大学に入学してから卒業するまでのさわやかな青春小説。というと宮本輝か誰かの小説にでもありそうな感じだが、セックス描写もなければ政治闘争、ドラッグも出てこない。平凡な学生生活と少し違うのは、5人登場する主人公グループの女子学生のひとりがスプーンを曲げる超能力者、もうひとりが絶世の美女、男子学生のひとりが高校までにいじめにあっていた思いこみの激しい人物、もうひとりが強盗事故に巻き込まれて片腕を失うという設定くらいか。男子学生の主人公にはほとんど特徴がない。まじめに授業に出て、ブティックで働く恋人がいる。麻雀の場面がやたらと多い。
それでも長編小説に仕上げるところは作者の技術だろう。テーマは友情と成長といったところか。砂漠というのは卒業後の人間の欲望がうずまき、それに人々がすり減っていく世界のこと。
面白い小説だが、伊坂幸太郎が青春小説を描くとこうなります、という印象くらいしか残らない作品である。
それでも長編小説に仕上げるところは作者の技術だろう。テーマは友情と成長といったところか。砂漠というのは卒業後の人間の欲望がうずまき、それに人々がすり減っていく世界のこと。
面白い小説だが、伊坂幸太郎が青春小説を描くとこうなります、という印象くらいしか残らない作品である。
ほんとうに長いインタビューだ。
話題も幼い頃の記憶から、河合隼雄との対話、エルサレムのスピーチまであちこちに飛ぶ。
でもとてもおもしろかった。
小説は作品を楽しむべきで、作家の真の意図など関係ない、と自分では思うようにしている。けれど、『1Q84』は謎の多い小説なのでついつい作家の意図を知りたくなってしまった。
ロングインタビューの中で、『1Q84』に手を握るシーンが多いことについて、村上春樹はこう言っている。
「体の芯に、簡単にはさめない確かな温もりがあること、そのフィジカルな質感がそなわっていること、それが大事だと思うんです。手を握るという行為をとおして、登場人物たちはその質感を確かめ合っているのかもしれない。僕がインタビューしたオウムの信者の人たちには、そういう重しみたいなものがいまひとつ感じられなかったんです。言葉も滑らかだし、ロジックもきちんとしているし、聞いていてなるほどと思うんだけど、体の芯から伝わってくるものが希薄です。
それより僕がお目にかかった被害者の人たちには、それがあります。日常生活がもたらすあれこれのできごとを通して、水がいろんな地層を抜けるように、自然とにじみ出てきた質感です。それはごく平凡な、ささいなものかもしれない。・・・・(略)・・・・・・・・
天吾と青豆も、十歳の時に互いの手をしっかり握りあったことで、体の芯の温もりみたいなものを獲得することができた。とてもフィジカルな記憶です。その温もりの記憶が二人を結果的に助けることになります。おそらく牛河にもタマルにも、そのような体験はなかったのでしょう。」
『1Q84』を読んで感じた「生きている実感の喪失とその回復」ということが、なんとなく作者の意図と重なっているように思った。
生きていると感じた実感が大切だし、その記憶がどこかにある限り、誰でも未来の方向を向いて生きていける。
村上春樹は60歳を超えてもなお、そういう若い感覚を持ち続けている。
これからしばらく長編を書かないらしい。このインタビューを読んでも、『1Q84』の続編があるのかどうか、よくわからない。まあ作者本人もよくわからないのだろう。
村上春樹のインタビューを読むと、老いることとはどういうことなのだろうか、と思う。今もフルマラソンに参加し、自分の体を鍛えることに熱心で、世間の評判とは距離を置いて、マイペースで生きている。
歳をとっていくことに対する不安を忘れるインタビューでもある。
話題も幼い頃の記憶から、河合隼雄との対話、エルサレムのスピーチまであちこちに飛ぶ。
でもとてもおもしろかった。
小説は作品を楽しむべきで、作家の真の意図など関係ない、と自分では思うようにしている。けれど、『1Q84』は謎の多い小説なのでついつい作家の意図を知りたくなってしまった。
ロングインタビューの中で、『1Q84』に手を握るシーンが多いことについて、村上春樹はこう言っている。
「体の芯に、簡単にはさめない確かな温もりがあること、そのフィジカルな質感がそなわっていること、それが大事だと思うんです。手を握るという行為をとおして、登場人物たちはその質感を確かめ合っているのかもしれない。僕がインタビューしたオウムの信者の人たちには、そういう重しみたいなものがいまひとつ感じられなかったんです。言葉も滑らかだし、ロジックもきちんとしているし、聞いていてなるほどと思うんだけど、体の芯から伝わってくるものが希薄です。
