礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宇垣一成の出馬を希望する声が大きくなった

2023-02-20 02:46:52 | コラムと名言

◎宇垣一成の出馬を希望する声が大きくなった

 雑誌『別冊知性』第五号「秘められた昭和史」(河出書房、一九五六年一二月)から、荒木貞夫の「日華事変突入まで」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

  政府と軍部との歩調乱れ
 一方蒋介石は、ソ連の援助指導をうけて広東の軍官学校で機の熟するを待つていた。ところが昭和六年〔一九三一〕、ソ連から派遣されていたガロン、ボロージンの両指導官を従えて、北伐の行動を起した。ところが北上の途中南京で事件を引き起した。つまり揚子江に到達すると蒋介石は、突如共産党弾圧にでた。ガロン、ボロージンはほうほうの態で脱出したがその他のソ連人、共産党とおぼしき市民の多くは虐殺された。ソ連の支那大陸赤化政策は蒋介石によつて裏切られた。このとき日本軍は居留民保護のため一個師団を済南〈サイナン〉に出兵した。日本国民の眼が大陸にそそがれるようになつたのは、実にこのときからである。間もなくこの事件もおさまつたので、日本軍は引揚げた。するとこんどは済南事件が起つた。居留民保護の出兵に間に会わなかつた蒋軍は日本恐るに足らずというなめ方である。
 この済南事件は、南京事件の翌年、つまり昭和三年〔一九二八〕五月のことである。虐殺されたのは百二十名(実は十二名だつた)の報に、旅行中の参謀総長(鈴木〔荘六〕大将)に連絡すると、直ちに三個師団出兵の準備をせよとの電話があつたが、総長の帰京を待てという命令だつた。仕方なしに待つと軍事参事官及び元帥会議にもかけるという。ようやく居留民保護という名目で決定し、政府にだしたところが、いつになつても返事がない。そのうちに政府は、張作霖を抑えるために、当時は蒋介石援助方針をとるつもりだから、無事北進せしむるように、と指令してきた。しかし、その頃蒋介石は反日の宣伝をさかんにやつている最中だつた。それはまだいいとしても、先遣の第六師団と、蒋の先鋒軍と衝突して、射ちあいがはじまつた。わが方の政府と軍部とはかくのごとき不徹底ぶりだつたのである。
 けつきよく、こんな体裁のわるい格好でようやく了解がついて、蒋介石は黄河を越え北進をつづけた。ところで天津でまたまた事件を起し、ついには張作霖爆死事件にまで発展してしまつた。

