礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

まだ生きてゐたかと云はれ死ぬる春(河上肇)

2024-08-10 03:44:07 | コラムと名言

◎まだ生きてゐたかと云はれ死ぬる春(河上肇)

 猛暑の中、書棚を整理していたら、末川博の『真実の勝利』(勁草書房、1948年9月)という本が出てきた。この本は、一度、当ブログで紹介したことがある。
 今回は、同書から、「河上の辞世と終戦」という文章を紹介してみたい。かなり長いので、三回に分けて紹介する。
 河上とは、マルクス経済学者の河上肇(かわかみ・はじめ、1879~1946)のことである。筆者の末川博(すえかわ・ひろし、1892~1977)は、民法学者で、立命館大学名誉総長。末川は、河上の義弟にあたる(河上の妻・ヒデは、末川の妻・八重の姉)。

  河上の辞世と終戦

 『いつまでもかくてあるべき身ならねば来ん〈コン〉春のゆくころわれも共にか逝かむ』そして次に、『辞世』として『まだ生きてゐたかと云はれ死ぬる春 昭和十九年八月八日六十六叟〈ソウ〉肇、博様恵存〈ケイソン〉』。ふだん着のままで真正面から白いやぎひげののびた顔をうつした写真の裏に、かう書いてあるのが、翌九日の早朝私の宅に郵便で届けられた。これは大変なことが起つた、ヒヨツとすると、この辞世をのこして自殺してしまつたのではあるまいか、不吉なことを案じながら、私はさつそく程遠からぬ吉田上大路〈カミオオジ〉の河上(私の義兄)の宅へと急いだ。その頃姉〔ヒデ〕は大連の娘のところに出かけてゐて、河上はひとりで自炊生活をしてゐたのである。その孤独生活者が門をとざしたまゝで近所の人たちも知らぬ間に死んでゐるのではあるまいか、マサカとは思ひつゝも、なほ胸さわぎを禁じ得ないでかけつけたわけである。
 ところが、横町をまがつて河上の寓居が見える角まで来たら驚いた。あの鶴のやうなやせぎすの河上は、上空を仰ぎ細い手を力限りさしのべて何か指さしながら、しやべつてゐるではないか。『兄さんは死んだのではなかつたんですか』と、心配を口に出すわけにも行かず、かけよつてたゞ『お早うござんす』と、その場をとりつくらふほかはなかつた。見れば、近所に住む娘むこの羽村君が上つて大きなかぼちやの位置を直してゐる。それを梯子〈ハシゴ〉の下から河上が何かと指図してゐるのだから、極めてのんきな夏の日の朝にふさはしい気持のよい光景である。およそ辞世の歌などを持ち出して、とり越し苦労をした話をするやうな場面ではあり得なかつた。
 死んだ後でのこした日記を見たら、八月九日のところに『四時半起床、七時半書斎に落ちつく。今日も体温七度三分に上ぼる。終日家を出でず。依然として雨あり。二喜男(羽村)来たりて、門にぶらさがり居る南瓜を、盗難の虞〈オソレ〉ありとて、梯子など持ち来り、尽く屋根の上へ上げてくれる。合計三顆〈サンカ〉ものになりさうなり。そこへ末川君来遊』としるしてある。〈186~187ページ〉

「六十六叟肇、博様恵存」とあるが、「六十六歳の老翁・河上肇より、末川博様のお手元に」の意味である。
「羽村君」とあるのは、河上の長女シズの夫・羽村二喜男(はむら・にきお)のことである。
 このあと、数ページ分(187~190ページ)を割愛して、次回へ。

*このブログの人気記事 2024・8・10(8位は時節柄か、9・10位に珍しいものが)

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