それより僕がお目にかかった被害者の人たちには、それがあります。日常生活がもたらすあれこれのできごとを通して、水がいろんな地層を抜けるように、自然とにじみ出てきた質感です。それはごく平凡な、ささいなものかもしれない。・・・・(略)・・・・・・・・
天吾と青豆も、十歳の時に互いの手をしっかり握りあったことで、体の芯の温もりみたいなものを獲得することができた。とてもフィジカルな記憶です。その温もりの記憶が二人を結果的に助けることになります。おそらく牛河にもタマルにも、そのような体験はなかったのでしょう。」
『1Q84』を読んで感じた「生きている実感の喪失とその回復」ということが、なんとなく作者の意図と重なっているように思った。
生きていると感じた実感が大切だし、その記憶がどこかにある限り、誰でも未来の方向を向いて生きていける。
村上春樹は60歳を超えてもなお、そういう若い感覚を持ち続けている。
これからしばらく長編を書かないらしい。このインタビューを読んでも、『1Q84』の続編があるのかどうか、よくわからない。まあ作者本人もよくわからないのだろう。
村上春樹のインタビューを読むと、老いることとはどういうことなのだろうか、と思う。今もフルマラソンに参加し、自分の体を鍛えることに熱心で、世間の評判とは距離を置いて、マイペースで生きている。
歳をとっていくことに対する不安を忘れるインタビューでもある。
とてもおもしろい小説なのに一日で読んでしまった。
楽しい時間は持続したいので、よい小説は時間をかけて読むことにしている。
けれど、おもしろすぎたので、読み進めていたら一日で読み終わってしまったのだ。
読後感もとてもさわやかだ。
よくある「次号に期待!」というようなハリウッド映画の作り方とは違う。
今年この小説に出会えたのをほんとうに幸せだと思う。
村上春樹の小説に大げさなテーマなど求めるべきではないのかもしれない。
けれどこの小説には恋愛やミステリー、あるいはSF小説としても楽しめるストーリーのおもしろさとは別にテーマがあるように思う。
「いったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない」
ヴィトゲンシュタインが言った言葉としてこの台詞をタマルが青豆に言う。
同じような意味のことを、実存主義では、現存在が世界に開かれた可能性をもつというような意味で「投企」という概念を使っていたように思う。確かハイデッガーの概念だ。
人間はこの世に生を受けた運命、歴史、人間関係、その他いろいろなことを受け入れなければならない。
人間は歴史的必然ではなく、この世界に投企される。
生きる意味は自分でつくるのだ。
そういう当たり前のことを作者は伝えたかったのではないだろうか。
家族や遺伝など血として宿命的なことと、愛情の欠如や絆のない関係という対立する世界がこの小説で描かれている。
サザエさんのような家族的な幸福に恵まれている人物は一人も登場しない。
みんなが何らかの欠如によって、孤立し、孤独のなかで生きている。
小説の最後で、天吾と青豆が見る世界の月は2つでなく1つになった。
けれど、また新しい秩序がある世界に来ただけかもしれない。
過去の世界にあった危険はないが、おそらくこの世界には新たな危険があることを予感している。
BOOK3に出てくる登場人物にもまだまだ不可解なところがある。
空気さなぎ、リトルピープルとは結局何を意味するのか。
これはおそらくBOOK4やその次の作品で描かれるのだろう。
その前に村上春樹が生き続けているのかどうか。
例えば、村上春樹が作品を完成させる前に亡くなっても、読者の一人ひとりが自らの小説を書けばいいのだろう。
そういうことを言いたかったのではないのだろうか。
まあ、小説を楽しむことにおいて、作者の真の意図などどうでもよいことなのだが...。
小説のストーリーとは直接関係ないことで気になることもある。
タマルが牛河を拷問しているときに、ユングの言葉を繰り返させる。
ユングが湖畔に自ら建てた石の家に刻んだという「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」という言葉だ。
この言葉が妙に気になる。
拷問している最中という場面を考えると、心理学者の生活のことを持ち出すなど不自然だ。けれど、この言葉は何度も同じ章に出てくる。
