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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

天井裏から大判51枚ほか1451枚の古金銀が

2019-04-10 04:02:40 | コラムと名言

◎天井裏から大判51枚ほか1451枚の古金銀が

 このブログで、西尾中学校の文集『イトスギ』(一九五二年三月)を紹介したのは、二〇一七年の一月九日から一一日までの三日間であった。加藤米子さんの作文「地震」、土川典子さんの作文「かたみ分け」、加藤伊蘇志さんの作文「終戦後のわが家」の順に紹介した。
 三日目に紹介した「終戦後のわが家」は、非常に長い作文だったので、紹介は、「2、父のこと」にとどめた。ここで言う「父」とは、「孤高の在野史家」加藤泰造のことである。今回、この作文を読み直してみると、「1、家の日記」にも、加藤泰造に関する重要な情報が含まれていることに気づいた。
 以下に、同作文の導入部分、および「1、家の日記」を紹介させていただきたい。
 
一九五一年度「日本綴方の会」全国最高位当選
読売新聞主催全国綴方の会入選
児童文学者協会編「中学生作文読本下」掲載

 終 戦 後 の わ が 家     三の五 加 藤 伊 蘇 志

 思えば長い五年であつた。僕は母たちと別れてもう五年にもなる。その五年間、僕の家では僕と祖母は西尾で留守居、母と弟と妹の三人は三和〈ミワ〉で百姓というふうに、二里も離れて別々に、生活の苦しさとたたかつて来たのだ。しかも、もうすぐみんないつしよになれる。僕はうれしい。そしていろいろ母の苦労や、家のことが考えられてきてならないのだ。それで僕は僕の家のことについてかいてみようと思う。
 なぜ僕たち一家がこの五年間、二つに分れ、僕が母たちと別れてくらさねばならなかつたのかといえば、終戦の結果農地改革がおこなわれ家が一度に貧乏になつたことと、祖父と父の二代にわたる生活の立て方に原因があるからである。

