◎行政法といふ名の下に憲法を教へてくれ(伊藤博文)
清水伸の『維新と革新』(千歳書房、一九四二年四月)から、「金子堅太郎伯に維新をきく」の章を紹介している。本日は、その十二回目。
憲法学教授時代と教へ手の思ひ出
○清水 では憲法学の講座の方は。
○金子伯 廿三年〔一八九〇〕に議会を開くのでどうしても憲法を教へて置かなければいかぬ。そこで渡邊〔洪基〕総長、穂積〔陳重〕部長にそのことをいふと人がないといふ。とにかく早くヨーロッパへ人をやり憲法研究をさせなさいといふことで穂積八束〈ホヅミ・ヤツカ〉を留学させた。しかしその間にも憲法講義をしなければいかぬ。八束が帰るまで誰かそれに当らにやいかぬ。憲法講座と名づけることは未だ不穏当かもしれぬから、とりあへず行政法といふ名の下にやらう。行政の本家本元は憲法であるから行政からやればよい。行政講座を設けたらよからうといふことで、渡邊も穂積も賛成した。それなら誰がいゝだらうといふことになつた。法政局〔ママ〕にゐて憲法取調をしてゐる井上毅がよいだらうと渡邊総長が井上の所へ頼みに行つた。井上は憲法を起草するので大学へ行つて講義をする暇がないといふ。そこで伊藤さんに「あなたの下で憲法起草に当つてゐる人が講義してくれなければ困る。井上さんは暇がないといふから金子に頼んで下さい」と話があつて、伊藤さんから私に――行政法といふ名の下に憲法を教へてくれ。憲法はかういふものになるのだ位は匂はしてもよい。大学の先生、書生らを指導して置くのは必要だ、憲法発布や議会もこれからだから。――と言つて来た。
当時井上同様に私は憲法起草に当つてゐたから、九時半ころには太政官に出なければいかぬ。そこで八時から九時まで大学で講義をして、すぐ太政官に駈けけつけるが、それで承知なら大学の講義を引受けませうといふと、伊藤さんはさうしてくれといふ。渡邊を呼んで話すとそれでよいといふことになつて、十九年〔一八八六〕から講座を立て、廿二年〔一八八九〕の春まで講義した。その後は八束が帰つて来たので、「憲法講座」と銘打つて八束が講義に当つたのであります。大学といへば威張つてゐるやうですが昔はなかなか幼稚なもので、後の国際法の権威高橋作衛〈サクエ〉でも立作太郎〈タチ・サクタロウ〉でも「金子さんあなたには木葉微塵〈コッパミジン〉にされます」といふてゐます。若い者が威張つてゐるやうですが、……
さて私の行政法の講座でありますが、行政法といふても、内閣とは総理大臣、各省大臣が集つて国政を議する所だとか、大臣責任論を説いたり、各省と内閣の関係とか、憲法の組織から出なければ講義が出来ぬのですから、書生が非常に喜んで、私の卅番館の講義室は立錐の余地なく、通路にも椅子を持つて来て聴く有様で、私も「筆記する必要はない、唯黙つて聞いてをれ、頭の中に入るやう講釈する、あとで家へ帰つてから必要なところは書いて置き給へ」といふから、書生らは喜んだわけです。その最初の十九年の卒業生で最高点は一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉で、一木の答案は私の講義の通りで一寸も誤がない。余程頭のいゝやつと思つて九十九点やつた。まあ大抵の者に落第点にならぬ程度の点をつけてやつたものです。だからみんな金子さんの講義は聞いてさへゐれば及第点だ、ほかが落第点でも埋合せがつくとか言つてゐた。十九年の卒業生としては一木のほかに秀才では、後に不幸にして死んだ警視総監の亀井英三郎〈エイザブロウ〉、それから平沼騏一郎〈キイチロウ〉、林権助〈ゴンスケ〉、内田康哉〈コウサイ〉、それから私と枢密院で同僚だつた石塚英造〈エイゾウ〉、それから民政党総裁をした町田忠治〈チュウジ〉等で、それに早川千吉郎〈センキチロウ〉もゐた。ところがお前の書生を俺の方へ寄越せ〈ヨコセ〉、属官〈ゾッカン〉から叩き上げて書記官にすると山県〔有朋〕さんが第一番に申込んで来た。そこで一木喜徳郎と亀井英三郎の二人を山県のところへやつた。亀井は不幸にして死んだが、一木は私が枢密顧問官なのに議長までなりをつた。平沼も議長になつた。あれ等は私を見ると先生々々といふ。町田忠治も度々〈タビタビ〉大臣になつた。あれが参議〔内閣参議〕になつた時謝恩会を開くことになり、町田が発起人となつて私の都合を聞いたもんです。ところが同窓を探してみると〔林〕権助・〔内田〕康哉は死んでしまひ、一木・平沼・石塚位で数が足りないから、二級ばかり下げて、金子さんのお声掛りの者を探さうといふことになつた。町田の発議で廿年・廿一年組を探してみると山崎覚次郎、森田茂吉等が出て来て、やつとこさ十人位ゐるといふことになつて、晩飯でも食つて昔話をしたいといふ話だつたが、御時世で料理屋へ行つて飯を食ふ必要もあるまいと止めてしまつた。【以下、次回】
最後のほうに、「あれが参議になつた時謝恩会を開くことになり」とある。町田忠治は、第一次近衛、平沼、第二次近衛の各内閣で内閣参議になっているが、金子堅太郎伯に対する謝恩会の話が出たのは、たぶん、第二次近衛内閣の成立時(一九四〇年七月)であろう。
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