『1Q84』は現代の宗教をひとつの題材にしており、神、生、死などを考える上でキーとなる言葉のつもりなのだろうか。
音楽ではBOOK1・2と同じようにヤナーチェックのシンフォニエッタが出てくる。
牛河がバスタブで聴くシベリウスのバイオリン協奏曲は、ちょっと風呂場に合わないと思うがどうなのだろう。
けれどきっとCDで買う人が増える。
こういう小技を入れるのも村上春樹の小説がベストセラーになるひとつの要素なのだろう。
そういえば、小説にでてくる料理や音楽を研究した本も出ているらしい。
小説を読む楽しさとはあまり関係ないと思うが、村上春樹の小説が100万部も売れるのはいろんな要素が詰まっていて、いろんな楽しみ方ができるからなのだ。
世界はそれでいいのだ。
楽しい時間は持続したいので、よい小説は時間をかけて読むことにしている。
けれど、おもしろすぎたので、読み進めていたら一日で読み終わってしまったのだ。
読後感もとてもさわやかだ。
よくある「次号に期待!」というようなハリウッド映画の作り方とは違う。
今年この小説に出会えたのをほんとうに幸せだと思う。
村上春樹の小説に大げさなテーマなど求めるべきではないのかもしれない。
けれどこの小説には恋愛やミステリー、あるいはSF小説としても楽しめるストーリーのおもしろさとは別にテーマがあるように思う。
「いったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない」
ヴィトゲンシュタインが言った言葉としてこの台詞をタマルが青豆に言う。
同じような意味のことを、実存主義では、現存在が世界に開かれた可能性をもつというような意味で「投企」という概念を使っていたように思う。確かハイデッガーの概念だ。
人間はこの世に生を受けた運命、歴史、人間関係、その他いろいろなことを受け入れなければならない。
人間は歴史的必然ではなく、この世界に投企される。
生きる意味は自分でつくるのだ。
そういう当たり前のことを作者は伝えたかったのではないだろうか。
家族や遺伝など血として宿命的なことと、愛情の欠如や絆のない関係という対立する世界がこの小説で描かれている。
サザエさんのような家族的な幸福に恵まれている人物は一人も登場しない。
みんなが何らかの欠如によって、孤立し、孤独のなかで生きている。
小説の最後で、天吾と青豆が見る世界の月は2つでなく1つになった。
けれど、また新しい秩序がある世界に来ただけかもしれない。
過去の世界にあった危険はないが、おそらくこの世界には新たな危険があることを予感している。
BOOK3に出てくる登場人物にもまだまだ不可解なところがある。
空気さなぎ、リトルピープルとは結局何を意味するのか。
これはおそらくBOOK4やその次の作品で描かれるのだろう。
その前に村上春樹が生き続けているのかどうか。
例えば、村上春樹が作品を完成させる前に亡くなっても、読者の一人ひとりが自らの小説を書けばいいのだろう。
そういうことを言いたかったのではないのだろうか。
まあ、小説を楽しむことにおいて、作者の真の意図などどうでもよいことなのだが...。
小説のストーリーとは直接関係ないことで気になることもある。
タマルが牛河を拷問しているときに、ユングの言葉を繰り返させる。
ユングが湖畔に自ら建てた石の家に刻んだという「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」という言葉だ。
この言葉が妙に気になる。
拷問している最中という場面を考えると、心理学者の生活のことを持ち出すなど不自然だ。けれど、この言葉は何度も同じ章に出てくる。
『1Q84』は現代の宗教をひとつの題材にしており、神、生、死などを考える上でキーとなる言葉のつもりなのだろうか。
音楽ではBOOK1・2と同じようにヤナーチェックのシンフォニエッタが出てくる。
牛河がバスタブで聴くシベリウスのバイオリン協奏曲は、ちょっと風呂場に合わないと思うがどうなのだろう。
けれどきっとCDで買う人が増える。
こういう小技を入れるのも村上春樹の小説がベストセラーになるひとつの要素なのだろう。
そういえば、小説にでてくる料理や音楽を研究した本も出ているらしい。
小説を読む楽しさとはあまり関係ないと思うが、村上春樹の小説が100万部も売れるのはいろんな要素が詰まっていて、いろんな楽しみ方ができるからなのだ。
世界はそれでいいのだ。
タイトルに死神が付いているがホラー小説ではない。