  満州の人心は日本を離れた
 残念ながら政府も軍首脳部も、世界の変転、とくにソ連と支那大陸の新しい動向によつて生ずる体勢を知らなかつた。さながら大浪に任せている小舟のごとき感があつた。これは幾度も云つている通り、統帥権が確立していないからで、度重なる失敗にその威信はいよいよ失墜していつた。
昭和六年〔一九三一〕二月六日、第五十九議会開催中、幣原〔喜重郎〕首相代理の統帥権問題に端を発した議会は、全く混乱状態に陥り、乱闘にまで及んで負傷者をだす有様。今日の議会乱闘どころの騒ぎではなかつた。
 こういう有様を眼〈マ〉のあたりに見た軍部及び大衆は、政府に愛想をつかし、大川周明〈シュウメイ〉始め一部の軍人間に、宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉の出馬を希望する声が、次第に大きくなつた。こうした要望もだしがたく〔黙し難く〕宇垣首班の政府樹立を画策したのがいわゆる三月事件である。多年鬱積した爆弾の第一発は、ついにこらえきれず点火されたのである。
 この三月事件は不発に終つたが、大川の計画によれば、大規模な内閣糾弾のテロ行為だつた。つまり労働法案上程の日に、左翼および右翼一万人を動員し、八方より議会にデモを行い、政、民政党本部、首相官邸を偽砲を以て脅威する。軍隊は議会保護の名目で包囲し、一切の交通の遮断、各大臣に対して「国民はいまや現内閣を信任しない。宇垣大将を首班とする内閣のみ信頼する。国家のためよろしく善処してほしい」と幣原首相〔ママ〕以下の辞表を提出させる計画であつた。
 こうした内容は不発のために外部へは洩れなかつたが、軍内部にはいちはやく知れ渡つてしまつた。現状に不満を抱く心ある人々を刺激し、その後に起きた数々のテロ行為の導火線となつたのである。
 私は当時熊本の連隊長として、地方にいたのでこの事件は知らなかつたが、四日の連隊長会議に上京して病気になり、入院中見舞にきてくれた大川周明から事の次第をきかされた。退院後小磯〔国昭〕、建川〔美次〕、永田〔鉄山〕などに会つてきかされた話は、想像していたよりもずつと複雑だつた。私は事件そのものよりも、将来を憂えた。そして熊本へ帰る前に宇垣大将を四谷の私邸に訪ね、今後の対策を問い訊した。私は時局の急切なるを説き確とした国策樹立の必要を力説した。ところが宇垣大将は「お前なんかに心配してもらわなくてもわかつとる」といつた態度、一向に私の持論と主張には耳を藉そうとしない。とうとう私は大将にサジを投げた。とても共に語れる人じやない、と、このときはひどく落胆して熊本へ帰つたのである。
 私が教育総監本部長として東京へ帰つてきたのはその年の八月だつた。世相はますます悪化していつた。そして九月十八日、満州事変が勃発した。
 満州事変の処理については国をあげて積極的であった。尾崎行雄翁のごときは、昭和十二年〔一九三七〕議会質問書の中に、「満洲国は極力庇護し、いかなる場合においても、支那に復帰せしめないこと」とあるほどで、大東亜戦争開始のときは、十数ヵ国が満州国を承認していた。日米交渉のときですら、満州を承認する方向をとつたほどであり、日華両国の関係も改善され、大使を交換していた。蒋総統も親善策に出たときがあつたのに、日本の冷たい態度にあつて冷却してしまつた。そして支那事変、ついには大東亜戦争にまで発展したのであるが、戦後一米軍人が私にもらした言葉には「日本があのまま十年間国力を養つたら、実に強大な雄邦になれたのに」と皮肉でなしに口惜しがつていた。
 私が満州問題で満足することのできなかつたことは、王道楽土、五族協和もかけ声ばかりで一向に進展せず、日本人間で抗争していたから、満州の人心が次第に日本から離れていつたことである。故に昭和十七年〔一九四二〕、建国十周年の祝賀会にも、満州国招待には大きな顔をして出席するわけにもいかなかつたので、遠慮して出かけなかつた。
 もう一つの痛恨事は満州建国のとき、総督府設置案があつた。これでは朝鮮と同じだと見られるし、第一満州建国の本旨にも反するというわけで、けつきよく大使を交換、独立の実をあげるべき方向にもつていつた。育成強化するつもりだつたが、その後になつて満州問題が起るたびに関係者の頭に浮びあがつてくるのは、総督府にしておけばよかつたということである。そして軍および政府は、満州国を日本の植民地のごとく扱つた。理想を提げながら、独立国としての体面をじゆうりんし、朝鮮問題のごとく一方的に処理していたことは、世界の批評をうけるのは当然のことというべきである。残念なことであつた。
 また忘れてならないことは、国際連盟との関係で、これは満州問題中の大問題であつた。にもかかわらず、世間の関心は案外に薄かつた。むしろ、四十二対一を叩きつけて、堂々と脱退したごとく、悲劇を大活劇のごとくみていたが、これこそ文字通りの国際孤立化宣言であつた。当初日本に好意的だつた国国もすべて硬化して、次々と「イエス」「イエス」の票決が、日本の番にきて「ノー」賛成四二、反対一、棄権一(シャム)で連盟にさようならをしたときから、もう次の戦争ははじまつていたのである。外交の硬直さを、日本の昂奮状態によつて完全に隠しおおせた松岡全権は、まるで凱旋将軍のごとく迎えられた。【以下、次回】

 文中に、「幣原首相代理」とある。一九三〇年(昭和五)一一月一四日に、浜口雄幸(はまぐち・おさち)首相銃撃事件が起きたため、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)外相が、同日以降、翌年三月一〇日まで、内閣総理大臣臨時代理を務めていた。
 ここで荒木貞夫は、浜口雄幸首相に対する右翼テロには一言も触れず、そのあとに生じた第五十九議会議会の「混乱」ばかりを強調している。荒木という軍人の感性を、よくあらわしている文章と言えよう。

*このブログの人気記事 2023・2・20(8位に極めて珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ごまかされないぞ」といき... | トップ | 日華事変は拡大の一途をたどった »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事