てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ある俳優の思い出(1)

2017年06月20日 | その他の随想


 少し前の話になるが、先月伝えられた日下武史の訃報は、文学に熱中していた若いころの自分を不意に思い出させた。

 といっても、日下の名前がどれほど人口に膾炙しているのか、ぼくは知らない。おそらく、知名度なるものがテレビへの露出によって大きく左右されることの多い昨今では、彼のことなど知らないという人が多いような気もする。

 実をいうと、かくいうぼく自身も、テレビのなかで動いている彼の姿を見たという記憶はほとんどないのだ。報道でも紹介されていたように、日下武史は劇団四季の創設メンバーのひとりで、テレビよりも舞台の人であった。同じ大学出身の浅利慶太は劇団を代表する存在としてみるみる有名になっていったが、あくまでも役者として舞台に立ちつづけた日下は、スターと呼ぶには程遠い地道な人生を送ったといえる。

 では、ふだん舞台をほとんど観ることのないぼくがなぜ日下の存在を知っているのか。それは、ずいぶん前にNHKで放送されていた「テレビ文学館」という番組で、彼が小説を朗読しているのを耳にしたからだ。その哀愁を帯びた声と、人生の機微に触れるような豊かな表現力は、たちまちぼくを惹きつけてしまった。

(画像は記事と関係ありません)

つづく
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底知れぬ美醜のあいだ ― クラーナハを観る ― (2)

2017年04月03日 | 美術随想

〔「クラーナハ展」のチケット〕

 画家の正式な名は、ルカス・クラーナハ。ただ、西洋の芸術家にはよくあることだが、同姓同名の息子がいるため、しばしば混同される。たとえばブリューゲルやヨハン・シュトラウスのように、氏名に(父)や(子)を付けて呼ぶのが理想的なのだろうが(もっとも、ヨハン・シュトラウスに関しては「1世」「2世」という、まるで漫画の大泥棒のような呼びかたで区別するのが定着しているけれども)煩雑に過ぎるので、ここから「クラーナハ」と書くときは父親のことだと思っていただきたい。

 なお、これは今回はじめて知ったことだが、クラーナハはルーベンスと同様に巨大な工房を経営していたらしく、クラーナハ作の絵といえども、すべてが彼自身の手になるものではないかも知れない。ヌードのような人眼をはばかるような作品を大勢で寄ってたかって描いていたとは、ちょっと考えにくいのだが・・・。

 しかしそのせいか、多くの注文に次々と応えることができ、「素早い画家」などと称されていたという事実も、まことに意外である。いわば、フル稼働で多数の商品を量産しては世に出していく、有名企業のような一面があったということだろうか? 現在、クラーナハの真骨頂として伝えられているのは、そういった側面ではないように思うけれど・・・。

 以上のような点を踏まえながら、おそるおそる、クラーナハの妖しい世界に足を踏み入れることにする。

                    ***


クラーナハ『聖カタリナの殉教』(1508/09年頃、ラーダイ改革派教会蔵)

 とはいっても、クラーナハは最初から淫靡な、謎めいた絵を描いていたわけではない。彼が生きた時代は、王侯貴族たちやキリスト教会が最大のパトロンであったはずで、工房を切り回して注文仕事を意欲的にこなしていったのも、そういった関係を良好に維持するためだったのではないか、という気がする。彼が宗教改革を指導したマルティン・ルターの親友だった一方で、カトリック側との交渉も絶やさなかったという“世渡り”の巧みさが、クラーナハのしたたかさを焙り出す。

 卑近な例だが、現代でいえば、顧客の要求には無理をいわれても全力で応える下請けの会社のような部分もあったのだ。ただ、日本の狩野派が幕府のお抱え絵師集団であったように、彼らの絵は公的な場所に掲げられる栄誉を約束されてもいた。今、当時の社会の仕組みなどは遠く忘れ去られ、作品だけが残っている。芸術は強し、と思うのはこんなときだ。

                    ***

 『聖カタリナの殉教』は、今でもそういった教会のひとつに所蔵されているらしいが、単なる聖書の“絵解き”とも、ましてや聖人の肖像画ともちがう。

 ぼくはクリスチャンではないので、詳しいことはもちろん知らない。ただ、聖カタリナのアトリビュートが“壊れた車輪”であることは知っている。これは、カタリナが車輪にくくりつけられて拷問されそうになったとき、たちまち車輪が壊れてしまったというエピソードに基づいているという。この絵の右端にも車輪が描かれているが、それが取り付けられている見慣れない木製の機具そのものが、カタリナを痛めつけるための道具だったのだろう。

 しかし拷問の道具は、神の力によって破壊されてしまう。画面の右上から降り注ぐ爆弾のような光が、おそらくそれであろう。ついには、聖カタリナは斬首されたということだが、この絵のなかでは背中に剣を突きつけられている。