どちらかというと喜劇である。
死ぬことが予定されている人間について、死神組織から送られてきた死神がその人間は死ぬべきかどうかを調査して組織に報告する。そういう場面設定で6つの話が綴られている。
この設定自体が面白い。死神というフィルターを通すと人間の奇妙な面が見えてくる。人間観察の鋭い伊坂幸太郎によく合う舞台のつくりかたとも言える。
短編集であるが、この配列されている順序で読むと長編としても味わえる。
電車を待つプラットフォーム、病院の待合室などで少しずつ読んだが、その度にまわりに死神の世界が訪れ、不思議な感じだった。
伊坂幸太郎の作品で何が一番面白いかと聞かれれば、この小説をあげるだろう。全部知っているわけではないので、少し無責任ではあるが。
人間は全部知らないのに知っている振りをする。そして言い訳をする、と死神なら言うだろう。
どちらかというと喜劇である。
死ぬことが予定されている人間について、死神組織から送られてきた死神がその人間は死ぬべきかどうかを調査して組織に報告する。そういう場面設定で6つの話が綴られている。
この設定自体が面白い。死神というフィルターを通すと人間の奇妙な面が見えてくる。人間観察の鋭い伊坂幸太郎によく合う舞台のつくりかたとも言える。
短編集であるが、この配列されている順序で読むと長編としても味わえる。
電車を待つプラットフォーム、病院の待合室などで少しずつ読んだが、その度にまわりに死神の世界が訪れ、不思議な感じだった。
伊坂幸太郎の作品で何が一番面白いかと聞かれれば、この小説をあげるだろう。全部知っているわけではないので、少し無責任ではあるが。
人間は全部知らないのに知っている振りをする。そして言い訳をする、と死神なら言うだろう。
『1Q84』は、メッセージがややこしく、難しい漢字が多く使われている。それにストーリーは現実離れしている。
作者はジョージ・オーウェルの『1984年』を包み込むような寓意小説を描きたいのだろうと、読みながら思った。「ビッグブラザー」、「思考犯罪」など『1984年』のキー概念が『1Q84』の登場人物の言葉として挿入されている。『1984年』の最も重要な概念は「ダブル・シンク(二重思考)」だと思うが、その言葉は出てこない。1984年と1Q84年という設定自身が新たなダブル・シンクを意味しているのかもしれない。
『1Q84』のキー概念は「リトル・ピープル」だ。
1970年代の左翼運動に関わったある元・大学教員と学生の集団は行き場を失って、田舎にある農業コミューンに合流する。そこで、農業のノウハウを覚えて独立し、新たな農業コミューンをつくる。有機農法で作った農作物を都会に売ったりして、その共同体は発展する。元・大学教員はその共同体の指導者としての地位を築くが、共同体は運営上の対立から武闘派と穏健派に分かれる。その元・大学教員は多数派であった穏健派のリーダーを続けながら、武闘派への教育も続けることになる。武闘派は銃などでの武装を進めるが、あるときひょんなことから警察との銃撃戦になり、その後壊滅する。一方、穏健派は宗教法人の組織に鞍替えし、勢力を拡大する。
左翼組織から農業コミューンに、そして宗教団体へという胡散臭い組織の変遷とは別に、リーダーは本物の教祖になっていた。
あるとき目の見えない山羊の世話をしていたリーダーの10歳の娘が、その山羊を死なせてしまった。娘はその罰に死んだ山羊と一緒に小屋に閉じこめられた。その時、山羊を媒介にしてリトル・ピープルがこっちの世界にやってきた。その娘は感受性が強く、娘が世界の有り様を感じ、リトル・ピープルを連れてくることができた。父親であるリーダーがリトル・ピープルの受け手となった。娘をパシヴァ(感じ手)、リーダーをレシヴァ(受け手)と表している。それからリーダーには超能力と超常現象を引き起こす力が備わった。
「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」
とリーダーは言っている。
娘は共同体を逃れて、リーダーの昔の友人に引きとられた。その娘が17歳になったときに考え、作家志望の天吾がリライトした小説『空気さなぎ』がベストセラーになる。それはリトル・ピープルをテーマに描いているが、リトル・ピープルの存在を社会に広めるという意味で反リトル・ピープル作用になった。
性虐待の加害者を人知れず葬る役割を果たしていた青豆が宗教団体のリーダーを葬ることになる。それには天吾と青豆の10歳の頃の純愛が作用した。青豆は天吾を助けるために、自分の未来と引き替えにリーダーの命を絶つ。
