フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

作業進行中

2011-03-03 23:22:55 | research
3月に入ったが、今年の冬はなかなか手強い。

大学に行ったり行かなかったりしながら、進行中のプロジェクトのための作業や執筆を続けている。

他の人の論文にはたくさん口を出せるのだけど、自分のものとなると七転八倒ですね。でも例のGoffmanのfootingについて多少分析が可能になった気がする。丁寧な説明が出来ないけれど、とりあえず覚え書き。

この概念はなかなか一筋縄でいかないもので、まずどのレベルにfootingを捉えるかがどうしても揺れてしまう。会話の役割を果たす中で、非優先的な応答やコードスイッチングなどのリソースが使われると、そこに話題に対して距離を取ったり、優位な立場を選んだりするといった参加者の姿勢が分析できるのだが、それが相手との位置調整としてのfootingでは、非関与の立場や言語ホストの立場を示すことになる、というふうに、言語リソースのレベルから、参加者の姿勢、相手との位置調整としてのfootingと、3つのレベルを渡っていかないと、footingまで行き着かない。しかも、非関与のfootingが社会的に何を意味するのかというふうにまだ先がある。つまり非関与と言っても、それが相手への配慮に基づくのか批判に向かっているのかは、参加者の歴史からしかわからない。(すみません、例もなくて)

木村護朗クリストフ先生から論文集『言語意識と社会』(三元社)をいただく。昨年の夏に草稿を読ませていただいたもの。立派な装丁でちょっとまぶしい。これからじっくり読みたいところ。

さて、以前から同僚のMさんが韓国では入試のカンニングがいくらでもあって問題なのに、日本ではほんとになくて不思議ですねと言っていたのだが、日本も例外ではなかったようだ。ぼくも昨年は入試の仕事をしていたので人ごとではない。ただ、彼が個人としてやったことはカンニング以上でも以下でもない。試験とカンニングはおそらく2000年前から切っても切れない関係にあるわけで、手法が新しかったというに止まる。大騒ぎがどうも腑に落ちないのだけど、大学としてはちゃんと入試監督をするというに尽きるのではないか?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« オルガ・トカルチュク 小椋... | トップ | 外国人のための地震情報:Som... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

research」カテゴリの最新記事