  、家 の 日 記

 数日前のひまな日のことてある。祖母がお使に出たあと僕は留守居をしていた。何気な祖母の室へ入り、本だんすを開いてみたら明治三十年頃からの、もう茶色に変色してしまつた細長い和とじの日記が何冊も出て来た。五糎ほどの厚さを持つ、二つ折りの日本紙に少しくずれたつづけ字が綴られている。墨の色も昔のままで、手にのせてみると、ずつしりと重かつた。祖父と父の書いたものらしい。僕は興味にかられて一気に二十余年の記録を読み通した。
 日記によれば、日清戦争の頃にはまだ僕の家の本宅は三和村にあり、祖父の順彌【じゆんや】が軍医少尉となつた時に西尾へ移住したのである。当時は、年貢、借家賃のほかに政府から恩給がさがつたので、女中三人やとつてそうとう楽にくらしていたらしい。明治三十七年〔一九〇四〕日露戦争が起つた。その時、祖父は軍医として満洲に出た。そして、はじめは朝鮮の京城で勤務したが間もなく、平壤、新義州、奉天、長春まで野戦砲や兵隊の後を追つて行つた。祖父の役目は、負傷者を敵に見つからない所で手あてをして、担架にのせて近くの野戦病院へ送る役目であつた。祖父は戦争が終つて大尉で家に帰つて来た。その後数年たって「チューキ」にかかり、大正五年〔一九一六〕十一月二十四日に死んだ五十七才である。
 その時、父の泰造は二才になつていた。父は大正二年〔一九一三〕三月二十三日に生れ、小学校、中学校を卒業して独学するようになつた。その為本も多く買つた。父は幼時から弱かつたらしく温泉や海岸へ療養に行つた記事が所々に見える。
 その頃からしばらく三和の本宅は空家であつたらしく、父は昭和十二年〔一九三七〕にその家をこわして西尾の家の今の座敷を作つた。その時に大判小判が出たらしい。あとで当時の新聞を見せてもらつたら「愛知県幡豆郡西尾町大給加藤泰三さんは、同郡三和村大字下永良〈シモナガラ〉字藤下〈フジシタ〉三十三にある空家になつている本宅を、西尾町に移すことになり、十二日朝、大工や人夫を雇つて取りこわしにかかつたが、午前十時頃座敷八畳の間と………天井板を外すと、ボロ切れに包んだものがあらわれ、中から大判、小判がざくざくと飛び出た。金の大判五十一枚、一朱金四百枚、二朱金七百枚、一朱銀三百枚、合わせて千四百五十一枚、お金にして約三万円………。」と書いてあつた。祖母に聞いてみると、祖父の順彌の先代宗龍【そうりゆう】が家督をゆずる時しまつておいたものらしい。その時出したいろいろなものはみな、父が馬鹿正直で太平洋戦争に寄附してしまつた。今それがあつたら、どんなにみんなが楽にくらせるのだろうと思えてならないのだ。
 さらに日記をくつて行くと、母の嫁入りの時の記事もある。母君枝は、昭和十一年〔一九三六〕三月二十日、二十三才で父の所へ来ている。父より三才若い。その頃、父のからだが弱つていたので、一家そろつて奈良へ行つたり、長野の善光寺へ行つたことも書いてある。
 僕はそれを読みながらいろいろと僕の知らない祖父や父たちの日常生活を頭に浮べてみた。また当時はどうして、そんなに楽に生活ができたのだろうかという疑問が湧いて来た。そこで僕は、その日記の中から、当時の家の収入をしらべてみた。それによると、年貢が米で三百俵(田一反につき三俵一斗、畑一反につき二俵三斗)の他に祖母への扶助料が年千百五十円と借家賃が入つている。その収入源は三和にある田六町、畑八反、山林一町、借家二十軒内外である。僕はただ驚くばかりだつた。
 こうしてみると、僕の先祖たちの生活は、先祖伝来の土地と、僕の知らない昔の小作の人たちの働きによつて守られていたのである。僕はしばらく目をとじた。そして僕の記憶に残る細く青白い父の手と、五年間のはげしい百姓労働によつてかしくれだち、あかぎれにふくらんでしまつた母の手とを比べてみた。昔、僕の家の田を耕していた何十人かの人々の手を思い、生活を思つた。僕の心は暗かつた。

 この作文は、「1、家の日記」、「2、父のこと」、「3、農地改革。財産税。相続税」、「4、その後のこと」の四章からなっている。第二章は、すでに紹介した。第三章、第四章の紹介は割愛する。
 なお、家永三郎の「忘れられた在野史学者加藤泰造」によれば、この加藤伊蘇志さん作文は、『西尾市史』に転載されているという(当ブログ四月八日のコラム参照)。

*このブログの人気記事 2019・4・10

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スケールの大きな研究に没頭した加藤泰造

2019-04-09 05:33:19 | コラムと名言

◎スケールの大きな研究に没頭した加藤泰造

 家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)から、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。昨日は第三節「加藤泰造の生涯」の全文(一九三~一九六ページ)を紹介したが、本日は第四節「加藤の歴史研究」の前半(一九六~二〇〇ページ)を紹介する。
 なお、本日の引用部分に関しては、〔 〕内は家永による補注である。

