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お気楽ビジネス・モード

ビジネスライフを楽しくする知恵や方法を紹介する

伊東明『ほめる技術、しかる作法』PHP新書

2010-10-12 23:04:53 | 人間関係学
「しかる」だけの、いわば恐怖政治を敷いているような職場の中で、スタッフから自由な発想を引き出そうと思っても無理な話である。しかし、「ほめる」は実践していても「しかる」を実践していない職場では緊張感が欠け、スタッフの間に緩みが生じるため、向上心が低下して成長が止まってしまう。

こういう記述を読むと、なるほどと思う。


いくら「ほめ上手」「しかり上手」でも、仕事のスキルが備わっていないリーダーは部下から信頼されない。仕事のスキルとコミュニケーションのスキルが両方備わって初めて人を動かすことが出来る。


ますます、なるほどと思う。

アメリカは「しかる」というよりコンフリクト・マネジメント・スキルというテーマが主流だそうだ。コンフリクト・マネジメント・スキルでは意見の対立や衝突が表面化したときに、お互いが率直に意見を言い合える環境を形成しつつ、コミュニケーションを通じて問題解決をはかる。「しかる」スキルではなく、「主張する」スキルという違いがあるのだ。

「ほめる」ことは難しいが、「しかる」ことも確かに難しい。
しかる作法で参考になることがいくつか書かれている。

「しかる」基準を自分のなかにつくっておく。これによって、気分で部下をしかったりすることは少なくなるし、部下もどういうことをすればしかられるのかがわかる。

しかり方には3つのモードがあり、「怒りモード」「冷静モード」「優しいモード」があり、相手により状況により、また自分のキャラクターによって使い分けることとよいらしい。

上手なしかり方。

・まず、相手の言い分を聞く
・相手の性格でなく、行動をしかる
・しかるときは1体1が原則
・しかることによって、考えさせ成長させる

最後にしかられる作法まで書いてある。


人格批判さえも成長の糧にできる。

逆説的な教訓だ。要するに、「この人は部下を冷静にしかることもできないんだ」とメタ認知するのだそうだ。


薄い本だが、案外気づかない上司・部下の関係の大事なことが書かれている。ささやかだけれど、ためになる本。

秋山をね『社会責任投資とは何か』生産性出版

2010-10-11 20:40:14 | 経済・金融
著者はE・F・ハットンやリーマンブラザーズなどでトレーダーを務めた。その後、ウォールストリートの短期利益のみを追求する投資のあり方を疑問に思って、日本でCSR格付けに基づく社会責任投資(SRI)のための調査会社・インテグレックスを立ち上げる。

この志の高さにまず敬服する。

この本は2003年に出版されているので、大和証券がインテグレックスの調査をもとにファンドを立ち上げるのはこの後である。

インテグレックスはCSRをアンケート調査で数量化しているが、これは欧米のやり方とほぼ同じようだ。それで社会的価値を測れるのか疑問の部分もあるが、年々改良されているようだ。

もともと酒、たばこ、ギャンブルに関係する企業に投資しないというキリスト教会の価値観がもとでネガティブリストとして始まったSRI。今では労働条件、環境対策から動物実験まで多岐にわたる評価項目がある。

インテグレックスの主張するように誠実な会社こそが長期的な価値がある会社だとすると、この投資基準は投資家にとって利益があるものかもしれない。

インテグレックスは大和証券のファンドの後も取引ファンドを増やしているようだが、まだまだヨーロッパのように投資家に浸透はしていないようだ。イギリスでは1997年に英国大学退職年金基金の運用に対して大学教員がキャンペーンを展開して広がったらしい。

日本の年金基金でそんな志の高いところがあれば広がるかもしれない。

巌+日経CSRプロジェクト編『CSR 企業価値をどう高めるか』日本経済新聞社

2010-10-11 20:21:34 | マネジメント・ガバナンス
2004年に出版された本なので情報は少し古いが、日本のCSRに関わる主要なテーマや人物が登場している。

最も面白かったのは、第4章CSRを担う人々だ。

資生堂の田中万里子さんは、小室淑恵さんが取り組んでいた育児休業者の職場復帰を支援するインターネットプログラムを利用したことからCSR部の男女共同参画グループに関わるようになる。大和証券の高岡亮治氏は秋山をねさんが始めたインテグレックスのCSR調査をもとにしたSRIファンドを立ち上げる。

そのほか東京海上火災の自動車版フライトレコーダで事故を減らす活動、富士ゼロックスの環境に配慮したエコ・ソフト、三井物産の排出権プロジェクトなど。CSRというとメセナやフィランソロピーなどの活動を思い起こしがちだが、企業活動全般に関わっているようだ。

伊藤邦雄教授はCSR活動はステークホルダーにとってコーポレートブランドの魅力を高めることになること、社員のリスク意識・感度を高め、ブランドリスクを低減する効果があると述べている。統計調査でも環境経営を行っている企業のβは低くなることを示している。

企業価値というとフリーキャッシュフローの総和と加重平均資本コストの割り算で計算しがちだが、CSR活動が企業価値に影響するというのは面白い。エンロンやワールドコム、雪印乳業や吉兆の事件を考えると、フリーキャッシュフローとWACCの計算にブランドリスクを入れ込むべきだと思う。

斎藤広達『図解MBA的発想人 課長力養成講座』パンローリング

2010-10-11 20:19:23 | 仕事術
アマゾンの古本で1円だったが、わざわざ買うほどの本ではない。

MBAと課長がなぜむすびつくのか? という本書の冒頭の問いに、あとがきでMBAは管理職が身につけることを前提にプログラムが設計されているから、というばかばかしい答えがあった。MBAでは考えるトレーニングがされているのはその通りだと思う。だが、10分くらいで読めてしまうこの本をMBA取得者が書いていると言うこと自体がMBAの効用が疑われるだろう。


山岸俊男『社会的ジレンマ』ちくま新書

2010-10-11 13:56:33 | 組織・組織行動
社会心理学者による囚人のジレンマの様々な実験結果から、社会的ジレンマをどう解決できるのかを問う意欲的なテーマの本。

著者は社会的ジレンマを次のように定義している。

①一人ひとりの人間が協力行動か非協力行動のどちらかを取る。
②そして、一人ひとりの人間にとっては、協力行動よりも非協力行動を取る方が、望ましい結果を得ることが出来る。
③しかし、全員が自分にとって個人的に有利な非協力行動を取ると、全員が協力行動を取った場合よりも、誰にとっても望ましくない結果が生まれてしまう。逆に言えば、全員が自分個人にとっては不利な協力行動を取れば、全員が非協力行動を取っている場合よりも、誰にとっても望ましい結果が生まれる。

囚人のジレンマ実験を何回か繰り返すときに、最も得をする行動は「応報戦略」というもの。相手に協力的な行動または非協力的な行動をとり続けるより、相手が行動したことを後追いでまねをしてほうが、結局得をする。

しかし、かしこい合理主義ばかりが得をするわけではない。

たとえば、囚人のジレンマの応用実験をゲーム理論を理解している研究者と感情で動く学生を被験者にしてみると、結果として学生のほうが得をするという結果が出たらしい。最初の被験者の行動結果を次の被験者に知らせてから、どう行動するかを判断させたのだ。そのことから、損得勘定で合理主義的に動く者より、「みんなが協力するなら自分も協力する」というような一見非合理主義に見える行動が実は得をするという結果になった。

山岸氏はこれを「みんなが」状況と呼んでいる。

いじめについての研究で、みんなの半分以上がいじめに抵抗するなら、自分も抵抗するという実験結果もあるそうだ。「みんなが」状況というのは、「寄らば大樹の陰」的に思えるが、実は世の中をよくするかしこい適応なのだそうだ。

また、感情は非合理主義的な行動と捉えられているが、感情的な行動が得をする場合があることも示している。詳しくは、著者が訳したロバート・フランク『オデッセウスの鎖 適応プログラムとしての感情』を読めとのこと。

清水真木『これが教養だ』新潮新書

2010-10-11 13:38:08 | 高等教育
この本は今話題になっている教養教育の議論に対して、かなり挑発的で過激な内容だ。

しかし、あまり過激に感じないのは、文体が「ございます」調で書かれ、上品とも、人を小馬鹿にしているとも受け取れる印象を与えているせいだろう。「教養」といううさんくさいテーマを論じるのは難しい。とくに日本において学生の教養教育が複雑な変遷をたどっている事情もあり、下手な意見をいうといろんなところから袋だたきにされる可能性もある。

この本の著者は現在の議論に一石を投じているようにも思う。

そもそも学生が人格を形成する上で教養は大切で、教養は古典を読むことによって身に付けるのが一般的だと考えられている。日本の大学では戦後、アメリカ型の教育システムが導入された。教育システムとして、幅広い学問分野を学んで、そこから専門を選び深く学ぶという意味で、教養教育から専門教育への積み上げ型がになっていた。しかし、それが有効には機能せず、学生からは意味のわからない抽象的な科目は面白くもないし、役にも立たないので「パンキョー」と侮蔑された呼称がつけられていた。大学の中でも専門教育に携わる教員と、パンキョーに関わる教員とでは、教授会等で微妙な優劣関係ができた。

これには専門教育の教員が演習や卒業研究を担当し、学生と親密な関係が出来ることに比べて、一般教育担当の教員は大教室で学生とは距離感があったことも遠因だろう。1992年には文部科学省が一般教育の教育効果に疑問を持ったことが背景となり、専門と教養の壁を取り払う法改正が行われ、一般教育科目の設置の有無は原則的には各大学にゆだねられた。これが実際には教養科目を減少させたり、外国語をなくしたりする教養教育の崩壊につながり、学生の狭い視野、時事問題への無関心、働く意欲の喪失、海外留学などの減少につながったとの危機意識が生まれた。文部科学省は、学術会議にこの課題を丸投げして、現在教養教育の再構築構想が検討させている。

この本では、教養について、彼女や奥さんから「仕事を取るのか私を取るのかはっきりして!」と言われたときにどのように対応できるのかで教養が問われるのだと言っている。つまり、教養の定義を、ハバーマス言う生活圏の区分「公共圏」「私有圏」「親密圏」のなかでそれぞれの行動を統合して整理できる能力としている。

公共圏=市民社会の中でみんなで解決すべき範囲
私有圏=私生活の中の労働に関する範囲
親密圏=    〃 家庭に関する範囲
教養=公共圏と私生活圏を統合する生活の能力

3つの区分での「自分らしさ」を追求することが現実の問題に対処する教養を身につけることだという。
こういう視点だから加藤周一が教養ある人間の代表のように捉えられることにも疑問を呈するし、教養=古典を読むという考え方も根本から問い直す。

古典という考え方は、紀元前1世紀のローマで言文不一致が起きたときに、書き言葉を純化させる手本として生まれたもので、昔は読む行為より文体の手本とされていたらしい。それが中世のルネサンス期を経て、ナポレオン時代のヨーロッパでは教養は実学を重視するための教育としたのに対して、フンボルトのドイツでは人間形成=古典を読むという流れになったらしい。19世紀以降の大学では、アメリカのリベラル・アーツから専門教育への方向とヨーロッパの大学での人間形成のための教養という方向に変遷していったようだ。

では、ハバーマスの区分した公共圏、私有圏、親密圏の境目が曖昧になりつつある現代の市民社会の中で、教養はどうなるのだろうか。著者の考えから推測すると、「教養ある人間」という考え方は消滅するが、3つの区分が曖昧になりつつも、なおかつ残るこの区分間で起きる問題を解決できる人間こそ「教養ある人間」に変わる理想的な人間ということらしい。公共圏、私有圏、親密圏での「自分らしさ」。教養という概念をそのように定義し直すと大学での教養教育もまた違った編成になるかもしれない。