徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

貴婦人と一角獣展

2013-05-30 | 絵画
フランス国立クリュニー中世美術館所蔵
貴婦人と一角獣展
The Lady and the Unicorn from the Musée de Cluny, Paris, France
@国立新美術館

パリでクリュニー中世美術館を訪れたのは2006年2月11日のこと。(過去の記録)2005年10月31日の日経新聞の「美の美」のコーナで、「一角獣をつれた貴婦人」が紹介されて(過去の記事)是非見なくてはということで訪れた。

クリュニー中世博物館の展示は、細かな中世のキリスト教の関連の工芸品が多数展示されていて、ゆっくり見たいのは、やまやまだったが、時間がなく、また中世キリスト教美術を鑑賞する素養もなく「一角獣をつれた貴婦人」の展示室まで駆け抜けた。ようやく最後に辿りついた薄暗い円形の部屋で「一角獣をつれた貴婦人」のまえで暫したたずみ、、「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」「我が唯一の望み(À mon seul désir)」という画題にだけ着目して、鑑賞した覚えがある。カレンダーを購入した。

今回この至宝がまた来日するということで、タペストリーは見たことあるので、実は、工芸品に期待して出かけた。

豈はからんやタペストリーは、詳細な解説がされていて、とても楽しめた。

  • 発見の由来(小説家メリメが現在のクルーズ県にあるブーサック城(Château de Boussac)で発見。小説家ジョルジュ・サンドが作中でこのタペストリーを賛美。)、
  • 製作者(発注者)の推測(フランス王シャルル7世の宮廷の有力者だったジャン・ル・ヴィストの紋章があり、結婚のお祝いではなかったと推測されていた)
  • デザイナの推測、(「アンヌ・ド・ブルターニュのいとも小さき時禱書」の画家とのこと)
  • 「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」「我が唯一の望み」の意味
  • 一角獣、一角獣狩りの意味、小箱のモチーフの説明
  • ミル・フルール(動物、鳥、草花の種類)の説明(草花は40種類以上)。「我が唯一つの望みに」の犬が可愛らしい。
  • タペストリーの技法(3種類のぼかした線からきちんと色分けした線まで)
    など説明があり、説明を読んでは、タペストリーの細部を見直しを何回か繰り返した。

    クリュニー中世美術館を訪れたことがある人も、こんなにきちんと解説されていると、再見できてよかったと、絶対に思える筈。

    その他、クリュニー中世博物館で見逃していた工芸品も少し見ることができた。
    タピスリーに描かれた貴婦人や動植物などのモティーフを、関連する彫刻、装身具、ステンドグラスなどで読み説くという趣向。

  • 一角獣の形をした手洗い用水差し
  • 婚約用あるいは結婚用の小箱
  • ローマ式の時禱書
  • 聖女バルバラ (彫刻)1515-20 メヘレンが木工で有名だったようだ
  • クロバの妻マリア(ステンドグラス)
  • 印章の指輪
  • 「領主の生活」のタピスリーから『恋愛の情景』
    など

    ちょっと工芸品は絞られすぎていたので、クリュニー中世博物館をもう一度訪問したくなった。NYのメトロポリタン美の分館、クロイスターズの7枚の連作タピスリー‘一角獣狩り’にもう一度再見したくなった。(後者は、1990年代初めに見たはずだが、ほとんど記憶がない。)
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    京都画壇と神坂雪佳

    2013-05-30 | 絵画
    美の競演 京都画壇と神坂雪佳~100年の時を超えて~ @日本橋島屋

    一度は神坂雪佳をまとめて見たいと思っていたので出かけた。京都市美術館と細見美術館の名品が出展されている。四季や吉祥の美 和歌の美のコーナは主に神坂雪佳。他のコーナは京美人。
    有品ばかりで華やいだデパートらしい展覧会だった。

    1.四季のうつろい:

    神坂雪佳《四季花図屏風》細見美術館
    神坂雪佳《四季草花文庫》高島屋史料館
    神坂雪佳《十二ヶ月草花図》細見美術館

    福田平八郎《白梅》京都市美術館
    川端玉賞《紅葉の図》京都市美術館
    など

    2.いにしえの京美人 今様の京美人
    神坂雪佳《遊君図》細見美術館:
    竹内栖鳳「絵になる最初」;昨年、山種美術館をSKIPしたので初見か?
    上村松園「待月」
    上村松園「人生の花」
    上村松園「晴日」
    西山翠嶂 「槿花」
    など

