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倉田剛『日常世界を哲学する』光文社新書

2019-12-22 20:56:01 | 哲学・宗教
山本七平の『「空気」の研究』の空気は、「規範性なき社会規範」の特殊な事例とか。
安倍内閣は辺野古移転が唯一の選択肢だと信じている、というときの安倍内閣は集団の信念ではなく、集団の核となるメンバーの信念でもなく、志向システムの集団としての安倍内閣なんだとか。

存在論って、ちょっと違うものを想像していたけど、冗談みたいな理屈ぎっしりの本です。

小坂国継『西田幾多郎の思想』講談社学術文庫

2019-12-21 20:33:01 | 哲学・宗教
『善の研究』などを読むと、西田幾多郎の考え方はカントやヘーゲル、フッサールなど西洋哲学を基礎としながら、仏教や中国哲学にも影響を受けていることがわかる。哲学の本で愛が語られることなどは、8人の子どものうち5人を亡くしたことなども思想形成に影響しているように思う。
ヘーゲルにとっては、対立物が次元の高いところで統一する世界が「弁証法」なのだろう。だが、西田幾多郎にとっては、対立したものがそのままひとつのものとして成り立っているのが「矛盾」ということ。止揚する余地のあるものなど真の矛盾ではないって見方。で、「絶対矛盾的自己同一」ってことになる。
そのあたりのことが、この本でよくわかる。

菅原潤『京都学派』講談社現代新書

2019-12-21 13:37:32 | 哲学・宗教
「世界史的立場」と「近代の超克」という二つの座談会に参加した京都学派の哲学者たちが戦争責任を問われた。だが、実質的には欧米を基軸としたインターナショナルリズム(現在の言い方であればグローバリズム)に対抗してナショナリズムを言い立てても、すでに日本は世界的な市場に巻き込まれていた。ゆえに、ナショナリズムを主張し続けることは原理的に不可能であった。京都学派の構想する歴史哲学がそのようなアポリアを身をもって示した。京都学派の戦争責任を言い立てるのではなく、より建設的な議論を求めて京大四天王たちの足跡をたどることにしよう。
(p.117一部文章を改編)

西田幾多郎を起点とする京都学派。その後の田辺元、三木清。座談会に参加した四天王と呼ばれる哲学者たち。
当時は小林多喜二の拷問による獄中死、佐野・鍋山らの転向など穏やかではない時代だった。
上山春平の徴兵、人間魚雷体験。鶴見俊輔は敵国での戦争体験で、二度と戦争を起こさないことを誓った。そんな新京都学派の哲学者もいる。
京都学派以外の哲学者も正面から戦争を批判した者はいなかった。西田幾多郎らの論説は戦争の波に巻き込まれたにすぎない。今、京都学派を等身大でとらえることが重要である。

佐藤優『知性とは何か』祥伝社新書

2015-10-26 08:44:56 | 哲学・宗教

反知性主義とは、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度と佐藤優氏は定義する。

反知性主義者は、新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中で生活している。こういう反知性主義者が問題を引き起こすのは、その物語を使うものがときに「他者への何らかの行動を強要する」からだ。
反知性主義者を啓蒙によって転向させることは困難だ。知性の力によって、反知性主義者を包囲していくというのが、佐藤優氏の考える方策だという。
いつものようにいくつかお勧めの本の紹介もある。
反知性主義について、本を書こうという着想を佐藤氏が得たのは、麻生財務大臣が「憲法改正はナチスの手口に学べ」のような発言をしたニュースかららしい。その言葉から世の中の危ない思考を感じ取って、この本の構成を考えたのだから知の怪物ははやりすごい。
ISISから安保法制、辺野古という時事問題。マルクス、ピケティ、宇野弘蔵、柄谷行人とその論ずる対象は幅広い。

佐藤氏は自ら反知性主義に陥らない方法として、三つのことを勧めている。
自分を取り巻く社会的状況を言語化すること
他人の気持ちになって考えること
話し言葉でなく、書き言葉思考を身につけること

歴史修正主義、在日外国人排外主義が広がる今の世の中で参考になる一冊だ。

守屋洋『孫子の兵法』 三笠書房知的生きかた文庫

2015-01-05 14:09:28 | 哲学・宗教
色の基本は、青、赤、黄、白、黒の五つに過ぎないが、組み合わせの変化は無限。
音階、味も基本は五つに過ぎないが、組み合わせの変化は無限。
戦争は、「奇」と「正」の二つから成り立っているが、その変化は無限。誰も知り尽くすことはできない。

兵法は戦いの書であるが、軍の統治の書でもある。
「兵は多きを益とするにあらず」
・数が問題ではなく、一致結束を図ることが肝要
・罰の適用は慎重に、しかし、必要な時はためらってはならない
・温情(文)と軍律(武)の両面が必要
・軍律は普段から徹底させておかなければならない

この本は兵法のエッセンスをわかりやすく解説してくれる本である。
将棋は定石を覚えなければ上達しないように、戦術を覚えなければ応用できない。
スポーツでも経営でも応用できるというのが兵法の面白いところだ。

