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対北朝鮮―首相は早く戦略を固めよ(朝日社説)

http://www.asahi.com/paper/editorial20071010.html#syasetu1
 政府はきのう、北朝鮮に対する独自の制裁措置を半年間延長することを決めた。貨客船「万景峰号」の入港禁止などの措置がこれからも続く。

 この制裁は昨年7月、北朝鮮の弾道ミサイル発射に抗議して始まり、10月の核実験を受けて内容が大幅に強化されたものだ。13日に期限切れが迫っていた。

 制裁の延長について、町村官房長官は「拉致問題に具体的な進展がないことや、核問題を含む諸般の情勢を総合的に勘案した」と語った。

 拉致問題がまったく進んでいないのはその通りだ。しかし、6者協議の合意を経て、北朝鮮は原子炉などの核関連施設の稼働を停止、封印した。さらに年末までに主な3施設を「無能力化」することでも合意した。

 施設の再稼働はない、と保証できるところまでは行っていないものの、こうした動きは前向きのものだ。少なくとも制裁の部分解除などを通じて、日本政府としての評価を発信できたのではないか。

 約束を破れば、再び制裁を強める。事態の進展を見つつ、対応に緩急をつけてこそ相手にこちらの意思を伝え、改善を促すシグナルにもなる。

 首相は自民党総裁選の際、拉致問題を「私の手で解決したい」と述べた。金総書記は先の南北首脳会談で「福田政権の出方を見極めたい」と語ったという。その中での延長はあまりに単純すぎた。

 発足早々の福田政権として、まだ北朝鮮に対する外交戦略を決めかねているのかもしれない。だとすると、早急に対応を練る必要がある。6者協議を軸に、北朝鮮をめぐる外交情勢は大きく動こうとしているからだ。

 鍵を握る米国は、北朝鮮との直接交渉を深めている。進展具合はよく分からないが、年内にもテロ支援国家リストから北朝鮮を外すという観測も出てきた。

 無能力化の進展に応じて、北朝鮮を除く5カ国は重油95万トン相当の経済・エネルギー・人道支援を北朝鮮に送ることになっている。すでに韓国と中国は支援を実施し、続いて米国、ロシアが支援の計画を明確にしている。

 このプロセスに日本としてどうかかわっていくか、早く態度を固めなければならない。拉致問題が進まない限り、支援には加わらないというのが安倍前政権の方針だったが、そんな単純な割り切りでは通用しない段階に至っている。

 拉致問題の進展をもっと具体的に、細かく北朝鮮に迫り、対応を引き出すことだ。核放棄の段階へ進めるためのエネルギー支援をそこに絡めて、米韓などとも連携して少しずつでも地歩を固めていく。日本の独自制裁の解除も当然、取引材料になるだろう。

 かつて凍りついていた「北朝鮮」外交が、米朝を軸に動き出した。この機に立ち遅れることがあってはならない。首相は総合的な北朝鮮政策を早く固め、事態の変化に機敏に対応していくべきだ。


9/28:
首相は対話の重要性を主張してきた。拉致問題は大切だが、核やミサイルの脅威が除けるのなら、日本も真剣にその可能性を追求すべきだ。

9/29:
流血の弾圧がとまらない以上、日本も制裁を含めて圧力をかけることを検討すべき時期ではないか。

9/30:
日本も軍事政権に対し、弾圧の停止と民主化を強く説得しなければならない。

10/9:
政府は一部を凍結する方針だが、まず「対話を通じての民主化促進」というこれまでの援助政策の失敗を認めることだ。

本日:
少なくとも制裁の部分解除などを通じて、日本政府としての評価を発信できたのではないか。

 


対話→制裁→対話→制裁→対話

早っ!対話くんの早っ!