    3.吉祥の美 和歌の美

    神坂雪佳「軽舟図」京都市美術館
    神坂雪佳「四季草花」京都市美術館
    神坂雪佳「小督」京都市美術館
    など

    4.装いの美

    神坂雪佳《楽屋図》細見美術館
    北野恒富「浴後」京都市美術館
    菊池契月「散策」京都市美術館;このほかにもモダンガールがいくつか展示されていてよかった。
    など

    5.愛おしきもの 愛しき所

    など
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    夏目漱石の美術世界展

    2013-05-10 | 絵画
    夏目漱石の美術世界展 @東京芸術大学大学美術館

    序章 「吾輩」が見た漱石と美術

    夏目漱石の処女小説『吾輩ハ猫デアル』。装丁・挿絵を担当したのは画家・橋口五葉だった。五葉にとってもまた、これが装丁家としてのデビュー作、五葉は、『三四郎』『それから』などの装丁も担当する。それにしても、五葉の描く、猫はまるでエジプトの猫のようだから印象的。

    第1章 漱石文学と西洋美術

    『坊ちゃん』に
    「あの松を見給え、幹(みき)が真直(まっすぐ)で、上が傘のように開いてターナーの画(え)にありそうだね」と赤シャツが野だにいうと(略) 」
    という一節がある。
     漱石も英国留学中に見たであろうターナーの傑作のひとつとして
  • ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 金枝 1834年テイト、ロンドン
    が展示されている。
     画題の「金枝The Golden Bough」は、、古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス Aeneis』book VIに出てくる有名なエピソード。アエネアス Aeneasが地下世界への冒険に赴こうとしたところ、巫女から「捧げものとして金枝 / が必要である」と教えられる。

    http://en.wikipedia.org/wiki/Aeneid
    http://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Bough_(mythology)

    Sir James George Frazer (1854–1941)のThe Golden Bough: A Study in Magic and Religionという書も、ターナの金枝に由来するとのこと。
    http://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Bough

    同じく、バイロンの詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」に題をとった
  • ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー チャイルド・ハロルドの巡礼 1832年(1859-61年版行)テイト、ロンドン
    にも、イタリアのイメージとして、松の木が描かれている。

    http://en.wikipedia.org/wiki/Childe_Harold%27s_Pilgrimage



    「吾輩」には、アンドレア・デル・サルトを引用したこんな一節もあるようだ。
    彼の友は金縁の眼鏡越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手には描けないさ、第一、室内の想像ばかりで絵が描ける訳のものではない。昔、イタリアの大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。『絵を描くならなんでも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画(だいかつが)なり』

    と。


    『野分』七
    には、
    メロスのヴィーナスも登場するとのこと。
    「上段にはメロスの愛神(ヴィーナス)の模像を、ほの暗き室(へや)の隅に夢かとばかり据(す)えてある。女の眼は端(はし)なくもこの裸体像の上に落ちた。
    「あの像は」と聞く。
    「無論模造です。本物は巴理(パリ)のルーヴルにあるそうです。しかし模造でもみごとですね。腰から上の少し曲ったところと両足の方向とが非常に釣合がよく取れている。――これが全身完全だと非常なものですが、惜しい事に手が欠けてます」
    「本物も欠けてるんですか」
    「ええ、本物が欠けてるから模造もかけてるんです」



    『薤露行』 
    は、マロリーの『アーサー物語』の翻案。
    漱石は、薤露行を書くにあたって、いくつかの絵画を参考にしたのではという。
  • ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス シャロットの女 1894年 リーズ市立美術館
  • ダンテ・ガブリエル・ロセッティ レディ・リリス1867 年


    『倫敦塔』
    では、下記の絵画を参考にしたとのこと。
  • ポール・ドラロージュ レディ・ジェーン・グレイの処刑 1833 ナショナル・ギャラリー
  • ポール・ドラロージュ ロンドン塔の王子たち 1931 ワレス・コレクション
    今回は、代わりに、下記が展示されていた。
  • ジョン・エヴァレット・ミレイ ロンドン塔幽閉の王子 1878 年 ロンドン大学 ロイヤル・ホロウェイ絵画コレクション