  四 加藤の歴史研究

 加藤の未刊遺稿『日本上古史』には、自分の研究歴、その間に読んだ書物の名と著者名、それらの書物への意見感想などが具体的に語られていて、いつごろから、どのような動機で歴史研究を始め、どのように学問を深めていったかの経過を知ることができるし、この遺稿のほかに、『未定原稿 私考日本歴史 (経済編)』という外題〈ゲダイ〉の草稿の内容があり、私家版『日唐令の研究』とあわせ見ることによって、その学問研究の成果の一端をうかがうことができる。ここでは、これらから看取された加藤の学問の特色と思われる点に限り、かつ私の理解できる範囲のみについて、卑見を述べることにしたい。
 第一に、加藤がたいへん早熟で、その好学の精神がつとに少年期から燃えあがっているのが注目される。小学校五年生のときに北垣恭次郎『国史美談』(このシリーズは、一九二〇年代末期に小学生向きの日本史読物のベストセラーであった)「に感化せられて、歴史を愛好するようになり」、一九二六年岡崎中学校に入学後、慢性胃腸カタルで休学、その間に本多浅治郎『西洋史講義』・西村為之助『東洋史精義』「を読んで、益々歴史に対する興味を深めた」。「本格的に史学の研究に着手したのは、昭和六年(一九三一年)で、丁度、年齢一九歳の時であつた」。「『氏族制度の崩壊と官僚制度の発生と』・『大化の改新の社会政策的意義』・『隋麗戦争』等の草稿に着手した。其の頃、津田〔左右吉〕博士の諸論著の影響を受けて、信用できる最小限度に於いて歴史を書くよう心掛けるようになつた。又滝川〔政次郎〕博士の『法制上より見たる日本農民の生活』に依つて、奈良朝時代の社会状態の暗黒面を知った結果、上古史そのものの本質に就いて深い暗示を与えられた」。『日唐令の研究』出版に当り、はるばる「満州国」まで出かけて滝川の序文を求めたのは、このように滝川の律令制研究から多くを学んでいたことによるものであろう。
 一九三二年には、津田左右吉の著作に関し、津田宛に数回にわたりその考証に関し質問の書簡を発し、津田は四月九日付、六月二日付で返信を加藤に送っている(佐藤氏提供の二通のコピーによる。なお一通の書簡があること前述のとおり)。前者は二百字詰原稿用紙八枚、後者は同一四枚にわたり字枠を無視し細字でギッシリ書き綴られた長文のものであって、津田の未公開の遺文として貴重な価値ある史料と思うが、社交性に乏しかった津田が、この無名の年少研究者に対し、これだけ懇切な書簡を発しているのは、加藤の学問への真摯で熱烈なとりくみに感動したからにちがいない。四月九日付津田書簡の冒頭には、「何よりも先づ拙著を綿密に御読み下されたことを著者として感謝します」と書き出されており、六月二日付のは、冒頭で健康を損じたことと手のひけない仕事のために三通の書簡に接しながら返信の遅れたことをわびたうえで、「種々御研究、特に史料の精細なる吟味をおこゝろがけになってゐるやうに思はれますので、よそながら喜ばしく存じます」と記され、それぞれのあとに加藤の提起した疑問に対し、きわめて精細な実証的見解が詳しく述べられている。