 要するに、これは時系列も何もムチャクチャなままにあらゆるエピソードが詰め込まれた、カオスのような絵画なのだ。こういった作品が教会に掲げられるのがふさわしいかどうか、ぼくにはわからない。のちのクラーナハの絵と比べると、いろいろ描き込まれすぎているような感じはある。

 ただ、首もとをつかまれながらも凛とした表情を崩さず、天に向かって祈りを捧げる聖カタリナの姿は、周囲が混沌としているゆえに、より引き立って見えるのではあるまいか。けれども、この頃にクラーナハが描いた女性像は、間違っても淫靡さや妖しさをまといつかせてはいないのであった。

つづく
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底知れぬ美醜のあいだ ― クラーナハを観る ― (1)

2017年04月01日 | 美術随想

〔クラーナハ展が開催されている国立国際美術館〕

 クラーナハという画家は、たしかに以前から聞いたことがあった。ただ、その名前はクラナハだったり、クラナッハだったり、日本語の表記がかなり揺れ動いていたような記憶がある。

 それもそのはず、クラーナハの全貌が日本で紹介されるのは、今回がはじめての機会だという。無名とはいえないはずの画家であるのに、美術の世界は掘り返せば大判小判がどんどん出てくるものらしい。最近、わが国で繰り返される展覧会の企画にはややマンネリの気味がないでもないと感じていたが、このような未知なる存在もどんどん紹介してほしいものだ。

                    ***

 さて、ぼくがクラーナハのことを心に刻んでいたのは、知名度や美術史上の重要さによってではなく、ひとえにその“妖しげ”な作風のためであった。

 おそらく子供のころから、百科事典の図版のようなもので彼の絵を眼にしていたにちがいないと思うが、それはいわば子供が観るべきではない、禁じられた世界のように思えた。

 いや、世界などというと大げさかもしれない。少年漫画のような健全な(・・・というと異論もあると思うが)イメージに囲まれていた小学生のころのぼくにとっては、“魔性”を連想させるクラーナハの、暗く、淫靡で、どことなく底なしの深さを感じさせる絵は、まるでポルノ映画館の前を通りかかったときのような、一種の罪悪感と羞恥心とを伴うものであったはずである。

 だが、現在のぼくはすっかり大人、というよりも中年と呼ぶべき年齢なのだ。今さらポルノ映画館の前を通っただけで赤面するというガラでもない。1年ほど前には、京都に巡回してきた「春画展」を観たという実績(?)もある(ただ、これは大勢で観るようなものではないとも思ったが)。

 ここは思い切って、少年時代の先入観を払拭すべく、クラーナハの絵とじっくり向き合うために出かけることにした。

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年越しあれこれ(2)

2017年01月03日 | その他の随想
 境内には、お坊さんかそれとも司会進行の担当者か、朗々たる声がマイクを通して響き渡る。まるでイベントの開始を告げるかのようである。

 そう、ぼくは今まさに、これから除夜の鐘を突きはじめようとする瞬間に行き合わせたのだった。これまで何度も年越しの瞬間を寺で過ごしてきたが、こんなことははじめてだ。

 司会の声が、今から除夜の鐘の第一打を突くにあたり、皆さんは合掌を、などといっている。鐘楼を取り囲む多くの人々は、いわれたとおりに手を合わせる。ぼくは少し鼻白んできたのだが、ここで多数派に逆らっても仕方ないのでおとなしく合掌した。思ったよりも大きい梵鐘の音が、そんなすべてを包み込んで来年へと押し流そうとする。

 実は、除夜の鐘を突くための整理券が配られていたらしいのだが、ぼくが薬師寺に到着したときには受付が終わっていたのか、どうすれば鐘が突けるのかがわからない。ただ、すでに券を持っている人たちはとぐろを巻くように鐘楼の周りに並び、自分の番が来ると嬉々として鐘を突いている。なかには歯を見せて、笑いながら突いている人もあるほどだ。前にも書いたが、本来はもっと“厳しさ”が、ないしは“厳粛さ”があってもいいのではないかと思うのだが、除夜の鐘は新年を迎えるための空虚な儀式のようなものに成り下がってしまったのだろうか?

 仕方がないので、次々と突かれる鐘の音を聞きながらうろうろしていると、再びマイクの声で「3、2、1、明けましておめでとうございます」と叫ぶのが聞こえた。まさか、ここでもカウントダウンをやってくれるとは・・・。


〔昭和56年に復元された西塔を下から見上げる〕

                    ***

 せっかく来たのだからご本尊でも拝もうと思ったが、金堂の前には長蛇の列である。いったいどんなご利益があるのか知らないが、ここに並ばなければならないとすれば、新年早々かなりの試練だ。例年、デパートなどで福袋の争奪戦を経験している人には大した苦労ではないかもしれないが、一向に列が進む様子がないので、あきらめて隣の大講堂に入る。

