礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宮城長五郎検事正は偉かった(木内曽益)

2024-02-14 00:59:38 | コラムと名言

◎宮城長五郎検事正は偉かった(木内曽益)

 木内曽益『検察官生活の回顧(再改訂版)』(私家版、1968)から、「あの人この人訪問記(再改訂版)」の一部を紹介している。
 本日は、その四回目(最後)で、「命がけの頭山邸捜索」の項に続く、「指揮者としての宮城長五郎」の項を紹介してみたい。

     指揮者としての宮城長五郎
――そのころの木内さんの補助というのは。
 「血盟団事件、五・一五事件では、補助はずつと市島成一〈イチシマ・セイイチ〉、岸本義広〈ヨシヒロ〉、佐野茂樹の三検事でした。
――そうですか。岸本さんも一しよだつたのですか。
 「そうです。宮城〔長五郎〕さんという人は偉い人ですよ。私が宮城さんから〝この事件をやれ〟と言われたときに、いま考えてみると、教え年三十七(今の年にすれば三十六)の若僧〈ワカゾウ〉の言うことをよく聞いてくれたと思いますね。事件の取扱いについては、私は石郷岡〔岩男〕さんと一しよに大事件について色々経験しておるから、といつても検事になつて、まだ八年位の未熟者ですよ。宮城さんはそれにも拘らす私を信用してこの捜査についての私の出した条件をみんな承知してくれ、これを実行したですよ、宮城さんは偉い。それは私が〝主任としてやる以上は事件が軍とも関係があり重大事件だから、これを成功さすには先ず補助検事は私に人選を一任してもらいたい。やはり一心同体にやれるものでないといけない。これは普通の事件と違つて秘密が洩れてはいけない。それから書記もこつちで選ばしてもらいたい〟というと宮城さんは〝よかろう〟といわれた。それから私はもう一つ条件を出した。〝事件の報告は主任たる私以外の者から聞いてもらつては困る〟というとこれも承知してくれましたよ。私としては、ここまでは報告してよいが、ここから先はまだ捜査が不十分だが、恰かも〈アタカモ〉捜査十分のような誤つたことが検事正の耳に入つて、判断を誤らせては困る。未だ報告の域に達していない場合があるからです。こんなことを言つてはどうかと思うが一例を上げるとあの有名な帝人事件の失敗の重要な鍵は、ある検事などは主任検事の黒田〔越郎〕君をさしおいて、いろいろ未熟な報告をもつて行つたものですから、当時の検事正の岩村〔通世〕さんを誤らしたと言つても過言でないと私は思つていますし、主任の黒田検事も私にこぼしていましたよ。それからもう一つの条件は〝警視庁から刑事部長が報告に来ても、検事正自身が直接報告を聞いてもらつちや困る。主住たる木内に話せといつてもらいたい〟と申し上げると、宮城さんはそれも〝よかろう〟ということで、それで、当時の警視庁の松本部長が検事正の処に来ても宮城さんは〝木内に話してくれ〟といつて私のところへ刑事部長を廻しました。そこが宮城さんの偉いところだと思いますね。従つて警視庁も私の指揮に一糸乱れず従つておつたです。これだからこそ私も安心して仕事が出来、事件の捜査を成功裡に収めることが出来たと確信しています。また、補助の三検事もよく私の意思に従つて一心同体でやつてくれましたね。この三人が私の補助でなかつたらこの事件はここまでうまくいかなかつたであろうと私は信じています。全くこの三人も立派な検事でしたよ。【以下、略】

 木内曽益は、「宮城長五郎検事正は偉かった」と述べているが、その偉かったのは、上司として、自分(木内)の捜査方針を、そのまま認めてくれたところであって、結局、木内がここで言いたかったのは、「偉かったのはオレだ」ということである。
 木内曽益は、検事として、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件を担当している。昭和史の証言者としては、きわめて重要な人物のはずだが、その割には、学術的な文献などで木内の文章が援用される機会が少ないという印象がある。その文章に「偉かったのはオレ」的なところが目立つので、あるいは、証言として信頼性に疑いが持たれているのか。

*このブログの人気記事 2024・2・14(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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