阿部ブログ

日々思うこと

日本の原爆開発~朝鮮のウラン資源~

2016年01月11日 | 雑感

日本の原爆開発は謎に包まれている。通信傍受と暗号解読に従事した特種情報部など日本軍の枢秘に関わる部隊の全貌は明かされる事ががない。保坂正康の『日本 原爆開発秘録」は、ドイツの原爆開発と同じで開発を断念したと言うステレオタイプだが、それは言わずもがなだ。ドイツのUボートが日本に運んだのは、従来言われている酸化ウランではなく、U235である。理由はウラン自体は、朝鮮で採掘可能だからドイツからの移送は必要ないのだ。

日本の原爆開発で語られない事実がある。植民地・朝鮮でのウラン資源開発である。朝鮮黄海道菊根鉱山のフェルグソン鉱にはウラン8.4%が含有されている事は、朝鮮総督府地質調査所の調査で明らかになっていた。また昭和9年、大同江、清川江からトリウムや希土類を含むモナザイト鉱(モナズ石)が大量に賦存している事が判明。原爆開発促進の為、昭和19年、閉山していた海月面の菊根鉱山を軍の支援を受けて理研が再開発に着手。終戦後、仁川の理研プラントで発見された3トンのフェルグソン鉱はこれだ。この年の末には、マレー半島から錫の残渣アマン4500トンが神戸に到着している。
理研は、大正11年からウラン資源探査を行っており、植民地・朝鮮では、大きな河川の河床砂には、モナザイト鉱やサマルスキー鉱(最大20%のウランを含有する)が含まれる事を知っていた。それで朝鮮半島各地から黒砂を収集し、仁川、豊基、西氷庫(理研朝鮮工業所の3箇所に選鉱場を設けて、黒砂、河床海浜砂を精選していた。本格的は調査は昭和14年からで外金剛面の海岸での探査、昭和16年、京城郊外の漢江の砂床(黒砂)を10万坪分を試掘探査、昭和17年、東南海岸線の襄陽邑から浦項邑に至る砂床調査、昭和18年、洛東江上流の砂床調査、昭和19年、そして黄海道延白郡の菊根鉱山の再開発に至っている。
結局、理研が朝鮮で集めたウラン資源は、黒砂1200トン、ジルコンとモナザイト鉱(酸化トリウム含有10%)20トン、フェルグソン(酸化ウラン4%)3トン、米国カルノー鉱100トン、触媒用銅ウラン合金10トン、若干の満州国ユークセン鉱などだ。
理研は、朝鮮で4つのジルコン、モナザイト鉱山を運営し、採掘された鉱石は、ソウルにある朝鮮工業振興会社で分離された後、仁川の理研希元素工場に送られた。軍の命令で理研は、黒砂を1942年に142トン、1943年489トン、1944年から終戦まで800トンを本土の理研に送り届けている。結果として酸化ウラン300kgを生成しているが、現実はもっと多いのだろう。

これが、冒頭に申し述べたドイツから危険を冒しての酸化ウラン輸送は不要であった理由である。輸送するならばU235でなくてはならない。

※過去ブログ:長崎の秘密~原爆の目標はカトリック&浦上天主堂、そして日本の原爆開発~

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