たぶん、30年ぶりくらいに読んだ。
いつも気になっていたテーマ。
文庫になったのは1984年だ。
このなかの「事実とは何か」というエッセイが書かれたのは1968年となっている。
50年も前の文章なんだ。
でも書かれていることは今読んでも頷ける。
絶対的事実というものは存在しない。
主観的事実こそ本当の事実である。
私たちは表現するときにすべての事実から選択する。
E=H=カーの言った「歴史的意味という点から見た選択の過程」
ここで「歴史的意味」を「報道」に変えてもよい。
報道という点から見た意味ある事実の選択をする。
その事実により読者に筆者の主張を伝える。
このときに「米帝国主義者どもは・・・」という表現を使うと説得力は逆に弱まる。
主観的事実を選ぶ目を支えるものは記者の世界観。
「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、
ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」
報道における事実と表現とは
表現の目標を「正確な全体的事実」としての本質におくと、次の式になる。
部分的事実 + 想像 = 本質
報道は、部分的事実と想像がはっきり分けられる。
小説はこれらが混然一体となっている。
しかし、表現の手法に進化はあったとしても、客観的事実などないというのは、今も昔も、これからも同じだろう。
本多氏はベトナム戦争に従軍し、アメリカ側、解放戦線側のどちらも取材した。
「ジャーナリストは支配される側に立つ」というのは、そこから得た事実に対する考えなのだろう。
旧日本軍に従軍した記者に会うと、「戦場の村」について「戦争とはそんなものだ」という感想を述べる人が多かったとか。
最前線で兵士が殺し合う戦争の場面を見たとしても、アメリカ軍の従軍記者としての視点でその場面を見るのと、解放戦線の側で取材するのでは違う。侵略戦争には侵略する側とされる側しかしない。その取材をするということは、自ずからどちらかの視点になるという。
ジャーナリストの本来の仕事について、本多氏が支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、と言い切るのはそういう時代的な背景もあるのだろう。
ハルバースタムの著書をアメリカ側としての限界を指摘しながら、アメリカの権力を批判するジャーナリズムとしてもその姿勢を高く評価する。
おそらくこれは第4の権力としてのメディアの役割を自覚しているからだろう。
いつも気になっていたテーマ。
文庫になったのは1984年だ。
このなかの「事実とは何か」というエッセイが書かれたのは1968年となっている。
50年も前の文章なんだ。
でも書かれていることは今読んでも頷ける。
絶対的事実というものは存在しない。
主観的事実こそ本当の事実である。
私たちは表現するときにすべての事実から選択する。
E=H=カーの言った「歴史的意味という点から見た選択の過程」
ここで「歴史的意味」を「報道」に変えてもよい。
報道という点から見た意味ある事実の選択をする。
その事実により読者に筆者の主張を伝える。
このときに「米帝国主義者どもは・・・」という表現を使うと説得力は逆に弱まる。
主観的事実を選ぶ目を支えるものは記者の世界観。
「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、
ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」
報道における事実と表現とは
表現の目標を「正確な全体的事実」としての本質におくと、次の式になる。
部分的事実 + 想像 = 本質
報道は、部分的事実と想像がはっきり分けられる。
小説はこれらが混然一体となっている。
しかし、表現の手法に進化はあったとしても、客観的事実などないというのは、今も昔も、これからも同じだろう。
本多氏はベトナム戦争に従軍し、アメリカ側、解放戦線側のどちらも取材した。
「ジャーナリストは支配される側に立つ」というのは、そこから得た事実に対する考えなのだろう。
旧日本軍に従軍した記者に会うと、「戦場の村」について「戦争とはそんなものだ」という感想を述べる人が多かったとか。
最前線で兵士が殺し合う戦争の場面を見たとしても、アメリカ軍の従軍記者としての視点でその場面を見るのと、解放戦線の側で取材するのでは違う。侵略戦争には侵略する側とされる側しかしない。その取材をするということは、自ずからどちらかの視点になるという。
ジャーナリストの本来の仕事について、本多氏が支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、と言い切るのはそういう時代的な背景もあるのだろう。
ハルバースタムの著書をアメリカ側としての限界を指摘しながら、アメリカの権力を批判するジャーナリズムとしてもその姿勢を高く評価する。
おそらくこれは第4の権力としてのメディアの役割を自覚しているからだろう。