礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山田宗睦さん亡くなる(2024・6・17)

2024-07-21 03:49:35 | コラムと名言

◎山田宗睦さん亡くなる(2024・6・17)

 今月19日の東京新聞によれば、評論家・哲学者の山田宗睦(やまだ・むねむつ)さんが、先月17日に亡くなっていたという。享年九九歳(1925~2024)。過去に当ブログのコラムで、山田さんの著書『危険な思想家』に触れたことがある(2019・12・29)。故人を偲ぶ意味で、そのコラムを再掲してみたい。

◎山田宗睦著『危険な思想家』と大熊信行の経済学
 昨日まで、四回にわたって大熊信行の文章を紹介した。本日は、その補足である。
 今日では、あまり言及されることがないが、山田宗睦(むねみつ)という哲学者がいる(一九二五~)。
 その著書『危険な思想家――戦後民主主義を否定する人びと』(カッパ・ブックス、一九六五)は、ひところ、かなり評判になった本である。今、机上に、その「26版」がある。奥付によれば、初版発行は一九六五年(昭和四〇)三月一日。同年四月二〇日には、早くも第26版に達している。
 この本で山田宗睦は、竹山道雄・林房雄・三島由紀夫・石原慎太郎・江藤淳・高坂正堯・山岡荘八・大熊信行らの面々を、「戦後民主主義を否定する人びと」として批判している。この本を私は、高校生の時に読んだ。そして、大熊信行という経済学者に注目した。それは、山田によって紹介された「大熊経済学」の内容に興味を持ったからである。あるいは、山田が、大熊経済学のユニークさを、高く評価しているように感じたからである。
 本日は、同書の第七章「大熊信行――戦争体験の逸脱㈡」から、「政治に無縁の大熊経済学」の節を紹介してみよう。
政治に無縁の大熊経済学
 大熊が経済学をえらんだのは、河上肇【かわかみはじめ】に「だまされた」からだそうだ。河上はラスキンをマルクスと肩をならべる経済学者のように書いた。青年大熊は、トルストイ、カーライ、ラスキンを愛読していたので、それなら自分もやれるとおもって経済学を志望した。もしだまされなかったらなにをしたかったのか、とあるとき聞いたら、生物学をやりたかったのだそうだ。
 この専門の選択のなかに、すでに大熊経済学の独特の性格がうかんでいる。つまり大熊経済学は、物的財貨の動きをみるものでなく、人間の生命=生活(人生)の意味をみるところに、その根本をおいている。一九二二(大正十一)年に書いた論文で、大熊は、その経済学の二つの柱の一つ〈配分原理〉を確立している。〈経済の基本は時間の配分にある〉という見解である。人間の営為【いとなみ】は、すべて時間のなかでの歴史的行為である。となると、全体として社会的・人間的〈必要〉に応じて、持ち時間をどう経済的に配分するのか、ということはたしかに根本的な問題となる。生産や消費や流通といった社会的な配分だけではない。個人が労働、消費(労働力の再生産)、娯楽、生殖(労働力の世代的再生産)といったことへの時間配分をどうするかは、その人間の人生そのもののあり方を決定する。
 経済の根本を時間の配分にみる考え方は、さいきん出版されたマルクスの『経済学批判要綱』にもでてくる考え方である。この点では大熊は、四十年前に、マルクスとは独立に、同一の見解に達していたのである。
 もう一つの柱は〈人間の再生産論〉である。労働価値学説が、じつは人間生命(生活)の再生産を論ずるものだと、大熊がみぬいたのは、ここでも、マルクスと合致する。マルクス経済学は物的財貨の生産だけではなく、人間〈生活の社会的生産〉全体を考察したのだから。
 青年大熊は河上肇について学びたいとおもった。だが、つてがなく、東京商大(現・一橋大)で福田徳三【ふくだとくぞう】についた。福田は「中外」(社長・内藤民治/主筆・中目尚儀)をバックに、「中央公論」(主筆・滝田樗陰)をバックにした吉野作造【よしのさくぞう】と連携【れんけい】して、一九一八(大正七)年末黎明会【れいめいかい】を組織した。このグループは、大正デモクラシーの言論の中心となった。このグループも、福田も、社会主義ではなかったが、そちらにたいして閉じてもいなかった。福田はマルクス経済学についても知っていた。この福田についたことが、大熊のその後のあり方にも影響しているとおもう。河上は求道一途【いちず】に共産党に入党し、政治の場へもほんのちょっとだが出た。大熊は、経済学上、マルクスの系列をふみつつ、どの左翼的政治党派とも、またどのマルクス主義学派(講座派、労農派)とも、無縁だった。
 マルクス経済学にかかわりながら、政治と無縁であったことは、一面では弱さにもなる。そして、この弱さが、のちに、太平洋戦争期の大熊のあやまちにつながっていくことになる。だが、この無縁さ、つまり現実との一定の距離が、かえって大熊に、政治の目では見えない、人間営為の秘密を見るレンズを与えてもいるのである。