北朝鮮:よい軍政、ミャンマー:悪い軍政 と使い分けしているのだろうが、それをダブルスタンダードという。
というか、すこしは社内で意見調整くらいしたらどうか。

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10月10日

・新華社(抜粋)
http://news.xinhuanet.com/newscenter/2007-10/10/content_6849940.htm
1911年:
辛亥革命記念日。1911年清国政府は鉄道建設権を売却、全国人民の抵抗を引き起こした。四川民衆は護路運動から武装蜂起に発展、清国政府政府は湖北などの省軍を投入して鎮圧。湖北新軍、第八大隊革命党、熊秉坤、金兆竜等は義軍(訳註:反乱軍)を率いて鳳凰山を攻撃、武昌を占領、湖北軍政府が成立した。武昌義に応じた蜂起(訳註:武装蜂起)勝利の結果、各省がこれに続き、全国24省のうち14省が独立した。この義に応じた蜂起(訳註:武装蜂起)は清朝政府を崩壊させ、二千年あまり続いた中国封建統治が終了した。1911年は干支で辛亥年なので、辛亥革命と呼ぶ。

1919年:
孫中山は中華革命党を中国国民党に改組、規約を発表。

1958年:
中国人民解放軍空軍英雄、福建前線空軍パイロット、杜鳳瑞は、大陸に侵入かく乱した国民党航空機と激戦(訳註:原文ママ)するよう命令され、隊長機の危機に自分の危険を顧みず重囲に侵入、戦友を救出、一挙に二機の敵機を撃墜した後、勇敢に犠牲(訳註:原文ママ)になった、享年25歳。

・Wikipedia(抜粋)
http://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8810%E6%97%A5#.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8
1911年 - 武漢三鎮で革命軍が蜂起、辛亥革命勃発
1913年 - 袁世凱が中華民国大総統に就任
1919年 - 中華革命党が中国国民党に改組し、孫文が総理に就任

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夢見た教壇2カ月 彼女は命を絶った 23歳教諭の苦悩(朝日)

http://www.asahi.com/national/update/1009/TKY200710080324.html
 東京都新宿区立小学校の新任の女性教諭(当時23)が昨年6月、自ら命を絶った。念願がかなって教壇に立ち、わずか2カ月後に、なぜ死に至ったのか。両親や学校関係者に取材すると、校内での支援が十分とはいえないなか、仕事に追われ、保護者の苦情に悩んでいた姿が見えてくる。

 母(55)がメモ帳に書かれた遺書を見つけたのは、死去から2カ月たった昨年8月のことだ。「無責任な私をお許し下さい。全て私の無能さが原因です」。「無責任じゃない。責任を果たそうとしたから倒れたのに」と父(55)。やりきれない思いがこみあげた。

 高校時代から教師を目指した娘が小学2年生の担任としてスタートを切ったのは、その年の春。

 この学校は各学年1学級だけで同学年に他に担任がおらず、授業の進め方の直接の手本がなかった。しかも、前年度10人いた教員のうち5人が異動していた。「家庭の事情など本人の希望などを尊重した」と区教委は言うが、「校長の経営方針に反対して異動を希望した教員も多かった」と学校関係者。「新学期のうえに教職員が入れ替わったせいで、ゆとりがなかった」と関係者は語る。

 娘がまず提出を求められたのは食育指導計画、公開授業指導案、キャリアプラン……。離れて住んでいた父は娘と電話で話していて「追いまくられてると感じた」。午前1時過ぎまで授業準備でパソコンに向かい、そのままソファで眠る日が続く姿を姉が見ていた。

 娘は姉や祖母に「保護者からクレームが来ちゃった」と話してもいた。

 区教委によると、ある保護者が4月中旬以降、連絡帳で次々苦情を寄せた。「子どものけんかで授業がつぶれているが心配」「下校時間が守られていない」「結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのでは」。校長がこれを知ったのは5月下旬だった。「ご両親が連絡帳の文面を見たらショックを受けるかもと区教委から言われた」と父。

 他の保護者たちも校長室を訪ね、「子どもがもめても注意しない。前の担任なら注意した」などと訴えていたという。

 娘は5月26日に友人と会ったとき、「ふがいない」「やってもやっても追いつかない」と漏らした。その翌日、自宅で自殺を図ったが、未遂となった。

 母が急いで精神科を受診させたところ、抑うつ状態と診断された。魂の抜け殻のようで声が出ない。娘は言った。「ひどい」。しばらくして「あたし」。

 自宅の風呂場で自殺を図ったのは、その2日後の夜だった。翌6月1日朝、病院で亡くなった。

 「大学時代、小学校で先生の補助をし、笑顔の絶えなかった娘が、どうして……」。両親は写真に問い続けた。

 団塊の世代の退職を受け、各地で新人が次々採用されるなか、埼玉や静岡などで自殺が起きていたことも改めて知った。

 亡くなって5カ月後の10月下旬、地方公務員災害補償基金東京都支部に対し、公務上災害の認定を申請した。「声を上げないとさらに亡くなる人が出てしまうかもと思うと、いてもたってもいられなかった」と母は話す。