    『夢十夜』第十夜
    は、漱石がロンドンで「ガダラの豚の奇跡」という絵を見て着想したのではないかという。
  • ブリトン・リヴィエアー ガダラの豚の奇跡 1883 年テイト、ロンドン
    『夢十夜』第十夜は、
    (前略)庄太郎の云うところによると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり生はえていた。女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁きりぎしの天辺てっぺんへ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗のぞいて見ると、切岸きりぎしは見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚ぶたに舐なめられますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だいきらいだった。けれども命には易かえられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹びんろうじゅの洋杖ステッキで、豚の鼻頭はなづらを打ぶった。豚はぐうと云いながら、ころりと引ひっ繰くり返かえって、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一ひと息接いきついでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦すりつけに来た。庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。豚はぐうと鳴いてまた真逆様まっさかさまに穴の底へ転ころげ込んだ。するとまた一匹あらわれた。この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥はるかの青草原の尽きる辺あたりから幾万匹か数え切れぬ豚が、群むれをなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸めがけて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心しんから恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧ていねいに檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触さわりさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗のぞいて見ると底の見えない絶壁を、逆さかさになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖こわくなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が生はえて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵むじんぞうに鼻を鳴らしてくる。
     庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日なのか六晩むばん叩たたいた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻こんにゃくのように弱って、しまいに豚に舐なめられてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。
     健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善よくないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
     庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。


    「ガダラの豚の奇跡」は、マタイ8.28~34
    8:28 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
    8:29 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
    8:30 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。
    8:31 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
    8:32 イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。
    8:33 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。
    8:34 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。



    『文学評論』では
    2-2,2-3で、下記の図版を参考に論がすすめられているとのこと。
  • ウィリアム・ホガース「選挙」第一図 「 候補者の饗応」1755-58 年
  • ウィリアム・ホガース「当世風の結婚」第六図 1745 年

    第2章 漱石文学と古美術


    『行人』8では、帝室博物館を見る様子が出てくる。とのこと。応挙の波濤図について触れられているという。
    その日自分は父に伴《つ》れられて上野の表慶館を見た。今まで彼に随《つ》いてそういう所へ行った事は幾度となくあったが、まさかそのために彼がわざわざ下宿へ誘いに来《き》ようとは思えなかった。自分は父と共に下宿の門《かど》を出て上野へ向う途々《みちみち》も、今に彼の口から何か本当の用事が出るに違《ちがい》ないと予期していた。しかしそれをこっちから聞く勇気はとても起らなかった。兄の名も嫂《あによめ》の名も彼の前には封じられた言葉のごとく、自分の声帯を固く括《くく》りつけた。
     表慶館で彼は利休の手紙の前へ立って、何々せしめ候《そろ》……かね、といった風に、解らない字を無理にぽつぽつ読んでいた。御物《ごもつ》の王羲之《おうぎし》の書を見た時、彼は「ふうんなるほど」と感心していた。その書がまた自分には至ってつまらなく見えるので、「大いに人意を強うするに足るものだ」と云ったら、「なぜ」と彼は反問した。
     二人は二階の広間へ入った。するとそこに応挙《おうきょ》の絵がずらりと十幅ばかりかけてあった。それが不思議にも続きもので、右の端《はじ》の巌《いわ》の上に立っている三羽の鶴と、左の隅《すみ》に翼をひろげて飛んでいる一羽のほかは、距離にしたら約二三間の間ことごとく波で埋《うま》っていた。
    「唐紙《からかみ》に貼《は》ってあったのを、剥《は》がして懸物《かけもの》にしたのだね」
     一幅ごとに残っている開閉《あけたて》の手摺《てずれ》の痕《あと》と、引手《ひきて》の取れた部分の白い型を、父は自分に指し示した。自分は広間の真中に立ってこの雄大な画《え》を描いた昔の日本人を尊敬する事を、父の御蔭《おかげ》でようやく知った。
     二階から下りた時、父は玉《ぎょく》だの高麗焼《こうらいやき》だのの講釈をした。柿右衛門《かきえもん》と云う名前も聞かされた。一番下らないのはのんこうの茶碗であった。疲れた二人はついに表慶館を出た。館の前を掩《おお》うように聳《そび》えている蒼黒《あおぐろ》い一本の松の木を右に見て、綺麗《きれい》な小路《こみち》をのそのそ歩いた。それでも肝心《かんじん》の用事について、父は一言《ひとこと》も云わなかった。



