阿部ブログ

日々思うこと

中野学校の天皇批判講義

2016年03月26日 | 雑感
石川敦著の『中野学校』には天皇を批判する講義が書かれており、興味深い内容なので転載してみる。

「貴様達は、人間を信ずることは出来んぞ。つねに独りぼっちだ。暗い寂しさを耐えるためには、何かひとつ、心に決めた信念がなくてはならぬが、それは何だ?」
つねの部隊なら、「天皇陛下に捧ぐるいのち」と叩きこまれてきた日本の軍隊の合言葉があった。
「戦陣訓」「軍人勅諭」も、軍人の極限に、ひとつの目標を与えていた。だが、軍人として、とともに、軍人でない世界でいのちを賭ける男の魂は、さらに強く胸を揺さぶるもの、そして心の拠りところを求めていた。
「貴様達には、極東の民族解放を、という大義が与えられている。三三の歌では、確かに命を君に捧げる、と謳っているが、われわれは断じて天皇のために死の道を選んだのではない!これから、万世一系などと云われてきた天皇制が、どれほど時の権力者にとって都合よく出来ていたか、また、天皇家そのものも、百二十四代のあいだ、神代からの字句通り純血を保存できたかどうかの謎を批判させてやる」
伊部少佐の狙いが「学生たちが幅広い常識を持ち、批判力を備えた男になって欲しい」というスパイ型から抜けだした人物造成にあったことは、一同はっきりと了解していた。

かつて、忍術教官を批判した萩田秀章を、凄まじい私刑でつるしあげた熊沢少尉たち指導学生も、今は進んで、一般には禁じられた天皇批判に加わっている。
日本書紀、神皇正統記、大鏡、水鏡などの古典を読めば読むほど、古い日本の歴史が、天皇家の血肉の争闘を中心に動いてきたことを知らされた。時として、子が親を殺し、兄妹相姦するかと思えば、父の妾と結ばれた子もいる。兄と弟が、互いに殺し合うだけでなく、敗れた肉親の子、妾まで、ひとり残らず処刑してしまった残忍さも、実は皇位の虚名にしがみつきたい皇族と、その皇位にある者を利用して権力をもてあそぶ貴族との私欲がからみ合って織りなされた、ひとこまだった。
「天皇家の血筋が疑われる文献のなかで、もっとも有力なものは看聞御記だが、その内容はこうだ」
史学教官の剣持実衛は、こともなげに云ってのけたが、この重大な、しかもはじめて聞く秘史に、学生一同は血走った眼を向けてじっと耳を傾けた。
「第八十八代後嵯峨天皇の皇子は、八十九代後深草天皇と、九十代亀山天皇となって、ともに皇位を継ぎ、その後この皇統は、後深草帝の持明院統と、亀山帝の大覚寺統に分かれたが、しかし、変わるがわる皇位を継いだ。九十一代後宇多(大覚寺統、亀山帝の子)、九十二代伏見(持明院統、後宇多帝の子)、九十三代後伏見(持明院統、伏見帝の子)、九十四代後二条(大覚寺統、後宇多帝の子)、九十五代花園(持明院統、伏見帝の子)を経て九十六代後醍醐(大覚寺統、後宇多帝の子)のとき、南北朝分立の不幸な悲劇が起こったのだ」
「その後、足利幕府に擁立された北朝(持明院統)は、光厳、光明、崇光、後光厳、後円融の各天皇を経ていくのだが、いっぽう吉野の山奥深くのがれた南朝も、神器を奉じて正統を名のりつつ、後村上、長慶、後亀山と、後醍醐帝から数えて四代を経るが、この五十七年間に、足利幕府も尊氏から三代目の義満になっていて、もはや天皇親政などの理想は通用しなくなっていた。歴史の流れは人民を戦乱に倦ませ、群集の平和を求める希望には逆らえなかっただけではない。これまでの貴族政治にかわる武家政治に、人々が新しい夢を託しだした。その結果が幕府の基礎を、しっかりと固めさせたのだ」
「そのころの南朝は、新田義貞や北畠親房、楠木などの主だった武士も、ほとんど足利幕府のため滅ぼされてしまい、存立も危うくなってきていた。後亀山帝は、幕府の申し入れてきた北朝との合一を認め、後円融帝の皇子後小松帝に譲位されたんだが、後小松帝のあとは南朝の皇子に位をつがせる、というのが将軍義満と後亀山天皇の約束だった。しかし実は、この後小松帝こそ、義満が後円融帝の中宮、藤原康子を奪って生ませた子なのだから、約束はまったくの嘘でかためた反古証文だったわけだ。足利義満は、はじめから持明院統、大覚寺統が、替るかわる皇位につくなど考えてもいなかったんだ。この経過を詳しく述べているのが、宮内省図書寮に厳重保管してある”看聞御記”だ。応永二十三年から書きはじめて、文安五年に完成したこの日記は、宮中の雑事から市中の噂までとりあげていて、筆者が伏見宮貞成親王であることは、およそ三十年間の記録という意味からも、皇室の秘史になっている。また、この貞成自身皇族でもなんでもなくて、義満が妾に生ませた長男だった、と告白しているのだ。つまり彼は、異腹の弟後小松帝の一代あとへ自分の子、後花園帝を据え、同時に、今は用のなくなった北朝の血筋を絶つためか、応永二十三年十一月、北朝三代目の崇光帝の子で、系図上は実父に当る栄仁親王を毒殺してしまった」
「しかもなお彼は、北朝の血一滴も遺すまいとするかのような狂暴さで、栄仁親王の実子(系図の上では貞成自身の弟に当たる)治仁王はじめ、その弟三人も、夜討ちにかけて殺してしまった。これよりさき義満は、後円融帝に対して”太政大臣に叙任しろ”と強制した時、こんなことも云っているんだ。”天皇はわれの立つるところなり、もしわが意に反しなば廃せんのみ”。もしわれ即位するといえど、誰がこの企てを阻止できるや”とな。そして、この伏見宮貞成親王、とみずから名のった足利義満の実子と、後小松天皇と称した、かって天皇の妾だった女の腹から生れた義満の妾腹の子が、いまの天皇家なのだ」
「天皇というものは、いつの時代でも、強い力を持つ権力者たちに利用されるだけの職名なのだ。内閣総理大臣が政治に失敗しても、天皇があれば、そこへ辞表を出すだけで責任は逃れられる。枢密院も、陸海軍もそうだ。天皇は責任を免れない。しかしまた天皇は現人神なのだから、責任を負われる必要などまったくない。天皇制とは、このように、むかしも今も、調法なものなんだ。それでも貴様達は、天皇のためにいのちを捧げる、と云いきれるか」
剣持教官の話が一段落したとき、そこにひらかれた新しい、別の世界をのぞいた学生たちは、しわぶきひとつたてらなかった。腰を落とした教場に、身動きも忘れてすくんでいた。
権力を維持するために、そして政治の形態が封建制度のなかで行われるかぎり、将軍と老中、若年寄、大名などのかたちをとった徳川幕府も、同じことをやってきたのに違いない。剣持教官はさらにつづけた。
「俺達は、天皇のためには死なない!民族解放こそ、われらの求める悠久の大義だ。先例は、かってこの学校を巣立った先輩たちの戦訓を見れば、すぐ理解できる。しっかりしろ、諸君こそ、次代の日本の礎になる男たちなのだ!」

