阿部ブログ

日々思うこと

大元帥日誌 その3 八甲田の彷徨

2016年01月16日 | 雑感
明治35年1月23日
早朝、第8師団歩兵第5歩兵聯隊第2大隊第5中隊中隊長・神成文吉大尉の指揮にて冬季雪中行軍に出発。目的地は八甲田山。この中隊規模の行軍部隊には、第2大隊長の山口少佐と臨時移動大隊が随行した。陣容は、山口大隊長と神成大尉を含む将校9名、軍医1名、見習士官2名、特務曹長4名、下士官兵194名、臨時移動大隊本部16名の総勢210名。中隊規模での行軍編成だが、199名が死亡すると言う大惨事となった。
この同じ時期に八甲田冬季行軍は、弘前第31聯隊も行っている。指揮官は、第31歩兵聯隊第1大隊第2中隊長の福島泰造大尉で、38名の八甲田冬季行軍部隊は無事に青森に到着している。
福島大尉は、明治36年10月に、第32歩兵聯隊第10中隊長として山形に転任。その後、日露戦争に従軍し、「黒溝台の会戦」で戦死。敵中に突撃しての壮烈なる戦闘死であった。享年38歳で、八甲田から3年目のことである。
後に、大元帥の弟とされる、秩父宮が第31聯隊第3大隊長として昭和10年8月に着任。翌昭和11年2月26日の事件発生に際しては、直ちに上京し、翌27日には大元帥に面会している。

皇太子の嘉仁は、青森第5聯隊の死の彷徨を聞いて漢詩を詠んだ。

   聞青森聯隊慘事(青森聯隊の惨事を聞く)

衝寒踊躍試行軍(極寒を衝いて意気軒昂、行軍を試みる)
雪満山中路不分(雪は八甲田山に満ち満ち、行軍路が分からない)
凍死体言是徒事(しかし、彼らの死は、単なる凍死ではない)
比他戦陣立功動(彼らの死は第一線での戦功ある死と同じである)

踊躍という言葉は、詩経に見えるが、報徳記にも「速やかに斯に従事せんと踊躍して邑に帰り」とある。
この詩は、後に大元帥となる嘉仁の軍に対する考え、態度が行間に読める。軍の近代化と合理的な訓練・装備が必要であるとの認識を深め、そして確信した。これが大正政変の伏線となる。

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