兄弟と源義家が登場する。史実を大胆に改変して虚構の物語世界をつくっているわけだが、その設定がかなり複雑なので、幕間にプログラムの解説を読んでおかなかったら、全く分からなかっただろう(久保裕明先生の「ある古書店主と大学生の会話」が分かりやすい)。しかし、親に隠れて安倍貞任(仮の名を桂中納言則氏)と通じて子をなした袖萩は、あそこまで罵倒されなければならんのか。町人の娘ならともかく、武士の娘たるもの、というのだが、封建社会は面倒くさい。もちろん義理をいうのは建前で、父も母も、内心には娘への愛情を持っているのであるが。

 『本朝二十四孝』も、私は何度か見ているので人物関係が分かっているが、今回の上演部分だけだと理解しにくいのではないかと思う。隣のおばさんが「よう分からんわ」とぼやいていた。しかし筋が分からなくても、火の玉とか早変わりとか、ケレンたっぷりで目に楽しい演目である。勘十郎さん、くるくるよく回るので、振り回される左遣いと足遣いが大変そうだった。蓑助さんの腰元濡衣は、やっぱり格段に色っぽい。

・第2部『お染久松 染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)・油店の段/生玉の段/質店の段/蔵前の段』

 第2部はあまり期待していなかったのだが、かえって第1部より面白かった。世話物は、時代物と違って込み入った設定もないし、詞章も平易なので耳で聞いてほぼ分かる。「油店の段」は、中を咲甫太夫、切を咲太夫。咲甫太夫さんの声も好きだが、咲太夫さんの芸がすばらしい。老若男女、十人に及ぶ個性的な登場人物を語り分けながら、旬なギャグも挟んでくる(誰が書いているのだ?)。人形は、失敗ばかりの小悪党の善六を勘十郎さん。笑いを誘う役が本当にうまい。久松の父親・久作は玉男さんで、こういう頑固で実直な百姓役がよく合うように思う。

 物語は、途中の「生玉の段」が全て夢であったというのが、ちょっと面白い趣向。それから、お染久松の恋敵(お染の嫁入り先)の山家屋清兵衛というのが全く悪人でなく、むしろ人格者というのが面白かった。でもお染にとっては、大人(おとな)の山家屋より、いたずら者で将来のない久松のほうが魅力的なんだろうな。蓑二郎さんのお染は娘らしく可憐で、しかも色っぽかった。これから注目していこう。

↓1階ロビーに置かれたにらみ鯛。


↓開演前、床(太夫と三味線が登場する台)に飾られた大阪風のお供え餅。


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公衆衛生の誕生/感染症の近代史(内海孝)

2017-01-13 00:39:47 | 読んだもの(書籍)
○内海孝『感染症の近代史』(日本史リブレット) 山川出版社 2016.10

 江戸時代の日本は清潔だったという言説がある。まあこれは、虚偽とは言わないけれど、清潔の基準によるのではないかと思っている。本書は、幕末から明治初期にかけての感染症(伝染病)流行の実態と、その防止につとめた人々の努力が語られている。近世以前の日本では、疫病によって多くの命が失われたため、季節ごとに邪気を払い、非業の死を遂げた人を悼むことが年中行事化した。京都の祇園祭や江戸の隅田川花火大会もそうである。

 古代から日本人を苦しめてきた疫病に天然痘がある。予防法である牛痘種痘法は、発見から半世紀後の1849(嘉永2)年に日本に伝わった。その年から二千人余に種痘を施したのは、安芸の国の蘭方医、三宅春齢。1857(安政4)年、江戸の蘭方医がお玉が池に種痘所を開く。しかし、1866(慶応2)年の年末に京都で孝明天皇が天然痘のため死去。親王(のちの明治天皇)の祖父にあたる中山忠能は、蘭方医の大村泰輔をして、密かに親王に種痘を施していた。「密かに」というのは、ものすごい危険を冒した大英断だったんだなあ。