しかし、リーダーの死は終わりであり、始まりである。
ジョージ・オーウェルはナチスに代表されるファシズムが終わった後、スターリニズムに象徴される全体主義が支配する世界を寓話的に描いた。
民族主義から社会主義への思想の変化とは関係のなく、ひとつの社会が支配・被支配の構図で始まり、終わることをモチーフにしていた。ビッグブラザーは何でも見ており、歴史は書き換えられる。支配される者には「ダブル・シンク」が要求される。というより人々は自らの生存のために「ダブル・シンク」の術を身につける。
左翼組織から農業コミューンに、そして宗教団体というのは日本社会の主流に対する反主流の潮流であり、作者はそれが社会の均衡を保っていたという感覚なのだろう。社会の恥部とされる大量殺戮を行ったカルト教団もある方向に向かう社会の反作用として生まれたものであり、カルト教団の逸脱的な行為に対してはまたその補償作用が生まれる。
「ものごとの脆弱な部分が一番最初に狙われることになる」
とリーダーは言っている。
作用と反作用のなかで犠牲になるのは脆弱な部分である。
この小説のなかで、「さきがけ」「あけぼの」という組織は、オウム真理教、ヤマギシ会、エホバの証人、性虐待を行う宗教団体、連合赤軍の過激派などを部分的に彷彿とさせる。そういう胡散臭い団体が成立する時代にわれわれは生きていることをあらためて感じる。
何が善であり、何が悪であるのかわかりにくいし、時間と場所でその役割は変わる。
希望を持つのは極めて難しいし、その出口を求めることは「死」を意味する。
でも人は生きていく。歴史は誰にも書き換えられない。10歳の純愛の記憶がその後の生きる糧になることもある。その人がその人であるための記憶を支える大事な歴史なのだから。
人は一人で二つの人生を歩むことはできない。アインシュタインでなくてもそれくらいはわかる。でも違う人生があったんじゃないかとふと思う。
素晴らしいかどうかは別として、これが自分の人生なんだといつも思うことが大事なのだ。それが事実でSFの世界には生きられないのだから。
この小説はそういう陳腐であるが大事な真実をあらためて教えてくれる。
難解なメッセージと難しい漢字の表現。『1Q84』にはこの表現方法が一番合っているのかもしれない。
この小説にはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』がたびたび出てくる。
青豆が聴いたのと同じようにジョージ・セル指揮、クリーヴランド管弦楽団のCDで聴いたが、それが何を意味したのかわからない。天吾は小沢征爾指揮、シカゴ交響楽団で聴いていた。
第一次大戦後、ナチスが登場するまでのチェコ。実際に聴いてみると、冒頭のファンファーレは東欧の民族主義的な雰囲気とすがすがしさを持っている。平和な体育大会で演奏されるにふさわしい曲であったことは間違いないと思う。その音楽で天吾と青豆がつながっていたという設定も納得してしまう。
売れるか売れないか、完成度が高いか高くないかは別にして、『1Q84』は村上春樹にしか描けない小説だと思う。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだときに味わった感動には及ばなかった。けれどそれは自分が歳をとったことにも関係しているのだろう。村上春樹のせいばかりではない。
いずれにせよ『1Q84』は村上春樹の作品のなかでは好きな長編小説になるだろう。
作者はジョージ・オーウェルの『1984年』を包み込むような寓意小説を描きたいのだろうと、読みながら思った。「ビッグブラザー」、「思考犯罪」など『1984年』のキー概念が『1Q84』の登場人物の言葉として挿入されている。『1984年』の最も重要な概念は「ダブル・シンク(二重思考)」だと思うが、その言葉は出てこない。1984年と1Q84年という設定自身が新たなダブル・シンクを意味しているのかもしれない。
『1Q84』のキー概念は「リトル・ピープル」だ。
1970年代の左翼運動に関わったある元・大学教員と学生の集団は行き場を失って、田舎にある農業コミューンに合流する。そこで、農業のノウハウを覚えて独立し、新たな農業コミューンをつくる。有機農法で作った農作物を都会に売ったりして、その共同体は発展する。元・大学教員はその共同体の指導者としての地位を築くが、共同体は運営上の対立から武闘派と穏健派に分かれる。その元・大学教員は多数派であった穏健派のリーダーを続けながら、武闘派への教育も続けることになる。武闘派は銃などでの武装を進めるが、あるときひょんなことから警察との銃撃戦になり、その後壊滅する。一方、穏健派は宗教法人の組織に鞍替えし、勢力を拡大する。