当時記紀研究の最高峰を極めていた津田から、これだけ評価され、これほどに行き届いた回答を書く気持に導いた加藤の研究の水準が間接に窺われると言えるのではあるまいか(津田は早稲田大学教授であり東京帝太の東洋史学の教授たちと親交があったけれど、その記紀研究はアカデミズム「国史学」界で必ずしも十分に評価されていたわけではなく、津田もまた広い意味では「民間史学」に属する研究者としての側面があり、同じ在野の研究者加藤と相通ずる面もあったと思われるが、加藤の問題提起に深く鋭い内容がふくまれていなかったならば、津田がこれほど積極的な対応をするはずのなかったことも、またたしかである)。
 加藤が、『日本上古史』に日記に拠って列記しているところによれば、次のような草稿を順次執筆している。
 一九三三年 『隋麗戦争』(前年より)・『推古紀十一年の記載に対する卑見』・『再興任那に対する卑見』(前稿の改題)・『氏族状態』(先年の続稿)・『隋末唐初の大動乱と突厥』
 一九三四年 『氏族状態』(昨年の続稿)
 一九三五年 同右
 一九三六年 『氏族状態』(昨年より)・『蘇我ノ大臣の執政時代』・『大倭朝廷の衰微時代』・『大倭朝廷の興隆時代』・『日本帝国の建設』・『筑紫諸国の興亡』・『陳帝国の滅亡』・『隋帝国の建設と高祖文皇帝の初政と』・『隋帝国の公法』
 一九三七年 『氏族状態』『筑紫諸国の興亡』(ともに昨年より)・『石器時代の花綵列島』・『上古中期の日本』・『上古末期の日本』・『上古に於ける文化』・『序説』・『隋帝国の公法』(昨年より)・『隋帝国の私法』・『隋帝国の極盛時代』
 一九三八年『石器時代の花綵列島』(昨年より)・『無人島時代の花綵列島』・『日本上古史序説』・『日本上古史年表』
 加藤は、『日唐令の研究』に続き『百済戦争』を、遠い将来に『中古前期の日本』を公刊する予定であることを記し、『日本上古史』は『中古前期の日本』に対する備考として編集したもので公表するつもりはない、とも記している。『日本上古史』で知られる研究歴は『日唐令の研究』出版直後までのようであるが、右執筆草稿名を一覧しただけでも、七世紀を中心とする日本・隋の政治史法制史からさかのぼって石器時代にまで目を向け、すこぶるスケールの大きな研究に没頭していたのをうかがうことができよう。私は偶然にも加藤と同年の生れであり、右の加藤の研究期間はちょうど私の旧制高校三年から大学卒業の翌年までの時期にわたっている。私をふくめて当時大学の史学科の学生たちの実態と照し合わせてみると、きわめて少数例外の人を除き、たいていの学生は、せいぜい三年生(旧制大学は三年で卒業)になった春、右の期間でいうと一九三六年の春になってあわてて卒業論文のテーマをきめ、その年の十二月までに書き終って提出するのがふつうであり、一九三三年から論文を書き続けている人など皆無にちかかった。大学は必ずしも専攻学科を勉強するだけの場所ではなく、在学中広く多方面の教養を吸収することも大事であるから、大学生が加藤ほど論文執筆に専念していなかったことをすべてマイナスとして評価するのではないけれど、専門研究に関するかぎり大学で学ぶ学生よりも、独学の加藤のほうがはるかに早くから継続的かつ多角的に専攻テーマについて研究を深めていたことだけはまちがいなく、その好学の念の旺盛な点において大学の怠惰な学生と比べたならば天地の差があったと言うことさえできよう。【以下、略】