*このブログの人気記事 2024・7・21(10位になぜか阿南惟幾)

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日本民族が敗けたわけではない(年級隊長)

2024-07-20 00:01:05 | コラムと名言

◎日本民族が敗けたわけではない(年級隊長)

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)から、小松左京の「昭和二十年 八月十五日」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。傍点は、太字で代用した。

 しかし、そのときはみんな頰【ほお】をはれあがらせながら仕事にもどった。――そして、一時間もたたないうちに、他の工場の連中がかえりじたくでやってきた。変に気おいたった様子だった。
「なんや? ――もうかえるんか?」と、私たちはいった。
「ええなァ、どないしてん?」
「なにいうとる! ――お前ら知らんのか?」と、連中の一人は、興奮した口調で吐き出すうようにいった。
「日本は敗けてんぞ! もうこんなもんつくってもしかたがあるかい。やめてまえ、やめてまえ!」
 そういうとその連中は、勝手に配電室におしいり、電源をきってしまった。日本は敗けた、という声のない情報は、たちまち工場全体にひろがった。――私たちは、やめや、やめや、といって作業をおっぽり出し、荷物を持ってて外へ出た。
 出た所でする事はなく、海べりの堤防の所に集まってうろうろしていた。――つよい、夏のひざしの中で、いまのいままでやかましい音をたてていた巨大な工場群が、はしのほ うから次々に静まりかえって行く光景は、なんだか異様なものだった。一つの工場の音が 消えるたびに、なかから、中学生や工員がぞろぞろ出てきて、所在なさそうに空を見あげ、ぼそぼそ話しあうのだった。私たちは、ぼんやり海をながめていた。戦争は終わった、日本は敗けた、それはたしからしい。が、それがいったいどんな事なのか、ちっとも実感がわかなかった。そのうち、教師がやってきてみんなを集めた。――日本は敗けたが、だらだらしていいわけではない。今日はこれで帰宅するが、おって学校からの指示をまて。解散。
 すると、上級生のクラスの「年級隊長」がとび出してきて、演説をぶちはじめた。――日本は敗けたが、日本民族が敗けたわけではない。神州は不滅である!
 しかし、もう誰もきこうとはしなかった。ぐずぐずくずれ出した列の中から一人がどなった。
「アホ! ――やめとけ」
 それが合図のように、みんなは足をひきずって思い思いのほうに歩き出した。「明日泳ぎに行こうか?」と誰かがいった。
     *出典『やぶれかぶれ青春記』勁文社、一九九〇年

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ききちがえをするのは貴様らがたるんどるからだ(教師)

2024-07-19 04:10:48 | コラムと名言

◎ききちがえをするのは貴様らがたるんどるからだ(教師)

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)から、小松左京の「昭和二十年 八月十五日」を紹介している。本日は、その三回目。傍点は、太字で代用した。

