礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「終戦の詔書」の放送が理解できなかった人々

2024-08-03 00:08:53 | コラムと名言

◎「終戦の詔書」の放送が理解できなかった人々

 当ブログでは、先月9日から今月2日にかけて、田辺聖子、つださうきち、木戸孝彦、夏堀正元、小松左京、大佛次郎、松本重治といった人々の「敗戦体験」を紹介した。
 この中で、個人的に印象に残ったのは、小松左京の敗戦体験であった。小松左京とその級友は、勤労動員先の工場で、「玉音放送」を聞いたが、引率していた教員の「聞きまちがえ」に誘導され、この放送を、「敗戦」を伝えるものとして受けとることができなかった。級友の中には、放送の内容を正しく理解できた者もいたが、その級友は、教員から「聞きまちがえ」を責められ、激しく殴打された。
「玉音放送」の内容が理解できなかった、その内容を誤解した、という話はよく聞くが、そうしたことは、実際にあったようだ。
 当ブログを初めて間もないころ私は、〝「終戦の詔書」の放送は理解できなかったという伝説〟という記事を書き(2012・11・16)、その中で、次のように述べた。

 この日の放送は、正午の時報に続いて、和田信賢〈ワダ・シンケン〉放送員から、「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立を願います」というアナウンスがあった。このあと、内閣情報局の下村宏総裁から、「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも〈カシコクモ〉御自ら〈オンミズカラ〉大詔〈オオミコトノリ〉を宣らせ給う〈ノラセタマウ〉う事になりました。これよりつつしみて玉音をお送り申します」という言葉があり、さらに君が代の演奏。そしてレコード盤による「詔書」の放送となった。
 このあと、もう一度、君が代が流れ、さらに、下村総裁によって、「謹みて天皇陛下の玉音放送を終ります」と告げられた(以後、この「玉音放送」という呼称が定着することになる)。
 さらに、和田放送員が、「謹んで詔書を奉読いたします」と述べて、「詔書」全文を奉読。「謹んで詔書の奉読を終ります」と結んだ。
 放送はこれで終了したわけでなかった。以上に続いて、「内閣告諭」、「終戦決定の御前会議の模様」、「交換外交文書の要旨」、「ポツダム宣言受託となった経緯」、「ポツダム宣言の全文」などが報じられたという。
 すなわち、この放送が聞き取れた場合においては、また、放送を最後までシッカリ聞いた場合においては、「意味が理解できなかった」ということは絶対にありえないのである。レコード盤による玉音放送そのものは、たしかに理解しにくかったかもしれないが、和田信賢放送員による奉読もあり、さらに、「ポツダム宣言受託となった経緯」なども説明されていることを忘れてはならない。何よりも、東京大空襲、ポツダム宣言、新型爆弾、ソ連参戦などの状況を見れば、この日の重大放送が、「敗戦」を告げるものであろうということは、多くの国民にとって、容易に予想のつくことだったはずなのである(この点は、鴨下信一氏も強調するところである)。

 このうち、〝この放送が聞き取れた場合においては、また、放送を最後までシッカリ聞いた場合においては、「意味が理解できなかった」ということは絶対にありえないのである〟という部分(下線部分)は、訂正する必要があろう。すなわち、この放送が聞き取れた場合においても、また、放送を最後までシッカリ聞いた場合においても、なおかつ「放送を理解できなかった」人々が、一定数、存在したと考えなければならない。この場合、その人々が、放送を理解できなかった理由は、ただひとつ。「日本が敗けることなどありえない」という思い込みである。

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