 第四節「加藤の歴史研究」の後半は割愛する。また、このあとの第五節「加藤の歴史観と社会思想」、第六節「加藤泰造再評価の意義」も割愛する。
 明日は、この加藤泰造という孤高の在野史家について、若干の補足をおこなう。

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佐藤明夫氏のプリント「孤高の在野史家―加藤泰造について」

2019-04-08 04:09:32 | コラムと名言

◎佐藤明夫氏のプリント「孤高の在野史家―加藤泰造について」

 家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)から、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章を紹介している。本日は、その三回目。昨日は一八八~一九一ページのところを紹介したが、本日は一九三~一九六ページのところを紹介する。
 なお、本日の引用部分に関しては、〔 〕内は、礫川による注である。

  三 加藤泰造の生涯

 佐藤〔明夫〕氏が加藤を埋没から発掘するまでの経過は上記のとおりであるが、佐藤氏が君枝夫人からの聞き取りと遺稿の自伝的部分とから加藤の略歴と出自とを略説した『孤高の在野史家――加藤泰造について――』『加藤家について』と題する二枚のプリントと、私に提出された加藤の遺稿の一部のコピーによって判明した加藤の生涯、特に研究歴と、日の目を見ないまま今日にいたった遺稿からうかがわれる加藤の歴史観とを、できるだけ簡潔に紹介してみたい。本来ならば、私自身が加藤家を訪れ残された資料の全部を閲覧させていただいた上でこれを書くべきであるけれども、老齢で健康不調の私にはその力がないため、すべて佐藤氏の提供にかかる資料のみによった。したがって、以下の所論は、もちろん私の取捨選択と評価とを介しての認識で全責任は私にあるが、実質的には佐藤氏との共同研究にちかい性格を有することを重ねて明記し、改めて深甚な感謝を表する次第である。
 まず加藤泰造の生涯から。加藤家は『家系図』によれば、先祖は加藤嘉明の別家であったが、郷士となり、江戸時代には幡豆〈ハズ〉郡三和村〈ミワムラ〉下永良〈シモナガラ〉で代々医を業としていた。泰造は一九一三年に明治の子として生れ、生後ただちに伯父準弥の養子となった。準弥・明治・郁造の三人兄弟はいずれも東京帝国大学医学部卒業のエリート医師で、養父準弥は開業医として農地約六町歩・借家数十軒の資産を形成した豪家であったから、泰造は、幼少時に養父実父を失いながら、養母と豊かな資産とに恵まれて成長し、自分の好きな道に専念できたのである(補注1)。西尾中学校で百数十人中、一三番ないし二二番の上位の成績を得、学力でも経済的にも最高学府への進学の条件をもっていたにもかかわらず、「上級学校の試験勉強を辛く思つた私は、卒業後、家庭で著述に従事しようと決意し」、独学で少年期から好む歴史の研究に没頭する道を選んだ。「中学校時代に、卒業後、何時か適当な時に、中等教員の検定試験でも受けて見ようかと思つたこともあつたが、段々深く歴史を調べて見ると、寧ろ研究することに興味を感じ、また、自分自身が地主で土地を離れられない関係もあつたから、検定試験の方の勉強はしなかつた」。毎月本屋に十数円(当時の貨幣価値ではきわめて高額である)を支払うほど多くの書物を購入した(大学ノートに蔵書目録の記載がある)ほか、近くの岩瀬文庫に通ってその蔵書をも利用し、尨大な数・量の古典と学術書とを読破している。
 加藤の独学は、自己の主体的決断により受験勉強を拒否して選びとった道であったのである。もちろん就職を必要とせず研究のみに専念していれば足りる資産家であったという条件に恵まれていたためであるけれど、一つの見識と言ってもよいのではなかろうか。
 一九三五年に君枝と結婚し、三男一女を儲けた。戦争末期に三回も兵役による召集を受け、初め二回は診察の結果即日帰郷となったが、一九四五年春の三回目の召集では、千歳三二六二四部隊に入隊、佐賀県松浦郡で敗戦を迎え復員、九月に研究を深めようとさる先生に師事する機会を求めて京都大学付属図書館に就職、単身赴任、その直後の十月四日京都の下宿先で心臓マヒで急死した。享年三十二歳。詳細な死因の不明のままみだりに臆測を逞しくするのは慎まねばならないが、少年時代から虚弱であり、はじめ二回の応召のときも心臓脚気・肺浸潤の診断を受けたというから、短期間ながら兵営での激変した生活が肉体をそこね、それに不馴れな下宿生活のなかで致命的な結果が生じたのではなかったであろうか。もし私の推定がいくらかでも当っているとすれば、加藤もまた戦争犠牲者の一人と言うことができ、戦争の非情を改めて痛感しないではいられない。
 「家族団らんや趣味をもつこともなく、犬を連れての散歩と池のコイにえさをやるのが、気ばらしであった」(佐藤氏『孤高の在野史家』、君枝夫人からの聞き取りによるのであろう)ほどに、学問研究一筋に生きてきた加藤は、ただ一冊の私家本単行本(補注2)と多くの未刊遺稿とに全精力を傾注しながら、ついに学界に登場する機会を得る日もなく、短い生涯をとじたのであった。敗戦後、きびしいタブーから解放され学問の自由の保障を得た日本史学の急速な研究の展開を回顧するとき、平和の到来後僅々一月あまりで烈々たる好学心も空しく夭折した加藤の不幸は、ひとり加藤とその遺族の不幸にとどまらず、日本の史学界の不幸でもあったのではなかろうか。
(補注1) 前節補注所引神谷氏〔「二 佐藤明夫氏による発掘の経過」の補注に、西尾市史編纂室の神谷保正氏の名前がある〕により、泰造の遺子伊蘇志の一九五〇年の中学校二年生のときの作文「終戦後のわが家」が西尾中学校の文集『イトスギ』に掲載され、その重要部分が『西尾市史』に転載されていて、それによって戦前の加藤家の資産の具体的状況を知ることができた。
(補注2) 本稿を『信州白樺』に発表したのち、菊池克美氏の示教により、加藤泰造には、『日唐令の研究』の外に、『唐朝史の研究』と題し、一九四〇年四月京都の彙文堂書店発売の活字本著作のあることを知った。同書は、「楊貴妃」「古代日本・漢土の収穫高」「燉煌戸籍」の三編の論文を集めたもので、『日唐令の研究』のような、体系的研究書ではないが、加藤の古代中国史についての知識を窺うには足りる。【以下、次回】