 そののち、新政府成立後の1876(明治9)年、内務省は天然痘予防規則を布達し、小児の種痘を義務化する。孝明天皇の死から、わずか10年しか経っていないのだから、この変化はすごい。この間に、岩倉米欧使節団の派遣があり、理事官随行員の長与専斎は、ドイツとオランダに赴き、医学教育、貧民救済、上下水道の整備、薬品・飲食物の用捨取締などを調査し、帰国後、文部省の医務局長に就任して、「医制」の改正を行った。長与が調査したのは、今なら「衛生行政」とか「厚生行政」と呼ぶべきものだろうけど、その言葉も概念もない状態で、現実の仕組みを日本に移植しようとしたのだから、この時代の行政官(学者)はすごい。

 さて、19世紀に世界を席巻した流行病はコレラである。インドの風土病であったコレラは、欧米諸国の貿易活動によって地球規模に拡散した。日本への初襲来は1822(文政5)年で、その後も繰り返し流行が見られた。1877(明治10)年のコレラ流行に際し、横浜在住の外国人たちは日本人に手洗いの敢行を呼びかけた。「手洗い」は今日でも感染病予防の有効な手段だが、外国人から見ると、多くの日本人が「清潔な習慣を身につけているとは決していえない」状態であった。

 「清潔な水」の問題もある。イギリス人ブラントンは、井戸からさほど離れていないところに簡易便所や糞尿溜めが作られているため、地中の水脈を通って、有害物質が井戸の水に流れ込んでいることを指摘し、近代的な上下水道工事の必要を説いた。この、汚物と水汚染の問題は、モースも指摘している。また長崎で医学教育にあたったポンぺは、時々、学生と市中を散歩して、臭い溝、汚物の山などを見せ、これらが人類の衛生上、恐るべき害をもたらすことを説いたが、衛生学の講義は「最初、学生にはほとんど受け入れられなかった」という。怪我を手当するとか、病気を治療することは理解できても、予防、保健衛生の意義は、なかなか理解されなかったのだろう。

 もっとも、当時のヨーロッパも、コレラの流行に震撼しながら、近代的な公衆衛生のシステムを急速に確立していた時期なので、日本がいちじるしく遅れていたわけではないようだ。

 感染症は外国船舶が運んでくることが多いため、「検疫」は重要な予防策である。また、戦争はしばしば感染症の流行を引き起こす。西南戦争においては、長崎のコレラが戦場地の鹿児島に達し、凱旋する兵士の輸送船が神戸港に入港すると(兵士たちは制止命令を聞かずに上陸し)町家でコロリと息絶える者があったという。これは西南戦争の余話として知らなかった。怖い話である。不平等条約の時代、検疫で足止めされることを嫌ったドイツ船が、日本側の官憲の制止を無視して、乗客と荷物を上陸させた事件もあった。主権が守られなければ、感染症の予防も完遂できないのだということをしみじみ感じた。

 このほか、1899(明治32)年のペスト流行、1913(大正2)年のスペイン風邪(流行性感冒)、肺病(結核)についても簡単な記述があるが、もっと詳しいことが知りたくなった。最後に、明治のお雇い外国人医師ベルツは、駒込の伝染病院を訪れ、バラックのように貧弱な施設、患者数に対する医師や看護婦の少なさを見て「一体東京市は、病気の市民のために何をしているのだ!」と憤激している。私たちは、日本が他国と比べて清潔かどうかよりも、この国で貧しい人たちの生命がきちんと保護されてきたかを気にした方がいいと思う。
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職人の絵心/染付誕生400年+興福寺の梵天・帝釈天(根津美術館)

2017-01-11 23:22:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 コレクション展『染付誕生400年』(2017年1月7日~2月19日)・特別展示『再会-興福寺の梵天・帝釈天』(2017年1月7日~3月31日)

 まだ松の内のゆったりした空気の残る美術館に、いそいそと出かけたのは、染付磁器が大好きなのもさることながら、特別展示の梵天と帝釈天が見たかったためだ。展示室3に直行すると、左に帝釈天立像、右に梵天立像が並ぶ。この展示室は、狭いけれど、高い天井から足元までが全面ガラス張りで、しかも透明度が高く反射の少ないガラスを使っているので、何の障壁もなく仏像に向き合っている気持ちになる。ガラスの存在を忘れて、まっすぐ歩み寄ってしまいそうだ。