 しかし、前のほうにいた私たちの班の中では、論争がまきおこった。――いったい、ポ ツダム宣言を「離脱」したとはどういう事だろう? 「雕脱」するためには、それにはい っていなければならない。しかしポツダム宣言は米英ソ中四国が行った宣言のはずである。そんなものに日本がはいっているはずはない。陛下はポツダム宣首を「受諾」したといわれたのではなかったか? とすると……。
「貴様ら、なにグズグズしとるか!」
 と、しゃべっている私たちを見て、教師が近づきながらどなった。
「陛下の玉音に接しながら、なおだらだらしとるか! ――この不忠モン」
 とたんに総ビンタがきた。――しかし、中で勇敢な一人が、おずおずと、いった。いまラジオをきいていたら、たしか陛下は、ポツダム宣言を「受諾」したといわれたようにきこえました。ということは、日本は敗けたんやないですか?
「なにッ日本は敗けただと? ――きさまなにをきいとったのか! この非国民!」
 とそいつははったおされた。――その時以来、その男の鼓膜はおかしくなってしまったのだから、ムチャな話である。
 そんなききちがえをするのは、貴様らがたるんどるからだ、といって、さんざんぶんなぐって教師はいってしまった。――この教師が戦後、それも終戦後三か月もたたないうちに、突然、
「私はもともと民主主義者で……」などといい出したのだから、私たちの戦後の「大人不信」は深くなってしまった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2024・7・19(10位に極めて珍しいものが入っています)

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日本国民のみなさん、日本の天皇は……(米軍ビラ)

2024-07-18 03:17:38 | コラムと名言

◎日本国民のみなさん、日本の天皇は……(米軍ビラ) 

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)から、小松左京の「昭和二十年 八月十五日」を紹介している。本日は、その二回目。

 だが、八月十三日、十四日と、二日つづけて、不思議千万にも、あれほど熾烈だった空襲がなかった。警戒警報は何度も鳴ったが、侵入してくるのはたいてい一機、それも、伝単(ビラ)をまいて行くだけだった。「敵の謀略直伝」であるビラはひろう事を厳禁されていた。ひろってもっていたために、憲兵隊にひっぱられたやつもいた。しかし、誰も彼も、そのビラを一度は見た事があり、その内容が、「日本国民のみなさん、日本の天皇は、ポツダム宣言をうけいれ、無条件降伏を申し入れました」といったものである事は、誰もが知っていた。そして八月十四日、翌十五日に、「重大放送」がある、という情報がつたわってきて、それはかえって、「敗戦」の、噂をうち消してくれるものとうけとられていたのである。
 十五日の朝になって、「重大放送」が「陛下の玉音」である事がはっきりすると、みんなは、ほんの少しばかり興奮した。
「いよいよ本土決戦やな」
 と変にうれしそうにいうやつもいた。
 いつもより十分早い、午前十一時五十分に作業は終わり、私たちは工場の中央のラジオの所に集まった。私のいる罫書【けが】き班は、ラジオに一番近かったので、一番そばに陣どれた。――いよいよはじまった「陛下の玉音」を、みんなはコチコチになってきいた。何しろ、天皇陛下は、子供のころ「御真影〈ゴシンエイ〉をじかに見ると眼がつぶれる」とおどかされた「現人神【あらひとがみ】」であり、その玉音が、ラジオできけるなどという事など、あり得ようとは思えなかったからである。
 しかし、必死になってききとろうとしても、ラジオも悪く、そのカン高い、節のついた言葉はどうにもききとれず、ただ「ポツダム宣言」という言葉と、「たえがたきをたえ」という言葉しか理解できなかった。ついに何もわからずじまいに放送が終わると、担任の教師は大感激して演説をぶった。
「ただいま陛下は、もったいなくもおんみずから、ポツダム宣言を離脱したといわれた。われら陛下の玉音にしたしく接したこの感激を身に帯し、ますます一億一心、尽忠報国の意気にもえ、聖戦の完遂にむかって邁進すべきである。天皇陛下万歳!(ここでみんな万歳三唱)――ただちに午後の作業にかかれッ!」
 歳とった工員は、感激のあまり涙をながしていた。ほかの連中も、何となくわりきれない顔をしながら、職場へかえっていった。【以下、次回】

