礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

一兵も残さぬ国にわれ生きむとは(河上肇)

2024-08-12 01:47:30 | コラムと名言

◎一兵も残さぬ国にわれ生きむとは(河上肇)

 末川博『真実の勝利』(勁草書房、1948)から、「河上の辞世と終戦」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 終戦。『思ひきやげに思ひきや一兵も残さぬ国にわれ生きむとは』また『急変を好めるさがのわがためにうれしきかぎり世は急変す』これこそまさに河上の心からなる声であつたらう。終戦後約一ケ月たつた頃河上の宅で私と二人会食したことがある。直接私に関することを語るのは何だか気がひけるけれども、次に河上の遺したその日の日記を録してみよう。『九月十三日(木)曇。無事に今日に来りたるを内祝せんとて、末川と心ばかりの祝賀会を催す。末川弁当持参。……食後に手製の菓子紅茶など出だす。物質的には甚だあはれなる小宴なれども、今日の日を心から百パーセントまで喜びたる相手は末川をおいて他になく、精神的には最上の祝賀会を催したりとて喜ぶ。午前十一時より午後三時まで。いさゝか疲労を覚えしも微熱にてすむ』その折に語りあつたことなどは、またの機会にゆづるであらうが、『運よくて物一つ焼けず怪我もせず戦やめるけふの日にあふ』とて、京都が幸に戦災を免れ得たこどなどをきつかけに、往きし日来む日の様をいろいろと回顧しまた展望したのである。
 歴史の急激な大転換。河上の身辺にも新な世界が急転直下の勢で展開し始めた。新聞やラジオで新しい方向のニユースが伝へられるだけではなく、長い間の獄舎生活から出て来た人たちもまじつて訪れ来る人々もしげくなつた。『十余年会はざりし人のとひ来りわがすがた見て涙をこぼす』者もあつて、『十余年たたかひぬきし同志らの顧みくるる老いらくの身』と感謝してゐる。そしてさういふ時勢の急変は、生来その血管に流れつゞけてゐる感激性の血をたぎらせて、昂奮せしめることがしばしばあつた。そのためにどうかするとねむり難い夜がつゞき、からだを弱らせる結果ともなり勝ちだつたから、日に日に姉の心配は増して行く。『ひとりわれ昂奮しつつ老妻はかなしみなげく時のまた来ぬ』と詠じてゐるのも、十数年前の地下運動当時を回想しながらの述懐であらう。本人も衰弱の加はるのを自覚して『今ははや再び起たむ望みなしいざ静かに死を迎へなむ』と観念しつゝも、なほ、『ひとたびはあきらめはてし我なれどしがみつきても今は生きなむ』と努力するのであつた。しかし寒冷の気が日増しに加はるにつれてだんだん衰弱も増して行く一方だつた。『病床雑詠』として次のやうなのが録してある。
【一行アキ】
 遺憾なり半生の間鍛へ来しつるぎ抜き得ず力しなへて
 久しくも白虎に会はず青龍も薯蔓わづか三日に一銭(十月二十七日)
 枕べに人の侍りて筆とりて我が思ふこと誌し〈シルシ〉くれなば
 ひねもすをいねつつくらす身とならば生き残るとて甲斐あらめやも(十一月二十五日)
【一行アキ】
 かくてやうやく一九四六年の新春を迎へ得たのではあるけれども、遂に一月三十日午前五時半『白雲生処清石疲』と自分の書いた額の下で安らかに眠るが如く長逝したのである。    ――二一、七――  〈192~194ページ〉

 河上肇は、1944年(昭和19)の夏に、「まだ生きてゐたかと云はれ死ぬる春」という辞世の句を詠んだ。そして、その辞世の通り、1946年の春に亡くなった。――この文章で、末川博が言いたかったのは、そのことだったのだろう。

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