 二つの像は、どちらも奈良の興福寺に由来する。治承4年(1180)平重衡の焼き討ちの後、仏師定慶によって作られたもので、銘文から、帝釈天立像は建仁元年(1201)、梵天立像は建仁2年(1202)の作と分かっている。帝釈天立像は、明治年間に益田鈍翁に渡り、のち根津美術館の所蔵するところとなった。後ろの壁には、根津嘉一郎(初代)と帝釈天のツーショット写真も展示されていた。梵天立像は、現在も興福寺の所蔵である。実は、あまり記憶がなかったが、ふだんは国宝館で展示されているらしい。2009年に国宝館を見たときに「気になった」という印象をメモしている。

 このたび、興福寺の国宝館が耐震改修工事のため、平成29年1月1日から12月31日まで休館することを機縁に、梵天立像に東京においでいただき、112年ぶりに梵天と帝釈天が再会する特別展示が実現することとなった。どちらも鎌倉風(宋風)の清新で溌剌とした仏像だが、並べてみると印象はかなり異なる。像高はほぼ同じだが、帝釈天のほうが頭部が大きく、眼も鼻も大きくて、顔立ちがはっきりしている。胸の前にあげた右手は変わった印を結び、左手には蓮華を持つ。高く結った髪は台形に近いスマートなかたちである。

 帝釈天がソース顔なら梵天はしょうゆ顔か。卵形の温和な顔立ち。ぽってりした唇は少しへの字に結ぶ。右手は胸の前、左手はお腹の横あたりで軽く握っている。結髪は円筒形。よく見ると、髪の生え際から上が不自然にへこんでいて、本来は宝冠を取り付けるかたちになっていたものと思われる。心なしか梵天のほうが、宋風彫刻との近さを強く感じさせる。そして、どちらも華やかな彩色の名残を微かにうかがうことができる。

 あらためて、コレクション展の会場へ。本展は、平成10年(1998)に山本正之氏から寄贈された作品を中心に、17世紀から19世紀までの肥前磁器を概観する。開催趣旨によれば、世界中が憧れたやきものである磁器は、日本では今からおよそ400年前の元和2年(1616)、朝鮮半島より渡来した陶工・李参平が、肥前でその焼成に成功したのが始まりとされている。これは知らなかった。1610年代から磁器の焼成が始まったというのは、だいたい認識していたけれど、「元和2年(1616)」というのが何の記録によるのかは確かめていない。しかし、有田は2016年に「日本磁器誕生・有田焼創業400年」という記念事業をやっていたのだな。全然知らなかった。

 展示は、おおよそ時代順に、初々しい小さな染付磁器に始まり、次第に大皿やバラエティに富んだ意匠が誕生し、色絵や金襴手も登場する。展示室2は、洗練をきわめた鍋島の特集だが、私は、展示室1に戻って、民窯らしい「抜けた」図柄が好き。職人が描いた山水図や人物画は、自由で無防備で、専門絵師の作品にはない、幸せな味わいがある。種類は分からないが、顔が長くて背びれの大きいサカナ、大きく口を開けて無心に歌っているトリの姿にも惹かれる。

 なお、東大構内(看護師宿舎、中央診療棟などの病院エリア)で出土した施釉磁器の破片も展示されていた。このエリアは大聖寺藩上屋敷跡に当たるらしい。多くは小さな断片だったが、直径20センチほどの完形に近い染付皿も発見されていた。

 展示室5は、この季節にふさわしい『百椿図』。展示室6は「点て初め-新年を祝う-」と題したしつらえで、1階が染付磁器の特集であるため、わざとそれ以外の茶器を選んで展示しているように思った。大井戸茶碗とか絵唐津とか、中国磁器の『呉州赤絵玉取獅子文鉢』や『祥瑞山水文徳利』も大好き。青の染付もいいが、赤絵もいいのである。
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