礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

私の引請の民法は不運でございます(箕作麟祥)

2024-08-07 00:35:57 | コラムと名言

◎私の引請の民法は不運でございます(箕作麟祥)

 大槻文彦『箕作麟祥君伝』から、箕作麟祥の「一代記」を紹介している。本日は、その四回目。

明治九年になりまして、大木〔喬任〕君が、司法卿になられました、其時、民法の草案を編纂して見るが宜い、と云ふことで、一人の相手と粗末ながら草案を作りましたが、それも、其侭〈ソノママ〉になりました、併し、今日から見れば、其侭になりましたのが、幸ひであつて、若し、それが行はれたら、それこそ大変でありませう、それから、明治十二年になりまして、司法省で、民法会議が始まりました、其時には、もう「ボアソナード」先生が、来て居られまして、「ボアソナード」先生の草案のを議することになりました、続いて、十三年に、政府で、民法編纂局と云ふものを置かれました、即ち、大木司法卿が、編纂の総裁になられ、其草案は、「ボアソナード」先生が起されて、出来る度〈タビ〉に、会議を開きました、大木君初め、私共で、審議を致しました、それで、明治十九年、即ち、昨年まで、凡そ〈オヨソ〉、一千条を議し了りました、其前に、刑法、治罪法は、「ボアソナード」先生の作られました草案に拠て、審議を経、鶴田君、名村君等の骨折で十五年に、布告になりました、日本の人民は、此刑法、治罪法のお蔭を蒙つて居ります、又、外国でも、随分評判がありますが、なぜか、私の引請〈ヒキウケ〉の民法は、不運でございます、尤も、民法は、数千条の条数でありますから、刑法、治罪法、に追越されても、仕方が無いが、議し了つたことだけは、政府から布告される都合になるだらう、と思ひましたが、其中に、政府の改革で、民法編纂局も、やめられて仕舞ひました、(遺憾)それで、民法を上奏したきりで、民法編纂局は廃されました、其後、司法省に、民法草案編纂局を置かれたさうでありますが、是れは、私の一代記には関係はありませぬ、
それから、民法一千条は、元老院に下付されました、私は、本家本元の方でありますから、賛成をしましたところが、一条々々に議することは、出来ないと云ふので、調査委員と云ふものを置かれました、私も調査委員に選ばれました、ところが、数月間で、それもやめられました、只今では、外務省に、法律取調局と云ふ所がありまして、其処に、法律のタツマキが出来て居りますが、此民法も、そこに参つて居ります、私も、其委員であるから、すばらしい委員の一人でございます、(喝采)今度は、多分行はれませう、況や「ボアソナード」先生の尽力された立派なものだから,今度こそは、行はれませう、【以下、次回】

 鶴田君とあるのは、鶴田皓(つるた・あきら、1836~1888)のことである。鶴田は、明治期の法制官僚で、1869年(明治2)に、「新律綱領」の編纂にあたったことで知られる。1887年(明治20)に、明治法律学校の名誉校員となるが、翌1888年(明治21)に死去。

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