◎日華事変は拡大の一途をたどった
雑誌『別冊知性』第五号「秘められた昭和史」(河出書房、一九五六年一二月)から、荒木貞夫の「日華事変突入まで」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
支那事変処理の失敗から南進、
そして戦争へ
満州事変の勃発を、日本が仕掛けたとか、いや満洲側だとかいうが、私は昭和四年〔一九三九〕の春陸大学生を率いて満州視察にでかけたときこんな話がある。奉天城外を、馬で一時間ばかり行つた地点に、一人の満人が行き倒れて死んでいた。私は付近の農夫に注意して「どうしたのだ」ときいた。するとこの農夫は、平然とこう答えた。
「あの男は、昨夜私のところへ鶏を盗みにきた。だから殺したのだ」
殺した? それだけではない。片付けろ、というと「なに三日もああしておけば、野良犬がきれいに片付けてくれまさア」という。このくらい満州というところは無秩序なのである。おして知るべしというのが私の結論で、排日、抗日のスローガンを掲げる彼らがどんなことをやつたかぐらいは想像がつく。居留民は生命からがら、奥地から逃げてくる。これを守る満鉄沿線の関東軍は僅かに一万。一方抗日に燃える張学良軍は二十五万の大軍では、ぼんやりはして居れまい。遂に衝突したのである。
政府も軍首脳も口の上での平和方針、外交交渉だけで、当時日本の対支抗議は解決しないものが三百数十件もたまつていた。それがたつた一発の銃声で拡大してしまつたのである。しかし戦争にはならず、とにかく昭和八年〔一九三三〕五月には一切の問題が片づき、平和を回復することができた。
私はその後の半年は、これを機会に国際孤立化から脱出すべく東奔西走、東洋平和会議を関催すべしと力説して幾多の会議を開き政府の討議をすすめたが、不幸病のために、第一線を退くことになつてしまつた。
ところが満州事変が比較的順調に片づいたのに慢心した政府は、ちようど日露戦争後の自惚〈ウヌボレ〉で時局を見くびり、無気力に終始した。このためにせっかく満州事変後安定していた大陸に支那事変を誘発してしまつた。そして不拡大方針にもかかわらず、底知れぬ泥沼へはまりこんで行つた。私たちは満州を固めてソ連の将来の進出に備える主張だつた。ところが軍部の首脳及幕僚はすべて拡大派。不拡大派は多田〔駿〕、石原〔莞爾〕、東郷〔茂徳〕で、柳川〔平助〕、小畑〔敏四郎〕等、及び政界では近衛〔文麿〕公等であつた。
不拡大派は事変拡大には強硬意見で反対した。
「断じて戦火を中国本土に拡大してはならない。現下の日本の最も重要な国策は、全国力をあげて、新興満州国を育成することである。満州国の建設がうまくゆけば、期せずして、中国の民心は日本になびいてくる。そうすれば世界列強といえども、満州を承認せざるを得なくなるにきまつている。東洋の新秩序は、戦わずして招来することに越したことはない」
極力杉山〔杉山元陸軍大臣〕らに反省を要望した。しかし、不拡大派は何分にも権力ある位置にいなかつた。そうしている間に、事変はみるみる拡大の一途を辿つていく。私たちはやきもきした。
政府(〔第一次〕近衛内閣)も、情勢判断ができず、拡大派によつて「華北に反乱が起きた。居留民保護のため出兵する」といわれると、出兵費用をだすだけで、サッパリわからない。近衛内閣の弱さにつけこんで、軍部は〝軍機の保護〟を理由に、事変を独断で処理していこうとした。しかも処理の上にはなんら一貫した成算も計画もなかつたかに見えた。これが太平洋戦争に一億を叩きこんだ最大の原因であり、くり返し云うが、政府と統帥部の不一致という日本最大の欠陥が、このときも歴然とあらわれた。
その後も軍部の拡大派、不拡大派の意見対立は統いた。支那事変八年にわたる間、絶えずくり返されていた。「重慶工作」にも数々の意見となつてあらわれ、長期戦に堪えられない内幕をバクロしたのである。
こうした事変処理につまづいた惨たんたる失敗をくり返しながらも、和平の端緒をつかむべく工作したのであるが、多年の軍部の悪評で、肝腎の蒋介石が信用しない。ようやく昭和十三年〔一九三八〕一月十四日にいたつて、国民政府駐華独大使トラウトマンを通じて「日本の和平条件、詳細を提示されたし」の回答までこぎつけた。ところが十二月に南京を陥落させた余勢をかつて、いよいよ熾烈化した軍部の主戦論者は「なにをいうか」という慢心ぶりで鼻息が荒かつた。もつとも中国側にも主戦論は多く〝徹底抗戦〟のスローガンはまだ下していなかつた。それにしても国民政府を否認するような声明(一月十六日)「以後国民政府を相手にせず」は早やすぎた。絶好のチャンスを逸したばかりでなく、軽率なこの声明は、以後の事変処理工作の一大障害となつて残つたのである。なにしろ相手にしなかつたはずの国民政府を相手に交渉するのだから骨である。
そして、ついに蒋介石を動かすことはできなかつた。
しかし、和平の可能性は絶無ではなかつた。少くとも、大東亜戦争勃発までは、まだいくらかあつたのである。ところが対重慶工作に失敗すると、血路打開をあせる余り、海軍の南進論と結びついていつた。
これがアメリカのルーズベルト大統領の野心と謀略に正面衝突して、かつてない大戰争へと突入していつたのである。
荒木貞夫「日華事変突入まで」の紹介はここまで。このあと、荒木貞夫という軍人について、若干の補足をおこないたいと思っているが、明日は、いったん、話題を変える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます