突然ですが
私は「そんな(悪い)ことすると、バチがあたるよっ!!」
という言い方は、嫌いです
私たちが信じている神さまは、
そんなに簡単に『罰』を与えたりはしない
世の中で起こっている災いと名のつくものには
それが起こる「理由」なんてナイ
大事なのは、起こってしまったことに対して、
『自分がそれをどう捉えるか、どう応えていくか?』
のほうだから
受け取り方によっては、
災いをもプラスの力に変えていける
その力も、ちゃんと持っているはずなんだから。
「何故か??」と言う問いには、
「それを通して学んで欲しかったことがあったから。」という
答えがちゃんとあるんだろうけど、
それがどうして、今、アタシに!?ってところは‥
たぶん、生きている間には、その答えが知らされることは
ナイんでしょう
つまり。
実のところは、何か理由はあるんだとは思うんです
でも、その答えは「何か悪いことをした罰」ばかりではないはず。
だから、起こってしまったことに
「~~がいけなかった?」「~~してれば‥」と
くよくよしたり、その理由を探したりすることにエネルギーを注ぐより、
それでも毎日を元気に楽しく歩き続けることのほうに
より多くのエネルギーを注ぐ努力をするほうが、ずっと有益‥じゃない??
そう思っているから
「アンタは、~~しなかったから、今、このような災いが起こっている。」
のような言い方をする『先祖の祟り』的なハナシには、
‥それってどうよ!?と思ってしまいます。
仮に、あの世から、大事な我が子やその子どもたちを眺められたとして。
「自分のことをないがいしろにしたから」という理由で、
現世に生きている、大事な子どもたちを苦しめる、だなんて。
そんなこと、する??
私だったら、絶対にしないけどな??ねぇ?
それはともかく
基本的に「悪いことをする→バチがあたる」という
単純な図式ってのは、ナイと思ってんねんけどね
しっかし。実は実は
子どもの頃から思ってたことなんやけど
自分が良くないココロの状態にあるときって、
面白いくらい、「イテっ」っていう目に遭うのよ。
それは、足の小指を角にぶつけただの、
指を引き出しにはさんだだの、ほんの些細な「イテっ」
ではあるんだけど。
その痛みで、自分が良くない状態にあることを
改めて思い出して、ちょっと反省しちゃうのよね
これはきっと、神さまから「コラっ」って言われたんだ、って
子どもの頃から、そう思ってきてました
‥‥ってことを
昨日、ヤツらにイっライラしながらたこ焼きを焼いていて、
そのたこ焼き器の縁で、腕に2回も火傷をして、
思い出したのでありました
それでさらに思い出したのは
ある人のブログで読んだ文章。
その人は
>スパンはそれぞれですが、自分のしたことは必ず帰ってきます。
と考えてはるひとです。さらに。
>「パイプ」が詰まっている人ほどスパンは長く、
通っている人のスパンは限りなく短いようです。
だから、「悪いことしているのに、全然罰があたらない」人は
かえって怖いんですよ。
善人ほど、良いことも悪いことも、直ぐ反動が帰ってくる。
これは本当は“喜ばしい”ことなのです。 ‥だと。
その人の考えでは。
自分と自分を守ってくれる存在の間には「パイプ」があり。
善い心で楽しく過ごしていると、パイプはよく通っている。
その逆だと、パイプは詰ってくる‥のだと。
なるほどね
パイプが詰っていると「守ってくれるもの」からの声も
聞こえにくい訳よね
なんだかねぇ、すごく↑納得できる説だったのよね
っとすると
痛い目に遭うのも、喜んじゃえ~ってことかな??
