◎「首なし事件」とは、どういう事件か
映画『首』(東宝、1968)は、戦中の1944年(昭和19)1月、茨城県で起きた、いわゆる「首なし事件」を映画化したもので、原作は、正木ひろし著『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964)である。
では、「首なし事件」とは、どういう事件か。正木ひろしの同書を、少しずつ引いてゆくことで、その説明に替えたい。本日は、第1章「運命の事件まいこむ」の第1節「警察の留置場で怪死」の前半を引用する。
〈1〉 警察の留置場で怪死
聞いてくれ、殺されたらしい
昭和十九年一月二十四日の昼すぎ。わたしは第二東京弁護士会館にいました。食堂に行こうと立ち上がったところへ、「近きより」の印刷所主、松村保から電話がありました。電話に出てみると、茨城県の炭鉱の現場主任が、土地の警察に留置され、そのまま脳溢血で死んだというのだが、殺された疑いがあるといって、現地の責任者が、東京にいる佐藤勝子という同氏が懇意にしている鉱主のところに報告に来た、というのです。「鉱主の佐藤さんが、どうしたらいいのかわからないといって、いま相談に来ているのですが、至急、会ってやっていただけないでしょうか。」
わたしはすぐ、弁護士会館に来てもらうことにしました。
炭鉱主と現場所長の話
佐藤勝子というのは、モンペをはき、四十五歳ぐらいの、小柄で日やけした顔に利口そうな目をもつ、いなかのおばさんといった感じの人でした。いっしょに来た現地の所長は氏家〔庄次郎〕といい、もと佐藤家に出入りしていた商店主だったという四十がらみの気の強そうな男です。
鉱主佐藤勝子と氏家所長の話を要約するとこういうことになります。
――怪死したのは、大槻徹(四十六歳)というもので、妻子を福島県永盛町〈ナガモリマチ〉に置き、長倉の炭鉱へ出かせぎに来ていた。かれは郷里の親戚の結婚式のために、一月十五日に帰省し、二十日の夕方、御前山〈ゴゼンヤマ〉駅に着き、駅前で一杯やり、そこに預けておいた自転車で五キロ走り、長倉村の宿舎まで帰ってきたが、かれの帰りを待ち構えていた駐在所の長洲巡査がやってきて、大槻をせき立て、十二キロ以上離れたところにある大宮警察署まで自転車で連行し、留置場に入れた。逮捕の表面の理由は、一月九日の晩に、坑夫たち四人が、ある坑夫の家に集まってやった花札賭博に、大槻も加わっていたということだった。ところが、留置してから中一日おいた二十二日の早朝、長洲巡査が、氏家の宿直していた炭鉱事務所にやってきて、大槻が脳溢血を起こして死亡したから、すぐ死体を引き取りに来るようにと伝えた。――
県境の亜炭地帯、長倉村
長倉村は茨城県の西北、栃木県に接している高原地帯にあって、戸数二、三百の小さな村です。地図で見ると、ちょうど茨城県の水戸市と栃木県の宇都宮市とを勅選で結んだその中央あたりになります。村の南を那珂川が流れています。交通はひどく不便で、水郡線常陸大宮駅から約十二キロ、私鉄茨城交通線の終駅「御前山駅」から約五キロの川上にあります。
この村の地層の中から、亜炭というカロリーの低い石炭が出ます。平和時代には、亜炭などだれも問題にしなかったのですが、戦争が続いて、燃料がひどく乏しくなった昭和十七、八年ごろには、こんな交通不便なところの亜炭までが掘り出されることになりました。
村には、亜炭を掘り出す炭坑が数か所あり、佐藤勝子の加最【かさい】商会は、その中の二坑をまえの持ち主から買い、昭和十七年の秋から経営していました。その他の炭坑は、倉橋四郎という人を鉱主に、倉橋炭鉱と称し、加最炭鉱よりすこしまえからやっていました。〈26~28ページ〉
1944年(昭和19)1月22日早朝、茨城県大宮警察署に留置されていた加最炭鉱の現場主任・大槻徹が変死した。この変死事件の真相を明らかにすべく、正木ひろし弁護士(1896~1975)が、国家権力と対峙した事件を「首なし事件」という。なぜ、「首なし事件」と呼ばれたのかという説明は、何回かあとになろう。