     渡辺崋山が自殺直前に書いた絵が展示されている。この絵は、夏目漱石の「こころ」の最後に出てくる。
  • 渡辺崋山 黄粱一炊図 1841 年
    『こころ』56
     私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然はっきり描えがき出す事ができたような心持がして嬉うれしいのです。私は酔興すいきょうに書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外ほかに誰も語り得るものはないのですから、それを偽いつわりなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山わたなべかざんは邯鄲かんたんという画えを描かくために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達せんだって聞きました。他ひとから見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中うちにあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半なかば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。


    第3章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』
    草枕
    冒頭は、
    山路やまみちを登りながら、こう考えた。智ちに働けば角かどが立つ。情じょうに棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
    このあとに

    住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。

    などと書いてあったとは覚えていない。読んだつもり読んでいない証拠。
    ミレイのオフェリヤが引用されているという。
    余はまた写生帖をあける。この景色は画えにもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
    花の頃を越えてかしこし馬に嫁
    と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影おもかげが忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速さっそく取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退のいたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳ひく彗星すいせいの何となく妙な気になる。

    残念ながらパネル展示。
    長沢芦雪については、次のような引用があるとのことで
    逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練もなく晴れ尽して、老嫗の指さす方にさんがんと、あら削けずりの柱のごとく聳びえるのが天狗岩だそうだ。
    余はまず天狗巌を眺ながめて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々はんはんに両方を見比みくらべた。画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼と、蘆雪のかいた山姥のみである。蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄ものすごいものだと感じた。紅葉のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。宝生の別会能を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。あの面は定めて名人の刻んだものだろう。惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏おだやかに、あたたかに見える。金屏にも、春風にも、あるは桜にもあしらって差し支かえない道具である。余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳ざして、遠く向うを指さしている、袖無し姿の婆さんを、春の山路の景物として恰好なものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端とたんに、婆さんの姿勢は崩れた。

  • 長沢蘆雪 山姥図 財団法人遠山記念館
    が展示されていた。
    伊東若冲と黄檗の高泉和尚についての言及もあるとのこと、
    仰向に寝ながら、偶然目を開けて見ると欄間に、朱塗の縁をとった額がかかっている。文字は寝ながらも竹影払階塵不動と明らかに読まれる。大徹という落款もたしかに見える。余は書においては皆無鑒識のない男だが、平生から、黄檗の高泉和尚の筆致ひっちを愛している。隠元も即非も木庵もそれぞれに面白味はあるが、高泉の字が一番蒼勁でしかも雅馴である。今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし現に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。
     横を向く。床とこにかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄がらだけに、部屋に這入はいった時、すでに逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼ねなしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形なりの胴がふわっと乗っかっている様子は、はなはだ吾意を得て、飄逸の趣おもむきは、長い嘴のさきまで籠もっている。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分らない。

  • 伊藤若冲 鶴図 1793 年
  • 伊藤若冲 梅鶴図 ヤング開発株式会社
  • 高泉性敦 一行書「松吟没字詩」17 世紀
    が展示されていた。
    草枕を画題にした作品として、
  • 松岡映丘ほか 草枕絵巻(巻一) 1926 年 奈良国立博物館
  • [参考出品]松岡映丘ほか 草枕絵巻(複製) 岩波書店
  • 松岡映丘湯煙(草枕) 1928 年 練馬区立美術館寄託
    などが展示されていた。
    奈良国立博物館のHPにいくと、松岡映丘ほか 草枕絵がある。
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    小さいが画像でてくる。全巻展示が見てみたい。

    松岡正剛さんの千夜千冊の583夜にも草枕は取り上げられていて、上記のようなところを引用し、『草枕』はしだいに雅趣と奇趣を求めた話になっていく、と評している。
    http://1000ya.isis.ne.jp/0583.html

    三四郎
  • ジャン=バティスト・グルーズ 少女の頭部像 ヤマザキマザック美術館
    が展示されていた。三四郎では、ヴォラプチュアスvoluptous(色っぽい)な表情と表現されている。
    女はこの句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の咽喉のどが正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の眸ひとみに映った。
     二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪たえうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。

  • ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 人魚 1900 年王立芸術院、ロンドン
    も展示されていた。
    「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪あたまで香水のにおいがする。
     絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛くしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
    「人魚マーメイド」
    「人魚マーメイド」
     頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。

    「三四郎」に出てくる三井画伯のモデルは和田英作。原口画伯のモデルである黒田清輝とのこと。
  • ベラスケス原作 和田英作模写 マリアナ公女 1903 年東京藝術大学
    というのが出展されている。三四郎で下記のように表現されているように確かにうまくない。

     原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。
    「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。
    「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。
    「三井みついです。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」
     原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。

    深見画伯のモデルは、浅井忠とのこと。三四郎で下記のように表現されている。
    「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」
    「ありがとう」
    「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。
     女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿からざおのようである。

  • 浅井忠 ベニス(表)(裏) 1902 年東京国立博物館
  • 浅井忠 雲 1903年頃 静岡県立美術館
    が展示されていた。

    それから
  • 青木繁《わだつみのいろこの宮》下絵1907 年栃木県立美術館
    が展示されていた。それからでは、下記ように引用されている。
    いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画かいた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好いい気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。

    仇英、応挙は、次のように引用されている。それぞれ作品例が展示されていた。
    父は斯う云ふ場合には、よく自分の好きな書画骨董の話を持ち出すのを常としてゐた。さうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前まへに陳べたものである。父の御蔭おかげで、代助は多少斯道に好悪を有てる様になつてゐた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、此方は掛物の前まへに立つて、はあ仇英だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。面白い顔もしないから、面白い様にも見えなかつた。それから真偽の鑑定の為に、虫眼鏡などを振り舞はさない所は、誠吾も代助も同じ事であつた。父の様に、こんな波は昔の人ひとは描かかないものだから、法にかなつてゐない抔といふ批評は、双方共に、未だ嘗て如何なる画に対しても加へた事はなかつた。



    門には、こんな一節があるとのことで、
    「宗さん、どうせ家じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変価が出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。
    納戸なんどから取り出して貰って、明るい所で眺めると、たしかに見覚えのある二枚折であった。下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描かいた上に、真丸な月を銀で出して、その横の空あいた所へ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺あたりから、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福ほどな大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、父の生きている当時を憶い起さずにはいられなかった。
     父は正月になると、きっとこの屏風びょうぶを薄暗い蔵くらの中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀したんの角かくな名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床とこには必ず虎の双幅そうふくを懸かけた。これは岸駒じゃない岸岱だと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑のんでいる鼻柱が少し汚されたのを、父は苛く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯だぞと云って、おかしいような恨めしいような一種の表情をした。
     宗助は屏風の前に畏こまって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
    「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。
    「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。

  • 岸駒 虎図(《龍虎図》双幅のうち左幅) 19 世紀 東京藝術大学
    が展示されていた。
  • 酒井抱一 月に秋草図屛風 東京国立博物館寄託
    は、最後の2週間の展示。

    第4章 漱石と同時代美術
    漱石が東京朝日新聞に書いた「文展と芸術」に登場する1912年の第6回文展の出品作とこれに対する漱石な批評が並んでいた。

  • 重文 今村紫紅 近江八景 1912 年 東京国立博物館
  • 寺崎広業 瀟湘八景 1912 年 秋田県立近代美術館
  • 重文 横山大観 瀟湘八景 1912 年 東京国立博物館
  • 安田靫彦 夢殿 1912 年東京国立博物館
  • 中村不折 巨人の蹟 1912年 上伊那広域連合

    漱石の批評はともかく、第6回文展は、傑作揃いだったということと、寺崎広業の瀟湘八景はうまいが工夫がない、横山大観 瀟湘八景は、着想が面白い、今村紫紅 も色彩が特徴ということでしょうか?