長くなりついでに
「そんしてとくとれ」という記事を書くのに、いろいろ調べていて見つけたこのお話も。
ここにメモっておこうと思います
『たらいの水の原理』(例話)、二宮尊徳翁の有名な話です。
たらいに入った水を、
全部自分のほうに寄せようとすると、
自分のところまで来たと思ったら、
手前の縁に当たって、
すぐに 縁伝いに自分から離れていく
水を相手側に送ると、
相手側の縁に当たった水が
縁伝いに波に揺られて
自分のほうに集まる
水を相手側に送り続ければその波は止まらない。
相手が笑顔になることを、
誰かが笑顔になることを、続けていれば、
それはやがて
大きなものになって自分に返ってくる。
「他が生かされる道は、我が生きる道なり」
『バチがあたるから、悪いことはしない』
‥そんな消極的な理由で、善を求めるよりも、
善が「善であるから」こそ、求めていきたい‥
そんなふうに、改めて思ったのでありました
私は「そんな(悪い)ことすると、バチがあたるよっ!!」
という言い方は、嫌いです
私たちが信じている神さまは、
そんなに簡単に『罰』を与えたりはしない
世の中で起こっている災いと名のつくものには
それが起こる「理由」なんてナイ
大事なのは、起こってしまったことに対して、
『自分がそれをどう捉えるか、どう応えていくか?』
のほうだから
受け取り方によっては、
災いをもプラスの力に変えていける
その力も、ちゃんと持っているはずなんだから。
「何故か??」と言う問いには、
「それを通して学んで欲しかったことがあったから。」という
答えがちゃんとあるんだろうけど、
それがどうして、今、アタシに!?ってところは‥
たぶん、生きている間には、その答えが知らされることは
ナイんでしょう
つまり。
実のところは、何か理由はあるんだとは思うんです
でも、その答えは「何か悪いことをした罰」ばかりではないはず。
だから、起こってしまったことに
「~~がいけなかった?」「~~してれば‥」と
くよくよしたり、その理由を探したりすることにエネルギーを注ぐより、
それでも毎日を元気に楽しく歩き続けることのほうに
より多くのエネルギーを注ぐ努力をするほうが、ずっと有益‥じゃない??
そう思っているから
「アンタは、~~しなかったから、今、このような災いが起こっている。」
のような言い方をする『先祖の祟り』的なハナシには、
‥それってどうよ!?と思ってしまいます。
仮に、あの世から、大事な我が子やその子どもたちを眺められたとして。
「自分のことをないがいしろにしたから」という理由で、
現世に生きている、大事な子どもたちを苦しめる、だなんて。
そんなこと、する??
私だったら、絶対にしないけどな??ねぇ?
それはともかく
基本的に「悪いことをする→バチがあたる」という
単純な図式ってのは、ナイと思ってんねんけどね
しっかし。実は実は
子どもの頃から思ってたことなんやけど
自分が良くないココロの状態にあるときって、
面白いくらい、「イテっ」っていう目に遭うのよ。
それは、足の小指を角にぶつけただの、
指を引き出しにはさんだだの、ほんの些細な「イテっ」
ではあるんだけど。
その痛みで、自分が良くない状態にあることを
改めて思い出して、ちょっと反省しちゃうのよね
これはきっと、神さまから「コラっ」って言われたんだ、って
子どもの頃から、そう思ってきてました
‥‥ってことを
昨日、ヤツらにイっライラしながらたこ焼きを焼いていて、
そのたこ焼き器の縁で、腕に2回も火傷をして、
思い出したのでありました
それでさらに思い出したのは
ある人のブログで読んだ文章。
その人は
>スパンはそれぞれですが、自分のしたことは必ず帰ってきます。
と考えてはるひとです。さらに。
>「パイプ」が詰まっている人ほどスパンは長く、
通っている人のスパンは限りなく短いようです。
だから、「悪いことしているのに、全然罰があたらない」人は
かえって怖いんですよ。
善人ほど、良いことも悪いことも、直ぐ反動が帰ってくる。
これは本当は“喜ばしい”ことなのです。 ‥だと。
その人の考えでは。
自分と自分を守ってくれる存在の間には「パイプ」があり。
善い心で楽しく過ごしていると、パイプはよく通っている。
その逆だと、パイプは詰ってくる‥のだと。
なるほどね
パイプが詰っていると「守ってくれるもの」からの声も
聞こえにくい訳よね
なんだかねぇ、すごく↑納得できる説だったのよね
っとすると
痛い目に遭うのも、喜んじゃえ~ってことかな??
長くなりついでに
「そんしてとくとれ」という記事を書くのに、いろいろ調べていて見つけたこのお話も。
ここにメモっておこうと思います
『たらいの水の原理』(例話)、二宮尊徳翁の有名な話です。
たらいに入った水を、
全部自分のほうに寄せようとすると、
自分のところまで来たと思ったら、
手前の縁に当たって、
すぐに 縁伝いに自分から離れていく
水を相手側に送ると、
相手側の縁に当たった水が
縁伝いに波に揺られて
自分のほうに集まる
水を相手側に送り続ければその波は止まらない。
相手が笑顔になることを、
誰かが笑顔になることを、続けていれば、
それはやがて
大きなものになって自分に返ってくる。
「他が生かされる道は、我が生きる道なり」
『バチがあたるから、悪いことはしない』
‥そんな消極的な理由で、善を求めるよりも、
善が「善であるから」こそ、求めていきたい‥
そんなふうに、改めて思ったのでありました