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佐々木 克『大久保利通と明治維新』吉川弘文館

2018-11-24 07:56:46 | 歴史
世話になった島津久光への裏切り、江藤新平の斬首など大久保利通を非情の政治家として描く人もいる。
しかし、この著者は、明治維新のなかで大久保利通を位置づけ、いち早く国家構想を持ち、国家のために非情である政治家、ドイツのような立憲君主制をビジョンした政治家として描いている。
紀尾井町が大久保が暗殺された場所だったんだとあらためて知った。
毎年、夏にあそこで会議があるので出張する。
大久保には暗殺予告があったが、それを無視して、金沢士族に惨殺された。
NHK大河ドラマ『西郷どん』が放送されているが、西郷との別れのときは、アメリカに留学している二人の息子に遺書を送っている。例え西郷を敬愛する鹿児島士族に殺されるようなことになろうとも国家のために西郷と参議で対決するという決意だった。征韓論を巡って賛成派の西郷と反対派の大久保は袂を分かった。
大久保はいつでも殺される覚悟だったのだ。
大久保利通という人間にはますます魅力を惹かれる。

立命館大学文学部京都文化講座委員会 編『京の公家と武家 』白川書院

2018-11-06 07:41:47 | 歴史
公家と武家の関係を通史的に捉えた講演企画のブックレット。
意欲的な試みなのに、最後は西園寺公望が立命館の偉い学祖ってとこにもっていくのがセコいけど。
しかし、それまでの内容は興味深い。
平将門が起こした承平・天慶の乱は、朝廷によって地方豪族を国衛軍制に取り込むことによって鎮圧した。
そこから武士の台頭が進んでいる。
保元・平治の乱で平清盛の平家が軍事行動の主導権を握る。
最後は後白河の幽閉=院政の停止まで至る。
公家と武家の関係はときに後醍醐天皇のように天皇自身が政治も軍事も握ろうとするが、公家政治を尊重し、実質は武家政治が実権を握るという形で明治維新まで続いた。
しかし、その間に公家と武家が一体になろうとしたことがある。
ひとつは足利義満の「公武統一」である。
尊氏の建武新政後に南北朝の統一を果たした。
もう一つが幕末の「公武合体」だろう。
幕末は「尊皇攘夷」論が台頭してくる中で、公家と武家の力関係が微妙になっていったと思う。
結局、徳川幕府の滅亡、武家政治の終焉で終わった。

一坂太郎『吉田松陰とその家族-兄を信じた妹たち』中公新書)

2015-08-17 15:21:12 | 歴史
この本を読むとNHKの大河ドラマが時代考証に基づいて史実に忠実に作られているように思う。
もちろん、昔、この時代考証に関わった研究者に聞くと、文書などがあるものについては忠実に作るが、
何もないところについてはフィクションとして結構大胆に台詞なんかもつくっているようだ。
当たり前と言えば当たり前だ。あくまでドラマだ。
今でもテロリストと呼ばれる松蔭だが、頭がよくて誰よりも熱い人だったんだと思う。
そうでなければ何の得にもならない行動にどうして付いていったり、教えに従ったりするものか。
ある意味、カルト教団の教祖のように思われていたのかもしれない。
『花燃ゆ』の主人公である妹の文の器量がよくなかったとのも事実のようだ。でも二度もいい男と結婚している。
文もまた人を惹きつける魅力があったのかもしれない。
歴史は細部も不思議なことで彩られている。

加来耕三『黒田官兵衛 軍師の極意』小学館新書

2015-01-05 11:39:01 | 歴史
黒田家の黒田は、滋賀県の伊香郡黒田邑に先祖が住んだからという説がある。ただこの黒田邑、もう今はない。
また、播磨国高郡黒田村に出自があるとの説もあるらしい。こちらの黒田の地名はまだある。
播磨で黒田の地名はここだけなのでその説が出たらしいが、黒田家の系図がこの黒田の荘厳寺という真言宗の寺にある。
少し怪しい説なのだが、いずれ真偽は明らかになるだろう。
秀吉の軍師として、中国大返しなどの戦術を編み出した官兵衛は大河ドラマで描かれている人物像と近かったのかもしれない。
獄中に捉えられても主君を裏切らず、報酬を求めず懸命に働いた。
戦に秀でて、家臣にも慕われた。
家康、光成と対峙しようと九州平定し、天下を目指したのが本当かどうかはわからない。
最初から恩賞として領地を広げたかっただけとの説もある。
官兵衛のおかげで、去年は軍師ブームになった。
会社にも軍師、参謀が必要とか。
戦において、竹中半兵衛、黒田官兵衛という軍師がいなければ秀吉の天下はなかったのだろう。
しかし、統治するためには石田三成が必要だったのだろう。
この両方が経営には必要だと思う。