    第5章 親交の画家たち 
    第6章 漱石自筆の作品 絵は素人では。字はうまい。
    第7章 装幀と挿画 橋口五葉の作品が並ぶ。
    と続いた。

    みたから読むか
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    狩野山楽・山雪展 @京都国立博物館

    2013-05-08 | 絵画
    狩野山楽・山雪展 @京都国立博物館

    感動の山雪研究の発表会。

    「本展は、狩野永徳の画風を受け継ぎ、見事なまでに昇華させた京狩野草創期に焦点をあて、初代山楽、二代山雪の生涯と画業を辿る初の大回顧展です。波瀾の時代に生き、窮地に追いやられながらも、絵師としての気概を持って運命に立ち向かった2人の魅力あふれる絵画世界を、重要文化財13件、新発見9件、初公開6件を含む83件の作品によりご紹介いたします。」という。

    どれも素晴らしく久々に図録を購入。
    特に

  • 長恨歌図巻 狩野山雪筆 2巻 アイルランド チェスター・ビーティー・ライブラリィ;精緻な表現、裏彩色、金襴手な図巻、

  • 重要文化財 蘭亭曲水図屏風 狩野山雪筆 8曲2双 京都 随心院
  • 重要文化財 雪汀水禽図屏風 狩野山雪筆 6曲1双;鳥のモダンな表現。

    には感動。

  • 秘伝画法書 狩野永良筆 2冊 宝暦13年(1763) 京都国立博物館
    をみると、図案帳こそ京狩野派の秘伝。
    山雪こそ、日本のラファエロ?
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    国宝 大神社展

    2013-05-02 | 美術
    国宝 大神社展(前期)@東京国立博物館

  • 第1章 古神宝
    前期は、奈良・春日大社、和歌山・熊野速玉大社からの古神宝。熊野速玉大社へ明徳元年(1390)に奉納された袍、表袴などよくも状態よく保存されているものだと感心。
    後期は、広島・嚴島神社、神奈川・鶴岡八幡宮、愛知・熱田神宮の古神宝。これらの神社の神宝はほとんど初見となるので期待。

  • 第2章 祀りのはじまり
    は、福岡・宗像大社に収蔵されているは「海の正倉院」とも呼ばれる沖ノ島から発掘された祭祀品を展示。国宝 方格規矩鏡(6-7世紀)、国宝 金製指環(新羅時代 6-7世紀)、国宝金銅製雛機(奈良~平安時代・8~9世紀)などが目を奪った。国宝 金銅製歩揺付雲珠(福岡・宗像大社)は、馬の飾金具。鞍から馬の尻にのびた帯状の装具が交差する部分に据えるもの。新羅からの伝来品。想像するだけで可愛らしい。

  • 第3章 神社の風景
    は、曼荼羅、絵巻類。

  • 第4章 祭りのにぎわい
    の一押しは、国宝 沃懸地螺鈿金銅装神輿(和歌山・鞆淵八幡神社)。多数の鏡、飾りの金工の素晴らしいこと。吃驚。平安後期の傑作で後堀河天皇の勅により、石清水八幡宮要請の際に奉送されたと伝えられているとのこと。

  • 第5章 伝世の名品
    国宝 海獣葡萄鏡(千葉・香取神宮)直径29.6cm、縁の高さ2cm、重量4560g。
    国宝 直刀 黒漆平文大刀(茨城・鹿島神宮)長さは271センチ
    は、大きさに吃驚。(後者は鹿島神宮で拝見しているはずだが)
    前者は、唐から舶載された形式の白銅製の鏡。獣をかたどった鈕を中心に、葡萄唐草文の地文に、獅子・馬・鹿・麒麟・鳳凰・蜂・蟷螂などが配される。同形の鏡が正倉院に伝わっていることも注目、とのこと。

    奈良・石上神宮(いそのかみじんぐう)の
    国宝 七支刀(古墳時代・4世紀)と
    を拝見できたのはうれしかった。石上神宮には
    重文 鉄盾 二面(古墳時代・5世紀)
    という勇猛な武具が伝世しているとは。

    国宝 白糸威鎧 島根・日御碕神社;源頼朝の寄進との伝承。絵革の文様や小札の大きさなどにより製作年代は鎌倉末期とも。
    重文 浅葱糸妻取威鎧 山口・防府天満宮;大内盛見が防府天満宮の神事の随兵の鎧として寄進した。
    が向かい合って並んでいたのも良かった。

    国宝 唐鞍 奈良・手向山八幡宮(13世紀)
    は、馬具の皆具。立派。

    国宝 平家納経 願文・観普賢経(2巻)
    平安時代・長寛2年(1164)
    願文表紙・見返:安土桃山時代 慶長7年(1602)
    に再見。

    重文 神馬図絵馬 狩野元信筆 兵庫・賀茂神社
    は、さすが元信筆。

  • 第6章 神々の姿
    京都・松尾大社や大将軍八神社の神像がならんでいた。
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