映画『ノア 約束の舟』

2014-12-31 15:18:20 | 哲学・宗教
旧約聖書に出てくるノアの方舟の話の映画化。
仏教徒の自分としてはどうでもいい話なのだが、ラッセル・クロウ主演なのでぜひ見たかった。
罪深き人間は消えるべきか、愛のもとに子孫を残すべきかという悩み。
まさしくどうでもいい話である。
しかし、さすがハリウッド、スペクタクル大作に仕上げているので見ていて飽きない。
ちんけな愛の話も立派に見える。

原題:NOAH
製作年度:2014年
上映時間:138分
製作国:アメリカ
監督:ダーレン・アロノフスキー


林田明大『真説「陽明学」入門』三五館

2010-09-20 16:14:20 | 哲学・宗教
王陽明の中心的な思想、<致良知><心即理><知行合一>は性善説の前提で考えるとよくわかる。

【致良知】人がもともともっている是非のこころ=「良知」は放っておくと「欲」が覆う。良知がそれに気づけば覆いはなくなり、本来の姿を回復する。主客関係を正しくして、良知を本来の姿にもどすことを「致す」といい、良知を極めることが致良知。

【心即理】我々の行動規範は外の理にあるのではなく、自らの心にあり、理は心から生み出される。

【知行合一】知と行は別々のものではなく、少しでも思念が生じれば、それが行いであり、思いと行動は一体のものである。『伝習録』によると、訴訟の仕事が忙しくて学問しようにもできないと言った弟子に対して、王陽明は「役人としての仕事を遂行する中で学問をしなさい。それでこそ主客関係を正しくするということなのです。裁判であなた自身がいささかでも感情の平衡を失って他人の是非を抑圧しないことが、主客関係を正して良知を発揮することです」と言ったそうだ。修行のために寺に籠もったり、知識と行動を区別するのではなく、実践の場という現実のなかで学問することを重視した。

王陽明は、自身の人生では左遷や内乱鎮圧の功労が評価されないという不運な目にあいながらも、性善説を思想の前提とした。これは人の可能性を信じて、ただひたすらよい政治を実現したいと思ったからなのだろう。また、世のために聖人をめざすこと、思いと行動は切り離せないものと説いた思想が、混乱の世を生きた幕末の志士や現代の多くの人々に影響を与えているのだと思う。そういう意味で国家主義にも革命思想にもいろいろな方向にパワーを秘めている思想だと感じた。

陽明学は、王陽明の一言一句を実践する学問ではないと思う。大事なのは、性善説に立って聖人をめざすこと。宗教や思想は教団のような組織をもつと、教義を広める目的が社会の救済ではなく、その組織の維持のためになったりする。そういう意味で、陽明学の左派だとか右派だとか、総理の指南役になった人の人脈とかの話題は聖人をめざすこととは関係なく、王陽明は喜ばないのではないだろうか。

吉田公平『伝習録 陽明学の神髄』タチバナ教養文庫

2010-08-16 23:03:10 | 哲学・宗教
王陽明の言いたいことがやっとわかってきた。
この本は王陽明の『伝習録』現代日本語版である。
ほんとうに凡人でもよく理解できるように訳してある。

著者は解説の最初でこう書いている。
「王陽明が繰り返し述べているのはただ一つのことである。性善説、つまり人間の本質は本来完全であるから根源的に悪の世界からすでに救われているという確信に根ざした、自力による自己実現・自己救済に他ならない。これを基本的視覚に据えてこそ、はじめて『伝習録』の一つ一つの語録の主旨が明白になると言っても過言ではない」

意識とは具体的な客体なしにははたらくものではない。・・・意識を誠のままにしようと思ったならば、意識がはたらきかけている具体的な対象に即して主客関係を正しくし、意識が誠のままにはたらくのを妨げている欲望を昇華して、本来の天理の発現にゆだねたならば、良知はこのような主客関係においては、さまたげられることもないので、本来の自己を発揮することができる。
p.39

解説では、こう書かれている。
王陽明は朱子学の格物論の物を、外在する客観物が内在する理法と誤解しているが、主体者と他者との社会関係を正しくすることが格物と理解した。そのため、格物を「主客関係を正しくする」としている。正しくする主体が良知・明徳である。良知=主体の客体に対する働きかけが「意」。はたらきかけが主客関係(物)を生む。この意に良知が発現してその完全さを実現することが「誠意」。格物・致知・誠意はひとつのことなのである。

主体の客体への働きかけを「感」、客体が自らの本質を主体に顕現することを「応」という。主客関係の緊張とはこの感応のこと。

また、弟子が「私は書類整理や訴訟処理がとても煩雑困難なので、学問しようにもできません」と言ったら、王陽明はこう言ったそうだ。

役人としての仕事を遂行する中で学問をしなさい。それでこそ主客関係を正しくするということなのです。・・・被疑者の態度が横柄だからと言って怒ってはいけないし、彼らの陳述が如才ないからと言って喜んでもいけない。・・あなた自身がいささかでも平衡を失って他人の是非を抑圧しないことが、主客関係を正して良知を発揮することです。実践の場を離れて学問するというのでは現実逃避です」p.88

