◎動産、不動産と云ふ字は私が作りました（箕作麟祥）
大槻文彦『箕作麟祥君伝』から、箕作麟祥の「一代記」を紹介している。本日は、その二回目。
私の祖父は、箕作阮甫〈ゲンポ〉と云ふ蘭学者でございまして、私も、子供の時から、蘭学をやりました、尤も、今でも、そんなにぢいさんではござんせぬが、よほど古いものでございます、併し、其頃は、蘭書も少なくて、一二の書物をむやみに呼んだので医書でも、窮理書でも、兵書でも、なんでも、かんでも、手当り放題に、読んだのてありました、其後、幕府の末に、英学をすると云ふことが、流行り〈ハヤリ〉出しましたから、私も蘭学から、英学に転じまして、一生懸命、英語をやりましたが、それも、何の事はないむちやくちやにやりましたので、専門学も、何もなかつたのでございます、其中〈ソノウチ〉に、西洋の交際も、段々と繁くなつて、書籍なども集つて参りましたが、どうかして、西洋へ行て見たい、と思つて居りましたが、其時の将軍徳川慶喜〈ヨシノブ〉君の弟の徳川民部大輔〈ミンブタイフ〉と云ふ方が、将軍の名代で、「フランス」へ行くと云ふのでありますから、どうかして、くッついて行きたいと思ひましたが、蘭語と英語は出来たが「フランス」語が出来ない、「フランス」語が出来なければ、くッついて行くことが出来ないから、どうかして行きたいと云ふので、「フランス」語を学びたくは思ひましたが、先生も何も無い、尤も村上英俊〈ヒデトシ〉先生などが、仏学の塾を開いて居られましたが、先生などに就いては手間が取れる、それに二月【ふたつき】か三月【みつき】しか、間がないから、なかなか、束脩〈ソクシュウ〉などを持つて行つてはいかぬと云ふのて、英仏対訳辞書をめつけ出して、暫く首つひきをやりました、それで二月【ふたつき】ぐらゐで、先づ「リーダー」ぐらいは、読めるやうになりました、（喝采、御勉強）「実に、御勉強でありました」それから、「フランス」へ参りまして、仏書も、ちつとは読めるやうになりましたが、一年余で日本に帰るやうになりました、それから、間もなく、明治の御一新になりましたが、素より、法律書は、のぞいて見たこともなかつたが、明治二年に、明治政府から「フランス」の刑法を翻訳しろと云ふ命令が下りました、（其時分は、大学南校と云ふ所に勤めて居りました、）そんな翻訳を言付けられても、ちつとも分りませんだつた、尤も全く分らぬでも無いが、先づ分らぬ方でありましたが、どうかして、翻訳したいと思ふので、翻訳にかゝつたことは、かゝりましたところが、註解書もなければ、字引もなく、教師もないと云ふやうな訳で、実に、五里霧中でありましたが、間違ひなりに、先づ分るまゝを書きました、其後、続いて、民法、商法、訴訟法、治罪法、憲法などを訳しましたが、誠に、朦朧としたことで、翻訳をしました、諸君も、御承知てござりませうが、それを、文部省で木版に彫りまして、美濃判〈ミノバン〉の大きな間違ひだらけの本を拵へ〈コシラエ〉ました、
基本は実に、分らないことだらけてありました、また、分つても、翻訳語が無いので困りました、権利だの、義務だのと云ふ語は、今日では、あなた方は、訳〈ワケ〉のない語だと思つてお出でゞ〈オイデデ〉ありませうが、私が翻訳書に使つたのが、大奮発なのでござります、併し、何も、私が発明したと云ふのでは無いから、専売特許は得はしませぬ、（喝采、笑）支那訳の万国公法に「ライト」と「オブリゲーション」と云ふ字を、権利義務と訳してありましたから、それを抜きましたので、何も盗んだのではありませぬ、また、新規に作りましたのは、動産だの、不動産だのと云ふ字で、今日では、政府の布告にもあるやうになりましたが、これを使ふのは、実に非常なことであつたのです、（喝采）それから、義務相殺だとか、未必条件だとか云ふような字を作りましたが、（一々、申上げかねます）ところが、今日は、それが立派に行はれるやうになりました、（喝采）〈９９～１０１ページ〉【以下、次回】
文中、「窮理書」とあるのは、「物理学書」もしくは「哲学書」の意味であろう（どちらともとれる）。
徳川民部大輔とは、徳川慶喜の異母弟・徳川昭武（とくがわ・あきたけ、１８５３～１９１０）のことである。慶応３年（１８６７）、将軍・徳川慶喜の名代として、万国博覧会に派遣される。当時、数えで十五歳。
村上英俊（１８１１～１８９０）は、蘭学者・フランス学者。日本で最初にフランス語を習得したため、「仏学始祖」と称される。