さて、中野学校の三三の歌を記する。

赤き心で断じて成せば
骨も砕けよ内また折れよ
 君に捧げて微笑む男児

いらむは手柄 浮雲の如き
意気に感ぜし人生こそは
 神よ与えよ万難吾に

大義を求めて感激の日々
仁をもとめてああ仁得たり
 アジアの求むはこの俺達よ

丈なす墓も小鳥のすみか
埋もれし骨をモンスーンにのせて
 散る世界のすべてが墓だ

丈夫生くるに念忠ありて
闇夜を照らす巨燈を得れば
 更に要ぜじ他念おあるを

南船北馬今吾れは行く
母と別れて海越えて行く
 友よ 兄等と何時また会わん
 友よ 兄等と何時また会わん

中野学校で精神教育を担当した吉原政巳の『中野学校教育 一教官の回想』にも、
「マスコミに喧伝されるように「中野学校には、天皇批判の自由があった。」というのは、天皇の権威を笠に着て、物言うという悪習がないことを、いうのであろう。この様な他国民・異民族に通用するわけがない。われわれは、天皇の「おおやけ(公)」性に没入し、ここに蘇り来る魂の醇厚さをもって、他民族の中に入ってゆくのだ。強盛な私心を離れる難しさを、忠なるまことの道に克服してゆくのだ。これが中野学校の精神の中核であった。」とある。

孝明天皇と睦仁親王の殺害の風聞は有名で、大正天皇には子種が無かったとの話も伝わっているが、『看聞御記』をもとにした中野学校の天皇批判は強烈だ。「秘密戦は誠なり」という中野学校の精神は、このような自由精神の上に築かれているのだ。