礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

外務大臣の意見に賛成である(昭和天皇)

2024-08-01 01:17:46 | コラムと名言

◎外務大臣の意見に賛成である(昭和天皇)

 松本重治『昭和史への一証言』(毎日新聞社、1986)を紹介している。本日、紹介するのは、第七章「太平洋戦争時代の暗い日々」のうちの「ポツダム宣言を受諾」の節である。

   ポツダム宣言を受諾

 ―― 終戦工作を日本はソ連に頼み、失敗したわけですが、先ほどお話のあったスターリンの日本非難演説といい、時間の問題となった日本敗戦のあと、領土問題などでどう獅子の分け前にありつくかを考えていることは見えすいたはずです。なぜ、日本はソ連だけに期待をかけたのでしょうか。スイスとか、スウェーデン、ローマ法王庁といった、頼むに足る相手がほかにもいたのではないか、といぶかしく思うのです。
 松本 当時の日本には頼もうにももはや頼みがいのある国はなかったのです。ヨーロッパでは、ドイツはほとんど全部の国を敵国に回してしまっていました。これは、という中立国はソ連しかなかったのです。ソ連との間には中立条約がありますからね。ソ連に和平あっせんを頼むということでは、陸軍には抵抗がありませんでした。日本に対して無条件降伏を要求しているアメリカに、直接、和平を申し入れるという考えは通らなかったのです。
 そのころ、アメリカはソ連にいつ日本に対し参戦するのか、と何回となく督促していました。これに対して、ソ連は日本との間に中立条約があることをタテにとって、それ以上の理由づけをアメリカが一札書いてくれるなら参戦しやすい、ということを答えています。アメリカからソ連に出した文書は、用心深く書かれていますが、それをソ連は利用して、アメリカ側がソ連に対日開戦を提案したことを対日宣戦の理由にあげ、宣戦布告の中でも、そういうことを書いています。
 ―― そのポツダム直言ですが、日本政府はこれを黙殺することを決定した、と新聞で大々的に報道されました。それが不用意にも「イグノア」(ignore) と訳されて、アメリカ側は日本はポツダム宣言をやみくもに拒否したと受けとめました。「イグノア」とは、黙殺という言葉のもつ、いわくいいがたいニュアンスを無視した、粗放な訳ですが、結果は、トルーマンの原子爆弾使用の釈明、ソ連の対日参戦の理由に、ポツダム宣言拒否が使われました。
 松本 ポツダム直言が出されたあと、最高戦争指導会議で、海軍軍令部総長の永野(修身)はポツダム宣言が不都合だという大号令を出さなければ士気にかかわるというので、東郷〔茂徳〕らがこれをおさえ、閣議でも、ポツダム宣言に対する正式の態度は、しばらくソ連の出方を見定めたうえで決めることにし、政府としてはこのさい、なんら意思表示をしない、新聞ではポツダム宣言をなるべく小さく扱うようにさせることなどを決めました。ところが、その後、軍部からポツダム宣言を拒否すべきだ、という意見が出、陸海相と陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が鈴木〔貫太郎〕首相をまじえて協議し、鈴木は軍部強硬派の意見に動かされて、記者会見で、ポツダム直言を黙殺することに決めた、と述べたのです。
 ―― 広島と長崎に原子爆弾が投下され、ソ連が参戦――いよいよ敗戦です。
 松本 原子爆弾が投下され、ソ連が参戦してからも、陸軍は本土焦土作戦をとって抗戦するという態度を改めず、陸相や参謀総長は終戦論の東郷や海相の米内〔光政〕の意見を聞かず、鈴木にねじこんでいたようです。八月九日の御前会議でも議論がまとまらず、鈴木はご聖断をあおぎたい、と天皇さまに申し上げた。天皇さまは、外務大臣の意見に賛成である、といわれました。鈴木は東郷と組んで大役をやったのです。
 一四日に最後の御前会議があり、天皇さまは終戦に反対の陸相、参謀総長、軍令部総長の意見を順に聞かれたあと、ポツダム宣言受諾の決意を述べられたのです。

注1 カイロ宣言 一九四三年一一月二七日、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の米英中三首脳がカイロで会談した後、対日軍事行動と日本の領土処分に関する態度を表明した宣言。三国には領土拡張の意思はないとし、朝鮮の独立、日本の無条件降伏、満洲や台湾などの中国への返還、第一次大戦後日本が奪った太平洋諸島の放棄を求めている。これらの実施はポツダム宣言で再確認された。〈163~165ページ〉

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