 いわゆる玉音放送には、「共同宣言」という言葉はあったが、「ポツダム宣言」という言葉はなかった。そのあとに放送された「内閣告諭」では、そのいずれもが使われていない。その後さらに、放送員により、ポツダム宣言が読み上げられたので、そこでは「ポツダム宣言」という言葉が使われたはずである。ただし、多くの日本人は、それ以前の報道によって、「ポツダム宣言」という言葉やその内容は、把握していたと思われる。
 神戸第一中学校の勤労学徒とその引率教師は、おそらく、この放送を最後まで聞いていたのであろう。それにもかかわらず、引率教師は、「ポツダム宣言を受諾」を「ポツダム宣言を離脱」とカン違いした。そして、少なからぬ工員や生徒が、その教師のカン違いを受け入れたのであった(小松左京もそのひとり)。

*このブログの人気記事 2024・7・18(9・10位に珍しいものが入っています)

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本土決戦よ、早くはじまれ(小松左京)

2024-07-17 00:54:15 | コラムと名言

◎本土決戦よ、早くはじまれ(小松左京) 

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)の紹介に戻る。本日は、作家・小松左京(1931~2011)の「昭和二十年 八月十五日」を紹介したい。ただし、かなり長いので、その後半のみ。これを何回かに分けて紹介する。

 昭和二十年 八月十五日    小 松 左 京

【前半、約5ページ分を割愛】
 八月七日の新聞――タブロイド版といって、いまの新聞紙一ページの半分の大きさだった。――は、広島でおちた「新型爆弾」の記事が一面にのっていた。八月九日には、一面焼け野原になった中で、焼けただれてガイ骨みたいになった市電と道ばたにゴロゴロ石のようにころがっている頭蓋骨の写真がのっていて、米国のこの暴虐!とうたっていた。
「これはどうも、原子爆弾らしいぞ!」
 と名古屋大の動員先からかえってきていた兄貴はひと目みていった。
「へえ! 原子爆弾?」
 マッチ一箱の大きさで、富士山をふっとばせるとつたえられた原子爆弾の事は、私たちは戦争がはじまるころから知っていた。――アメリカがとうとう、そいつを完成させたか、と、兄と私は興奮して語りあった。妙な事だが、そのものすごい兵器を、アメリカが完成させたという事についての敗北感はなかった。かえって敵が完成させたのなら、日本も、 もうじき完成させられるはずだ、というおかしな確信があった。
 その翌日の新聞の下隅に、ソ連が、まだあと一年の期間がのこっている「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、宣戦布告して攻撃を開始した記事がのっていた。――しかし、私たちはちっとも動揺しなかった。どっちにしたって、もうじき決着がつく。アメリ力でもソ連でも中国でもやってこい。本土決戦よ、早くはじまれ――そんな、妙に軽々とした気分だった。むしろ、決定的に動揺したのは、動員先で銀行屋の息子の友人から、「日本は、もう負けた」
 という話をきいたときだった。――日本は、無条件降伏することにきめ、銀行の上層部では、いま資産をかくしにかかっている……。そのショッキングな「秘密ニュース」を、私たちは昼休みの工場の物かげで、息をのんできき、きくだけきいてから、その友人を、「日本が敗けたなんて、きさま、非国民だ」といって、みんなでぶんなぐった。【以下、次回】

 小松左京は、本名・小松実(みのる)。敗戦当時十四歳で、神戸第一中学校の生徒だった。

*このブログの人気記事 2024・7・17(9位になぜか八王子の三奇人)

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