時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

死生感について国民的な討論を

2009年07月14日 | 医療・社会保障
臓器移植法のA案が成立した。
脳死を人の死とするかどうかについては、医学的、倫理的にまだ多くの問題がある。
それを、移植する際には、「人の死」と規定するということを、国会の多数決で決定するというやり方が望ましいのだろうか?
移植を待つ小児患者の家族らからは、改正移植法の成立に対して、歓迎の言葉が溢れた。欧米では当たり前に行われていることが、なぜ日本で実施できないのかという意見も多い。また、日本では、医学も格段に進歩しており、成功する確率もはるかに高いだろう。
一方で、「脳死」と判定されながら、その後も数年にわたって「生き続け」、身長が10センチも伸びたという自身の子供の例をあげながら、脳死段階での移植には反対を主張する家族もいる。体も温かく、髪も爪も伸び、身長まで伸びて成長する子供から、どうして臓器を摘出することができるのか、という声にも我々は耳を傾けなければならない。
こういう両者の見解の違いの存在は、国民の中で、脳死を人の死とすることへの合意が得られていないことの反映である。また、個々人の宗教観、死生感、倫理観の違いであり、埋めがたい溝であり、最終的には同意を得ることが困難なのかもしれない。
もし、このような状態で、とりあえず法律だけを整備したとしても、果たしてスムーズに脳死移植が進むだろうか?法律倒れになるのではなかろうか?
だからこそ、多少時間はかかっても、もっと国民の中で、脳死移植に対する議論を深め、結果として、賛否が半分ずつに分かれてもよい。国民一人ひとりがこの問題について自分なりの意見、考えを確立し、そういう場面に出くわした時に、自分自身や家族が納得して、決断ができるような状況を国民意識の中に広げることが必要であろう。
そういう状況が作り出されていないにも関わらず、法律だけ整備しても、結局は、移植は進まないというのが、この間のいわゆる成人での臓器移植法の現状ではなかろうか?
1997年に、臓器移植法が施行されてから10年以上、日本では、脳死患者からの臓器移植はけっして順調に進んでいない。
その根本的な理由は、法律上の問題ではなく、国民一人ひとりが、自分自身の問題として、脳死や臓器移植の問題を考える機会に恵まれず、自分の死後に、臓器を提供してもよいという意志を表明している人が少ないということに最大の原因があると思われる。
したがって、国民の間でのこの問題に対する積極的な討論の結果、自分や家族でこの問題を話し合い、一人ひとりの意志をお互いに確認し合って、いざという時に、その意志を生かせるようにすることが大切だ。
死生感、意見の違いは当然である。絶対に臓器を提供しない、したくない人もいるだろう。一方で、死後に人の役に立つならば、とドナーになることを承諾する人もいるだろう。それで良い。
さまざまな議論の中で、自覚的に、進んでドナーになる人が増えるような討論が必要である。
そういう意味で、今回の法律は、ただ方法だけを決めたという感が否めない。現在のような臓器移植の状況では、法律ができたことで、逆に、もう議論は済んでしまったということにならないだろうか。個人的には、もっと、広範な国民的な討論を行った後に、法律を決めるべきであったと思っている。
これからは、学校で、家庭で、あるいは職場でも、議論を尽くしながら、国民人一人ひとりがこの問題について自分の意志を確立してゆくことが必要であろう。