礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この戦争は負けだね(阿部謹也の祖母)

2024-08-22 16:29:39 | コラムと名言
◎この戦争は負けだね(阿部謹也の祖母)

 阿部謹也の『阿部謹也自伝』(新潮社、2005年5月)を読んでいる。阿部謹也(あべ・きんや、1935~2006)は、西洋中世史の碩学で、『刑吏の社会史』(中公新書、1978)などの著書がある。その人となりについては、よく知らなかったが、この本を読んで、なかなかの苦労人、努力家であったことを知った。
 同書の最初のほうに、敗戦前後のことが書かれている。本日は、これを引用してみよう。

 このころには学校の授業もほとんどが戦時体制となり、国語や歴史だけでなく、音楽などは全て戦意高揚歌になっていた。そのころの戦況を反映してそれも切り込み隊の歌や玉砕の歌ばかりとなっていた。「身には爆薬手榴弾。二十重〈ハタエ〉の囲み潜り抜け、敵司令部の真っ只中に散るを覚悟の切り込み隊」などという歌を皆で合唱していたのである。今でも幼いころの歌を歌おうとすれば、この種の歌しか出てこない私たちの世代の悲しさがある。
 ある日私の祖母は叔父たちが集まっている中で突然「この戦争は負けだね」と言った。叔父たちがあわてて「そのようなことを言っては駄目だよ」といさめたが、祖母は「日本の飛行機がアメリカを空襲したという記事があったかね。それなのに日本は毎日空襲されているだけじゃないか。負けに決まっているよ」と言って聞かなかった。何かを聞かれて私が「そのときには僕はもうおばあさんの孫ではないんだよ。天皇の子なんだから」と答えたことがある。すると祖母は 「そうかいそれじゃ、天皇さんに食わしておもらい」と言って私を黙らせてしまった。この祖母は戦争が終わったとき、これからは「天皇さんに秋刀魚〈サンマ〉が焼けましたからどうぞ、と言って持っていけるようになるよ」と言っていた。しかし実際にその予言は当たらなかった。
 敗戦の詔勅を聞いたのは所沢の駅前であった。母と二人で鎌倉まで荷物をとりに出かけた帰りに西武線が停車し、皆電車から下ろされて駅前の店に集められた。ラジオから天皇の声が聞こえたが雑音が多くて私にはよく解らなかった。母もよく解らなかったらしいが、「われに利あらず」という言葉から負けたらしいということは感じたらしく、前にいた中年の男性に「これからどうなるのでしょうか」と尋ねた。するとその男性はひと言「ますます食えなくなるんですよ」と答えた。それを聞いて母は「あんなにぞーっとしたことはない」とあとで語っていた。そうでなくても戦時中は食うものにはなはだしく事欠いていたから、これからますます食えなくなると聞いて前途に絶望したのだと思う。実際戦時中よりも敗戦後のほうがはるかに食糧難は厳しかったのである。
 私には戦争が終わったということが十分に理解出来ていなかった。戦争に負けたのに何故電車は動いているのだろうか。郵便屋さんは相変わらず郵便配達をしている。ラジオからは時折深刻な声も聞こえるが、普段と変わらない番組も流れている。敗戦の経験がなかったのは私だけではないが、日本人全体がどうしてよいのかわからなかったのであろう。学校も校長先生の話があっただけで、普段どおりの授業が進められていた。しかし私の生活は変わらざるを得なかった。それまではアメリカや日本の戦闘機に関心を持ち、その絵なども描いていたのだが、とたんにそのような関心は薄れ、予科練志望も消え、私の未来はまったくの空白となった。〈31~32ページ〉

 敗戦の少し前、阿部謹也の一家は、埼玉県入間郡芳野村伊佐沼に疎開し、謹也は、川越市内の国民学校に通っていたという。

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