 ここにいらっしゃるのは、巨大な弥勒三尊。そして、現代の彫刻家である中村晋也が制作した僧形の菩薩像がそのあいだに挟まるように立っている。中村晋也といえば、最近のドラマで話題となった五代友厚の像を大阪証券取引所の前に作った人物で、ぼくも最近までその近くに勤めていたが、勇ましげな五代の姿にカメラを向ける人をよく見かけたものだ。

 大講堂の中央に座した弥勒如来は、地震が来ても揺るがないような安定感のあるたたずまいだが、横から眺めてみると、中村作の二体は前のめりになりながらやっとの思いで立っているように見えた。拝む人に安堵感を与えるような堂々たる仏像に比べると、いかにも頼りなく、危なっかしそうだ。はからずも、そこには仏を前にした人間のちっぽけさがあらわれているように、ぼくには思えたのだった。


〔金堂の前に並ぶ人々〕

つづく
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年越しあれこれ(1)

2017年01月02日 | その他の随想
 長いあいだブログをサボっていると、再び書きはじめるのも気が引けるものだが、筆者がまだ生きているということを示すためにも、何か書いておいたほうがいいように思う。

 というわけで、このたびの年越しのことでも書いておこうか。もちろん、新年が来るたびに定める決意などというものが、その年の後半にもなるとすでに跡形もなくなっているという事実は、これまで何度も繰り返しているので分かりきっていることだけれど・・・。

                    ***

 年越しそばを食べ終えると、久しぶりに年末の奈良へと足を伸ばした。とにかく、家でダラダラしながら2017年を迎えることだけは、何としても避けたい一心であった。

 近鉄に乗り換え、大和西大寺という駅でさらに乗り換えて、橿原神宮方面へ2駅。数年ぶりに訪れる、薬師寺である。ここには以前、たしか元日にも来たことがあるような気がしたので調べてみたら、2008年のブログにその記述があった(「越年顛末記(2)(3)」)。もうずいぶん昔の話だ。

 とにかく、足を運ぶたびに薬師寺は変貌を遂げているように思われる。それというのも、この寺は何年も前から壮大な工事現場といった様相を呈していて、新しい(というよりは、かつて存在していた)建物が続々と復元されているのである。それとは別に、創建当時から現存している唯一の建造物だという東塔は数年前から解体修理がおこなわれており、今はすっかり覆い隠されてしまっている。薬師寺の目印でもある2本の塔が再び揃うのは、まだ数年先のことになろう。

 深夜の薬師寺へやってくるのは、はじめてのことである。寺に隣接する西ノ京という駅は、観光名所に近い割りには小さく、これといって特徴のない駅だが、新年に間近い時間に電車から降りてみると、周辺にはほとんど人影がなく、まるで地の果てに迷い込んでしまったような心細さを感じた。今ごろ渋谷とか、何とかランドといった賑やかなところでは、カウントダウンに向けて人ごみがますます膨れ上がっているであろうことはまったく別世界のできごとであるかのように。


〔西ノ京駅のホームには石碑が建つ〕

                    ***

 駅を出て、ひっそりと暗い駐車場のようなところを進む。以前、そういえばここを通ったにちがいない、というような曖昧な記憶を頼りにしながら。道案内をしてくれる係員がいるわけでもなく、他に薬師寺に向かうとおぼしき人もほとんどいない。観光客には不親切すぎるぐらいの、そっけなさ。いや、やはり不安をかき立てるのは、周囲に広がっているはずの伽藍が闇に沈んでしまい、何も見えないからだろう。

 ただ、近年のやたら観光地化された寺社のたたずまいを削ぎ落としたその姿からは、一種の厳しさが感じられたのもたしかだ。本来、お寺にお参りするにはこういう厳しさが求められたはずであって、単なる名所を訪れるのとは心構えも異なるべきなのであろう。だいたい、学校の修学旅行なるものが、そういったダラケた気分の遠因になっているような気がしないでもない。先生に引率されて、列を作って私語を交わしながら見て回るような場所ではないのである。

 奈良の夜は暗い。まして薬師寺付近は、奈良の都会からもかなり離れていて、夜空に星がまたたいているのがよく見える。ぼくが暮らす大阪では滅多にお眼にかかれない、満天の星空である。そんななかを、ところどころに灯された提灯の光を頼りに、寺のほうへと近づいて行く。

 どうやら拝観入口らしい場所にたどり着いた。しかし、周囲にはちらほらと人がいるばかりで、家の近所の名もないお寺と変わらないほど閑散としている。以前、東大寺に年越しに来て、閉じた門の前に並んで何十分も待ったときとは明らかに事情がちがう。

 もしかしたら、とんでもない穴場に来てしまったのだろうか? そんな、やや不謹慎な喜びに逸る気持ちを抑えながら「東僧坊」という建物を抜けると、普段は気がつかなかったが、そこに鐘楼があった。そして、百人をはるかに超える人々が、梵鐘を囲んで群がっているのだ。新年の訪れを、今か今かと待ち構えながら。何とかランドには及ぶまいが、これこそが現実なのであった。


〔鐘楼の周囲には足の踏み場もない〕

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