『関ヶ原合戦までの90日 勝敗はすでに決まっていた!』小和田哲男(PHP新書)

2014-11-30 21:29:53 | 歴史
関ヶ原には今年の6月に行った。
地元の歴史家が史料館を作っていて、等身大に近い変な武士の人形を並べていた。
とてもさびれた街という印象だった。

1600年の天下分け目の関ヶ原。
上杉征伐の名目で、石田三成に挙兵させた徳川家康の知略。
その後、西と東で勢力を集めた決戦。
九州では黒田如水の戦もあった。
各地での戦が関ヶ原に兵力を結集するのを妨げたとも言えるようだ。西軍のほうがその影響が大きかったんだろう。
態度の煮え切らない小早川秀秋に業を煮やした徳川家康が威嚇射撃をした。
それで小早川は東に味方し、勝敗が決した。
そのことが有名で僅差での東軍の勝利という印象があったが、関ヶ原だけでなく日本のあちこちが戦場だったのだ。

その中心地が関ヶ原。それを思うとあの奇妙な史料館にまた行きたくなる。

『石田三成 「知の参謀」の実像』小和田哲夫(PHP新書)

2014-11-30 00:06:51 | 歴史
NHKの大河ドラマ『軍師 官兵衛』で描かれる石田三成は悪役である。
豊臣家のことしか考えない官僚で、戦は下手だが、謀略や計算には長けている人物として描かれている。
そんな人物がどうして徳川家康と互角の兵力を集めることができたのだろうか。
それが最大の疑問だった。
この本を読むと、あのドラマの描かれ方の通りだと思うところと、ドラマの三成像は関ヶ原の勝者である徳川史観なのだと思うところもあった。

千利休切腹事件などは、明らかに光成が権力を獲得するために利休を嵌めたようだ。このあたりから策謀ばかりを考えているというイメージができたようだ。
しかし計数の才があったので、同じような計数の才がある者が集まったこととか、博多の街作りの基礎を作り、町を繁栄させていった手腕などプランナーとしての手腕もあったのだと思う。

秀吉との出会いである三献茶のエピソードがある。初めは秀吉がの鷹狩の疲れを癒すためにぬるいお茶を入れ、だんだん熱いお茶を出したという逸話。この話などは秀吉が信長のわらじを温めたのと同じように、細かな心遣いができる人間であることを示している。
また、皮膚病を患っていた大谷吉継との友情などは泣かせる。情の熱い一面のある人間だったのではないかとも思わせる。
歴史上、謎が多い不思議な武将である。

小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書

2010-03-29 22:20:05 | 歴史
坂本龍馬をモデルにした「龍馬伝」が人気だ。しかし歴史学者の間では、明治維新における龍馬の歴史的意義自体を疑問視する見方もあるらしい。
たしかに司馬遼太郎が小説のモデルにしていなければ、昭和になってから龍馬がこれほど有名になることはなかったのかもしれない。
そういう視点でこの本を読むといろいろ考えさせられる。

歴史学と歴史小説の違いは何か。
史実を書くこととフィクションを書くことが違う。テーマや文体が違う。分析するのと叙述するのが違う。というのがこれまでの主張だった。しかし、塩野七生の『ローマ人の歴史』のように史料になるべく忠実に分析し、ローマ人は何を考えていたかを解き明かすような作品が出てくるとその違いはますます曖昧になる。
そこで著者は、歴史学は史的事実の根拠を求め続けるもの、根拠が存在するという意味で正しい解釈、より正しい解釈を求め続けるものという。それに対して歴史小説は正しい解釈を求め続けることを目的としない、という違いだと言っている。
まあ、読み手としてはお互い補完し合っているようにも思う。あまり違いを強調しても仕方ないかもしれない。

次に歴史学は役に立つのか?という問い。
これは哲学は役に立つのか?という木田元の問いにも似ている。
従軍慰安婦をめぐって、実際の史実が明らかになることにより戦後処理の仕方が異なってくるという現実的な問題があった。日本人は加害者なのかどうか。歴史学の主流派と自由主義史観派の論争、さらに構造主義者との三つ巴の論争に発展した。これは考え方の前に事実がどうなのかということが重要視される問題だろう。
歴史を知ることによって今の自分や現在の事象を相対化するという効用があるという。経営学者の伊丹敬之が日本的経営を史的に分析することによって、今の日本の経営を相対化してみる事例が紹介されている。
「直接に社会の役に立とうとするのではなく、真実性を経由した上で社会の役に立とうとすること。集団的なアイデンティティや記憶に介入しようとするのではなく、個人の日常生活い役立つ知識を提供しようとすること。このような仕事に取り組むとき、歴史は社会の役に立つはずだ」と小田中氏。