 今春、2人は都公立小学校長会に手紙を出した。その一節にはこう書かれていた。

 「若い先生方への心と身体へのサポート体制を学校全体として作り上げていただきたい。そして若い先生方に、いつまでも夢を追い続けていただきたいとの一念です」


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青白い顔、張りない声 おわびで幕 安倍首相会見
http://www.asahi.com/politics/update/0924/TKY200709240194.html

 やつれたような表情、張りのない声……。入院から12日目、東京都内の慶応大病院で記者会見した安倍首相にかつての力強さはなかった。辞意表明の時期を「最悪のタイミングだった」と自ら反省。辞任を決めた最大の理由は体調不良だったと強調した。会見のテレビ中継を見た識者らは、病状を気遣いつつも、厳しい印象を口にした。

 安倍氏は、辞任の最大の理由が健康問題だったとしたうえで、「在職中に自らの体調について述べるべきでないと考えていた」と釈明した。

 コラムニストの石原壮一郎さんは「自分勝手な美学で情報を隠し、国民を混乱させた」と話す。

 辞任時に体調不良を明らかにしていれば無用な混乱はなく、イメージダウンも防げたのではないかと指摘する。

 「『アタシ、もうアベしちゃおうかな』という言葉があちこちで聞こえる。仕事も責任も放り投げてしまいたい心情の吐露だ。そんな大人げない流行語を首相が作ってしまったのがカナシイ」

 安倍氏は濃紺のスーツに青いネクタイ。顔色は青白く見え、話しながら何度も唇をなめた。

 高木勝・明大教授は「生気がなく別人のようだった」と気遣いつつも、「厳しいようだが、健康管理ができない人に首相の資格はない」。

 謝罪の言葉はあったが、国民に対する謝罪は政府、与野党関係者の後だった。高木教授は「順番が逆だ。会見は単なる言い訳ばかりだった」。

 この日の安倍氏は、目に力が感じられず、声にも張りがなかった。自身は「ここ1カ月で、自らの意志を貫く基礎となる体力に限界を感じた」と説明。医師からは、入院から12日たっても食欲が回復せず、5キロ減った体重が元に戻っていないことが明らかにされた。

 精神科医の和田秀樹さんは「機能性胃腸障害だけでなく、精神的にも追いつめられていたのではないか」と指摘する。

 「そうだとすれば、『無責任』とか『逃亡した』といった批判は、病状を悪化させるおそれがある。安倍さんの政治信条に共感はしないが、今回の件では、気の毒に思えてしまう」と案じた。

 安倍氏は入院中の21日、53歳の誕生日を迎えた。会見では、25日の首相指名の投票に参加し、次期衆院選にも立候補する意向を表明。そのうえで、「1人の国会議員として力を尽くしていきたい」と語った。

 草野厚・慶大教授は「国会議員を辞めるなら『お疲れ様』と言ってあげたいところ」としながらも、「再起を期すつもりなら、ウソをついてはいけなかった」と指摘する。辞任会見では、インド洋で自衛隊の給油を継続するための「局面の転換」を辞任の理由に挙げていた。小沢民主党代表に呼びかけた党首会談が実現しなかったことも一因に挙げていたからだ。

 「本当は体力がもたないから辞めるのに、人のせいにした。よくよく反省しないといけない」

 さらに草野教授は、「議員辞職の可能性まで一部で報じられた中で、この会見は、まだまだ政治家として仕事をしたいというアピールだった、とも受け取れる。アピールにしては弱すぎるけれども」と話した。

 

23歳教員:夢見た教壇2カ月 彼女は命を絶った
元首相:『アタシ、もうアベしちゃおうかな』という言葉があちこちで聞こえる。仕事も責任も放り投げてしまいたい心情の吐露だ。そんな大人げない流行語を首相が作ってしまったのがカナシイ


「念願がかなって首相になり、わずか1年後に、なぜ辞任至ったのか。××に取材すると、内閣での支援が十分とはいえないなか、仕事に追われ、マスコミの苦情に悩んでいた姿が見えてくる。 」と書いても全く違和感がない。
この臆面ないダブスタはなんなのだろう。

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