映画『首』(東宝、1968)は、戦中の1944年(昭和19)1月、茨城県で起きた、いわゆる「首なし事件」を映画化したもので、原作は、正木ひろし著『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964)である。
では、「首なし事件」とは、どういう事件か。正木ひろしの同書を、少しずつ引いてゆくことで、その説明に替えたい。本日は、第1章「運命の事件まいこむ」の第1節「警察の留置場で怪死」の前半を引用する。
〈1〉 警察の留置場で怪死
聞いてくれ、殺されたらしい
昭和十九年一月二十四日の昼すぎ。わたしは第二東京弁護士会館にいました。食堂に行こうと立ち上がったところへ、「近きより」の印刷所主、松村保から電話がありました。電話に出てみると、茨城県の炭鉱の現場主任が、土地の警察に留置され、そのまま脳溢血で死んだというのだが、殺された疑いがあるといって、現地の責任者が、東京にいる佐藤勝子という同氏が懇意にしている鉱主のところに報告に来た、というのです。「鉱主の佐藤さんが、どうしたらいいのかわからないといって、いま相談に来ているのですが、至急、会ってやっていただけないでしょうか。」
わたしはすぐ、弁護士会館に来てもらうことにしました。
炭鉱主と現場所長の話
佐藤勝子というのは、モンペをはき、四十五歳ぐらいの、小柄で日やけした顔に利口そうな目をもつ、いなかのおばさんといった感じの人でした。いっしょに来た現地の所長は氏家〔庄次郎〕といい、もと佐藤家に出入りしていた商店主だったという四十がらみの気の強そうな男です。
鉱主佐藤勝子と氏家所長の話を要約するとこういうことになります。
――怪死したのは、大槻徹(四十六歳)というもので、妻子を福島県永盛町〈ナガモリマチ〉に置き、長倉の炭鉱へ出かせぎに来ていた。かれは郷里の親戚の結婚式のために、一月十五日に帰省し、二十日の夕方、御前山〈ゴゼンヤマ〉駅に着き、駅前で一杯やり、そこに預けておいた自転車で五キロ走り、長倉村の宿舎まで帰ってきたが、かれの帰りを待ち構えていた駐在所の長洲巡査がやってきて、大槻をせき立て、十二キロ以上離れたところにある大宮警察署まで自転車で連行し、留置場に入れた。逮捕の表面の理由は、一月九日の晩に、坑夫たち四人が、ある坑夫の家に集まってやった花札賭博に、大槻も加わっていたということだった。ところが、留置してから中一日おいた二十二日の早朝、長洲巡査が、氏家の宿直していた炭鉱事務所にやってきて、大槻が脳溢血を起こして死亡したから、すぐ死体を引き取りに来るようにと伝えた。――
県境の亜炭地帯、長倉村
長倉村は茨城県の西北、栃木県に接している高原地帯にあって、戸数二、三百の小さな村です。地図で見ると、ちょうど茨城県の水戸市と栃木県の宇都宮市とを勅選で結んだその中央あたりになります。村の南を那珂川が流れています。交通はひどく不便で、水郡線常陸大宮駅から約十二キロ、私鉄茨城交通線の終駅「御前山駅」から約五キロの川上にあります。
この村の地層の中から、亜炭というカロリーの低い石炭が出ます。平和時代には、亜炭などだれも問題にしなかったのですが、戦争が続いて、燃料がひどく乏しくなった昭和十七、八年ごろには、こんな交通不便なところの亜炭までが掘り出されることになりました。
村には、亜炭を掘り出す炭坑が数か所あり、佐藤勝子の加最【かさい】商会は、その中の二坑をまえの持ち主から買い、昭和十七年の秋から経営していました。その他の炭坑は、倉橋四郎という人を鉱主に、倉橋炭鉱と称し、加最炭鉱よりすこしまえからやっていました。〈26~28ページ〉
1944年(昭和19)1月22日早朝、茨城県大宮警察署に留置されていた加最炭鉱の現場主任・大槻徹が変死した。この変死事件の真相を明らかにすべく、正木ひろし弁護士(1896~1975)が、国家権力と対峙した事件を「首なし事件」という。なぜ、「首なし事件」と呼ばれたのかという説明は、何回かあとになろう。
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