真理の探究という美名の下で、学問が社会の役に立つかどうかなど関心のない研究者がいまだに多い。歴史学者が真剣に「歴史学は役に立つのかどうか」と問うのは実に誠実な姿勢だ。


加来 耕三『坂本龍馬―本当は何を考え、どう生きたか?』実業之日本社

2010-02-22 01:28:52 | 歴史
NHK大河ドラマの影響で龍馬ブームである。福山雅治の坂本龍馬もよいが、香川照之が演じる岩崎弥太郎も魅力的だ。

この本は主に龍馬が兄弟姉妹に宛てた手紙から龍馬の人となりや考え方を追っている。NHK大河ドラマの時代考証にもなる。

勝海舟の弟子、亀山社中から海援隊へ、薩長同盟の立役者、船中八策は日本の骨格となったなど偉人伝として捉えられる龍馬だが、明治維新まで生き延びていたらどういう役割を演じていたのだろうか、とは誰もが思う。

おそらく岩崎弥太郎の創った三菱と並ぶ財閥をつくっていたのではないだろうか。ややこしい時代に生きたややこしい人物だったことは間違いない。

松浦玲『新選組』(岩波新書)

2008-11-18 23:04:08 | 歴史
新選組は明治維新をつぶす単なる「ならず者集団」だったのか? 最初は坂本龍馬や西郷隆盛などと同じような尊皇攘夷に近い思想をもっていたのではなかったのか? こういう仮説の下に、これまであまり重視されてこなかった近藤勇の全手紙を再構成して、新選組が思想集団からラストサムライ集団に変貌していく過程を示している。

新選組の歴史は長いようで短い。近藤勇ら浪士組が江戸を出発たって、土方歳三戦死するまでたった6年間しかない。

文久3年(1863年)に壬生浪士組と名乗っていた頃はまだ尽忠報国(じんちゅうほうこく)=尊皇攘夷(そんのうじょうい)を標榜して日本国のために命を捧げるということを目標にしていた。映画『壬生浪士組』で中井貴一演じる吉村貫太郎と佐藤浩一演じる斎藤一が出会う頃だ。しかし、開国の動きが強まり、池田屋事件、禁門の変で長州の尊皇攘夷過激派を斬り、開国派の伊東甲子太郎らが新選組に入隊した頃から新選組が思想集団でなくなったらしい。

慶応3年(1867年)に幕臣取り立てが決まる。攘夷するまで幕臣取り立ては受け入れられぬと近藤勇が断っていたのに、攘夷もしないまま受け入れたのは新選組の財政事情が影響したのだろう。これで新選組は裕福になる。近藤勇らと考えが合わない伊東甲子太郎らが離脱し、新選組に刺殺される。後は幕臣として生きる道しかない。鳥羽・伏見の戦いから近藤勇の斬首、五稜郭での土方歳三らの抵抗。

薩長らの志士は、尊皇攘夷(そんのうじょうい)を掲げながら、攘夷が無理と見ると尊皇だけを掲げて公武合体から討幕への道を選択した。しかし、ラストサムライたる新選組(近藤ら天然理心流が中心となった部隊)は最期まで尽忠報国(じんちゅうほうこく)を尊皇と攘夷のように分離することができなかった。映画『壬生浪士組』で吉村貫太郎(中井貴一)が「一度故郷を裏切った者がまた幕府を裏切れない」と新政府軍に挑んでいったのもリアルな話かもしれない。司馬遼太郎は、「新選組がいなかったら明治維新はあと1年早く成立していただろう」と言ったらしいが、歴史は改革と抵抗、作用と反作用で進むものなのだ。新選組は、研究者にはあまり好まれず、大衆に愛される存在だが、歴史を両側から見る上で興味深い存在だ。

毛利敏彦『大久保利通』中公新書

2008-03-25 22:57:13 | 歴史
1969年に初版が出版された大久保利通研究の古典的な本。
明治のジャーナリスト池辺三山は大久保利通のことを「堅忍不抜、一度思い極めたことは非常な執着力をもってそいつを実行する」と評したらしい。
西郷隆盛は自分の「築造と破壊の才」に対して、大久保の「造作の才」を評価した。
大久保が欧州視察の際にドイツのビスマルクと会い、弱小のプロシアが大ドイツ帝国になったことに感銘した。そのドイツにならって富国強兵、殖産興業に邁進したのだとうという解釈。

吉田松陰のように学問を極めたわけでもなく、坂本龍馬のように壮大な発想があったわけでもない大久保利通にとって、ヨーロッパ見聞は理想の未来像を描く素材となったのだろう。西郷隆盛との差はこの欧州視察に行った者と行かなかった者の差かもしれない。