左翼組織から農業コミューンに、そして宗教団体へという胡散臭い組織の変遷とは別に、リーダーは本物の教祖になっていた。
あるとき目の見えない山羊の世話をしていたリーダーの10歳の娘が、その山羊を死なせてしまった。娘はその罰に死んだ山羊と一緒に小屋に閉じこめられた。その時、山羊を媒介にしてリトル・ピープルがこっちの世界にやってきた。その娘は感受性が強く、娘が世界の有り様を感じ、リトル・ピープルを連れてくることができた。父親であるリーダーがリトル・ピープルの受け手となった。娘をパシヴァ(感じ手)、リーダーをレシヴァ(受け手)と表している。それからリーダーには超能力と超常現象を引き起こす力が備わった。
「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」
とリーダーは言っている。
娘は共同体を逃れて、リーダーの昔の友人に引きとられた。その娘が17歳になったときに考え、作家志望の天吾がリライトした小説『空気さなぎ』がベストセラーになる。それはリトル・ピープルをテーマに描いているが、リトル・ピープルの存在を社会に広めるという意味で反リトル・ピープル作用になった。
性虐待の加害者を人知れず葬る役割を果たしていた青豆が宗教団体のリーダーを葬ることになる。それには天吾と青豆の10歳の頃の純愛が作用した。青豆は天吾を助けるために、自分の未来と引き替えにリーダーの命を絶つ。
しかし、リーダーの死は終わりであり、始まりである。
ジョージ・オーウェルはナチスに代表されるファシズムが終わった後、スターリニズムに象徴される全体主義が支配する世界を寓話的に描いた。
民族主義から社会主義への思想の変化とは関係のなく、ひとつの社会が支配・被支配の構図で始まり、終わることをモチーフにしていた。ビッグブラザーは何でも見ており、歴史は書き換えられる。支配される者には「ダブル・シンク」が要求される。というより人々は自らの生存のために「ダブル・シンク」の術を身につける。
左翼組織から農業コミューンに、そして宗教団体というのは日本社会の主流に対する反主流の潮流であり、作者はそれが社会の均衡を保っていたという感覚なのだろう。社会の恥部とされる大量殺戮を行ったカルト教団もある方向に向かう社会の反作用として生まれたものであり、カルト教団の逸脱的な行為に対してはまたその補償作用が生まれる。
「ものごとの脆弱な部分が一番最初に狙われることになる」
とリーダーは言っている。
作用と反作用のなかで犠牲になるのは脆弱な部分である。
この小説のなかで、「さきがけ」「あけぼの」という組織は、オウム真理教、ヤマギシ会、エホバの証人、性虐待を行う宗教団体、連合赤軍の過激派などを部分的に彷彿とさせる。そういう胡散臭い団体が成立する時代にわれわれは生きていることをあらためて感じる。
何が善であり、何が悪であるのかわかりにくいし、時間と場所でその役割は変わる。
希望を持つのは極めて難しいし、その出口を求めることは「死」を意味する。
でも人は生きていく。歴史は誰にも書き換えられない。10歳の純愛の記憶がその後の生きる糧になることもある。その人がその人であるための記憶を支える大事な歴史なのだから。
人は一人で二つの人生を歩むことはできない。アインシュタインでなくてもそれくらいはわかる。でも違う人生があったんじゃないかとふと思う。
素晴らしいかどうかは別として、これが自分の人生なんだといつも思うことが大事なのだ。それが事実でSFの世界には生きられないのだから。
この小説はそういう陳腐であるが大事な真実をあらためて教えてくれる。
難解なメッセージと難しい漢字の表現。『1Q84』にはこの表現方法が一番合っているのかもしれない。
この小説にはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』がたびたび出てくる。
青豆が聴いたのと同じようにジョージ・セル指揮、クリーヴランド管弦楽団のCDで聴いたが、それが何を意味したのかわからない。天吾は小沢征爾指揮、シカゴ交響楽団で聴いていた。
