・新華社
http://news.xinhuanet.com/politics/2007-07/25/content_6426583.htm
1894年7月25日、日本は朝鮮、中国侵略の野心を実現するため、宣戦を布告せずに朝鮮の牙山口外、豊島に中国海軍北洋艦隊を奇襲。高昇号が日本艦に撃沈され、艦上にいた千余の将兵は勇敢反撃、壮烈に殉国した。清政府はやむなく8月1日に日本に対して宣戦、甲午戦争が正式に始まった。
・日本の認識(別宮暖朗氏による)
http://ww1.m78.com/sib/hoto%20battle.html
日清戦争の危機が迫るとともに、連合艦隊(伊東佑亨)は、別に高速艦三隻一吉野.・秋津島・浪速一をもって第一遊撃隊(坪井航三)を編成し、牙山方面に向かわせた。
1894年(明治二七年)7月25日に牙山方面に到着すると、豊島から三艦が進行してくるのが認められた。済遠.・広乙の二隻が確認された。これからが緒戦をなす豊島沖海戦である。
吉野が済遠に発砲し、海戦が始まった。済遠の艦橋はすぐに破壊され、9時までに形勢は日本側優利となり、坪井は単艦をもって、逃げる各艦を追跡させた。
吉野が済遠を追い、秋津洲.・浪速は広乙を追い、座礁させた。ただ、吉野は理由は不明だが済遠を取り逃がした。すると霧のなかから、操江(木製590トン)と英国旗をかかげた高陞号が現れた。秋津洲はただちに操江を追い、鹵獲した。
浪速は高陞号に停船を求め、臨検を開始した。
船長に反乱した清兵が「勇敢反撃、壮烈に殉国」してしまうあたり、共通の歴史認識なるものがいかにナンセンスか、という一例。
封冊と軍事同盟の違いは理解しているつもりだが、日本人としては、清国が朝鮮に北洋艦隊を置いていたことを、さも当然であるかのように書いているほうが気になる。
これは認識の差が分かりやすいので、折を見てシリーズ化してみよう。
軍事的には、台湾が金門島から兵力を引き上げようとしているニュースが興味深い。
・台湾、金門島の駐屯兵力を大幅削減=台湾紙(和文、朝鮮日報)
http://www.chosunonline.com/article/20070725000002
台湾当局は、中国福建省アモイ沖の、台湾が統治する金門島に駐屯する兵力を11月に大幅削減する計画を固めた、と中国時報など台湾各紙が24日までに報じた。
今回の兵力削減が実施されると、冷戦時期に10万人を超えた金門島の兵力は、わずか数千人を残すだけとなる。
兵力削減計画は、金門島の戦略的価値を検討した上で立てられたもので、台湾当局首脳の指示により準備が進んでいるという。
これについて、台湾国防部の盧思祖報道官は、兵力配置に関する論評は行わない慣例に従い、報道内容の確認を避けた。
兵力大幅削減と同時に、金門島防衛司令部砲兵指揮部は砲兵群に格下げされるほか、陸軍の金門東部119旅団と金門西部127旅団はそれぞれ、金門東部守備隊、金門西部守備隊にそれぞれ格下げされる。部隊の指揮官も少将から上校(大佐)に変更となる。
台湾本島から278キロ離れた金門島は、中国大陸からわずか2.4キロの位置にあり、蒋介石元総統は大陸反攻の前線基地と位置付けてきた。
しかし、台湾出身の李登輝前総統が就任して以降、現在の陳水扁政権に至る過去10年間に、金門島の駐屯兵力は段階的に削減されてきた。部隊編成も師団級から旅団級に格下げされ、今年2月に部隊長の名称も司令官から指揮官に変更されていた。また、今年4月1日には金門島に駐屯する南雄584装甲旅団が台湾本島へ秘密裏に移動した。
今回の大規模な兵力削減と駐屯部隊の編成格下げが完了すると、金門島は部隊編成上、馬祖、澎湖、花東の各防衛司令部と同格になる。
軍消息筋によると、兵力削減後、金門島には守備部隊、砲兵部隊、装甲車大隊、上陸特戦大隊、ミサイル部隊が引き続き駐屯するが、火力などを補強し、以前4個旅団が駐屯していた当時に比べ1.5倍の戦力を持たせるという。
台湾当局による今回の措置は、陳水扁政権による台湾独立路線の一環とみられる。蒋介石元総統が金門島の死守に全力を挙げ、生前に最低年1回は前線視察を行っていたことと比べると好対照だ。
金門島は、アモイの目と鼻の先にあり、もし国民党が大陸に反攻する場合には足がかり足りえる島といえる。
ここに来てそこから兵力を引き上げる、ということは軍事的には戦線の整理、に他ならない。政治的には大陸からの独立、を改めて宣言するものといえ、門前払いされた台湾名での国連加盟とは当然連動しているだろう。
いかなる形であれ、共産党がここに侵攻したりしたら面白い。
なぜか日本のマスコミは沈黙している。