良知についても、王陽明の言葉からなんとなくわかる。

良知=是非
良知とは、正しいことは正しい、正しくないことは正しくないと判断する主体者のことに他ならない。・・・それをうまくやれるかはその人いかんによる。
P.252

七情(喜怒哀懼愛悪欲)を善か悪かと決めつけることはできない。しかし執着することがあってはいけない。七情が執着するとそれを欲という。それが良知を蔽うのである。良知がそれに気づけば蔽いはなくなり、本来の姿を回復する。p.256

素質の優れた人なら、本源に視点を据えて、人心の本体はもともと微塵の汚染もない明澄なものである、もともと「未発の中」であることをストレートに覚醒する。その次の素質の人は、習心がどうしても身についてしまうから本体は蔽われてしまう。そのためにとりあえず意念の場で着実に善を実現し悪を排除させるのである。その努力が成果を生み、汚染物がすっかり除去されると本体はもとどおりすっかり明澄になる。P.315

子どもが先生や年長者を畏敬することをわきまえることなども、子どもの良知がそうするのである。進んでお辞儀して尊敬の念を表すのも、子どもが主客関係を正しくして、良知を発揮したことなのである。P.338

中国の思想は今ひとつよくわからない。
これは西洋思想でも似ているが用語の定義が人によって違うからだろう。
いや用語=概念の理解の仕方によって思想を発展させていると言ってもいいかもしれない。孔子の人間の本性を巡る孟子の性善説も、陸象山、王陽明へと発展しているのだろう。

王陽明が当時の朱子学に対して、本を読んで賢くなるのが人生の目的ではなく、また仏教のように山にこもって悟りをひらくのではなく、現実の世界の中で人間が本来持っている善の世界を実現しようとしたことはよくわかる。それが権威主義批判になり敵をつくったことも王陽明にすれば仕方がないことだったのだろう。
この思想と三島由紀夫の割腹自殺との関係についてはよくわからないが。いろんな読み方ができる思想なのかもしれない。

幕末の志士に影響を与えたのは王陽明のこういう言葉だろう。

きみが本当に聖人になってやるぞという志があるなら、良知はすっかり発現するのである。それ以外の考えが良知にまといついているようでは、ぜひとも聖人になってやるぞという志ではないのだ。p.189

安岡正篤『王陽明』PHP文庫

2010-08-16 22:01:37 | 哲学・宗教
王陽明という人はホントに波瀾万丈な人生だったことがわかる。

頭はよかったのに公務員試験で2度も落とされ、やっと公務員になったのに、時の政治を批判して左遷され、命まで狙われる。もともと病弱なのに辺境の地でよけいに悪化し、やっと戻って来れたと思ったら、今度は反乱の鎮圧に行かされる。それを平定し、褒美が与えられるかと思ったら、有力な家臣は危険だと逆に命を狙われる。

それでもこの人の人徳で、行くところ行くところで人々から尊敬される。それはこの人が職業や身分に分け隔てなく人々と接し、学校を作り、講義をして各地で貴重な存在になったからだ。馬に乗って反乱を平定する公務員というのは、今の自衛隊の幹部のようなものなのだろうか。

王陽明が50歳になるときに有名な「致良知」の説を提唱する。

「良知」という言葉は人間の優れた知能知覚という意味ではなく、「良」はア・プリオリ(先天的)という意味で、「知」は実に意義深い知能=良知良能の意味。
天地万物を究明しようと思えば、まず我のうちにかえって自性を徹見せねばならない。われわれの意識の深層は無限の過去に連なり、未来に通ずる。
「致」とは極めるという意味。
つまり、「致良知」とはもともと自分がもっている天然自然の働きを極めること、ということなのだろうか。

いまひとつこの本では王陽明の思想そのものはよくわからなかった。

この著者の交友関係は政治家とか警視総監とかなんだか怪しい。

幕末の志士に陽明学が影響を与えたらしいが、今の政治家はどう読んでいるのだろうか。

木田元『ハイデガーの思想』岩波新書

2009-08-16 23:38:37 | 哲学・宗教
ハイデガーの思想、とくに『存在と時間』をわかりやすく解説しているのだが、やっぱりよくわからない。木田元によると『存在と時間』は完結した思想の展開でなく、人間存在の思想の深淵に迫る入り口に過ぎないということだ。人間存在のあり方を展開するつもりが、未完のままハイデガーは亡くなったらしい。それでこの人の思想はよくわからないのだろうか。読む側の頭が悪いのか。
ハイデガーの前のフッサールや、もっと知覚や心理学に近づいたメルロ=ポンティのほうがわかりやすく感じるのは何故だろう。ハイデガーを現象学の流れの中に位置づけようとするからいけないのかもしれない。
サルトルはハイデガーを現象学の祖と称えて、ハイデガーに逆にバカにされたらしい。
ヴィトゲンシュタインなど言語の限界を探るイギリスを中心とした思想家はもともと解答がない問題に対して問いかけること自体を批判しているようだ。そういう思想家もハイデガーには注目したといわれているが、ヴィトゲンシュタインのほうがまともに思える。