第一次大戦後、ナチスが登場するまでのチェコ。実際に聴いてみると、冒頭のファンファーレは東欧の民族主義的な雰囲気とすがすがしさを持っている。平和な体育大会で演奏されるにふさわしい曲であったことは間違いないと思う。その音楽で天吾と青豆がつながっていたという設定も納得してしまう。
売れるか売れないか、完成度が高いか高くないかは別にして、『1Q84』は村上春樹にしか描けない小説だと思う。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだときに味わった感動には及ばなかった。けれどそれは自分が歳をとったことにも関係しているのだろう。村上春樹のせいばかりではない。
いずれにせよ『1Q84』は村上春樹の作品のなかでは好きな長編小説になるだろう。
陽気でおもしろい小説だ。しめっぽさがない。
けれどどこかで聞いたようなストーリーだなあとよく考えたら、『オーシャンズ11』である。あのシリーズの4人組版なのだ。
登場人物はみんな個性的で魅力的。
毒にも薬にもならない話だが、自閉症やいじめ、記憶と時間の話題が散りばめられていて、なんかただの強盗の話だけでもないような気にもなる。
この小説が売れ続ける理由もなんとなくわかる。
けれどどこかで聞いたようなストーリーだなあとよく考えたら、『オーシャンズ11』である。あのシリーズの4人組版なのだ。
登場人物はみんな個性的で魅力的。
毒にも薬にもならない話だが、自閉症やいじめ、記憶と時間の話題が散りばめられていて、なんかただの強盗の話だけでもないような気にもなる。
この小説が売れ続ける理由もなんとなくわかる。
とても不思議な小説だ。世の中で何が大事で何が大事でないかもよくわからない。
題名になっている「オーデュボンの祈り」とは何か。
『アメリカの鳥類』という画集を描いたジェームズ・オーデュボンの祈りがこの小説のテーマのようでもある。人類によって絶滅に追い込まれる旅行鳩の運命について、ただ祈るだけしかできないのが、「オーデュボンの祈り」のようだ。この小説で人類が絶命に追い込む生物やモノの不条理を訴えかけたかったとも思えない。
鎖国をした離島に、欠けている大切なものは何か。それは同時に情報があふれる都会で気づかない大切なものでもあることを描きたかったのか。
でもこの小説にテーマがあるのかどうかもよくわからない。
作者はこれまでにないジャンルの面白い小説を書きたかっただけなのかもしれない。
確かに面白い小説ではある。
犯人捜しのミステリー的な要素も強い小説なので、また読みたくなるかはわからないが。
題名になっている「オーデュボンの祈り」とは何か。
『アメリカの鳥類』という画集を描いたジェームズ・オーデュボンの祈りがこの小説のテーマのようでもある。人類によって絶滅に追い込まれる旅行鳩の運命について、ただ祈るだけしかできないのが、「オーデュボンの祈り」のようだ。この小説で人類が絶命に追い込む生物やモノの不条理を訴えかけたかったとも思えない。
鎖国をした離島に、欠けている大切なものは何か。それは同時に情報があふれる都会で気づかない大切なものでもあることを描きたかったのか。
でもこの小説にテーマがあるのかどうかもよくわからない。
作者はこれまでにないジャンルの面白い小説を書きたかっただけなのかもしれない。
確かに面白い小説ではある。
犯人捜しのミステリー的な要素も強い小説なので、また読みたくなるかはわからないが。
読むには結構楽しめる。
けれど小説のテーマは凄いのに消化しきれなかったようだ。
『魔王』で独特の雰囲気を作っていたのに続編というこの小説はあまりにも惜しい。
これはマンガで連載したために一回ごとの盛り上がりを作らなければいけなかったせいだろうか。ちょっと遊びの表現が多すぎるような気がする。
漫画本の連載には向いていないテーマなのかもしれない。
余計な登場人物や事件を削ってすっきりしたらもっとよい小説になっていたと、素人ながらに思う。本当にもったいない。
この人の小説を初めてハードカバーで買ったのに二度と買うまい。
けれど小説のテーマは凄いのに消化しきれなかったようだ。
『魔王』で独特の雰囲気を作っていたのに続編というこの小説はあまりにも惜しい。
これはマンガで連載したために一回ごとの盛り上がりを作らなければいけなかったせいだろうか。ちょっと遊びの表現が多すぎるような気がする。
漫画本の連載には向いていないテーマなのかもしれない。
余計な登場人物や事件を削ってすっきりしたらもっとよい小説になっていたと、素人ながらに思う。本当にもったいない。
この人の小説を初めてハードカバーで買ったのに二度と買うまい。