 以上は、「三 加藤泰造の生涯」の全文である。なお、(補注1)中の「西尾中学校の文集『イトスギ』」は、正確には、「西尾町立西尾中学校の文集『イトスギ 第二号 1952.3』」である。

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昭和20年10月14日、京都市岡崎西天王町にて死去

2019-04-07 00:43:30 | コラムと名言

◎昭和20年10月14日、京都市岡崎西天王町にて死去

 家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)から、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章を紹介している。本日は、その二回目。昨日は一八二~一八五ページのところを紹介したが、本日は一八八~一九一ページのところを紹介する。

 戦争が激化し、日本本土も戦場となって国民生活は混乱し、知人の安否もさだかでなくなった。戦後およそ四十年、杳〈ヨウ〉として消息の聞えなくなった加藤のことを、私はいつも気にしながら、社会情勢の激変後に尋ね出す自信もなくそのままに過してきたが、おそらくもはやこの世にないのではないかと案ぜざるを得なかった。私も老齢となり、残された時間は少なくなった。自家出版の著作一冊をのこして消息を絶ったこの篤学者を私が世に紹介しないで終ったならば、永久に忘れ去られてしまうかもしれない。こう考えて、私は、西尾に近い半田市に居住し高等学校社会科の教育に当っている佐藤明夫氏が地域の歴史掘り起こしの活動をしていられるのを知っていたので、地域史研究の一環として加藤泰造についての調査を依頼してみようと思いついた。私の依頼を快諾された佐藤氏の努力のおかげで、はじめて加藤の安否・経歴ばかりでなく、未刊の原稿まで大量に発見されたのである。不幸にも私の案じていたとおり加藤は敗戦直後に世を去っていた。加藤と私とは永久に相見る機会のなかった学友として終始し、永く幽明境を異にしてしまった間柄であることが判明したのであった。
 近現代史でも、少しく長期間を経過すると不明となってしまう事実が少なくない。ことに十五年戦争末期から戦後の混乱期を経た後には、それ以前の事実の調査はしばしば困難をきわめる。加藤の人物と業績とをどのようにして発掘できたか、それ自体現代史研究の一範例となると思うので、直接に発掘者佐藤氏の文章によってその経過を語っていただくことにしたい。

  二 佐藤明夫氏による発掘の経過

 私の依頼に応じた佐藤氏からの報告の第一報は、一九八三年九月十四日付の次のハガキとしてもたらされた(関係のない部分は省略する。以下同じ)。
《お尋ねの加藤泰造氏の件ですが、名古屋歴史科学研究会関係の古代史の研究者も全く知らないそうです。西尾市史にも記載されていません。
 西尾市役所社会教育課に依頼したところ、昭和二十年十月十四日に京都市岡崎西天王町十五にて死去されたことだけ判明しました。
 もう少し時間をいただいて、微力ながら調べてみたいと思います。地域のほり起しにもなりますので。(前後略)》
 佐藤氏がついに加藤の遺族を探し出し、夫人に面会し、故人の多くの遺稿を発見したことが、同年十月二十八日付書簡により報ぜられた。
《先般御依頼をうけた加藤泰造氏の件ですが、学校祭、修学旅行などの校務に追われ、調査がおくれましたが、かなり具体的なことが判明いたしました。
 当初市役所に問合せても死亡年月日以外は知らせてもらえなかったのですが、もしや旧制西尾中の卒業ではと考え、現西尾高校の同窓会に問合せたところ、昭和六年の西尾中学第一回卒業生でした。さらに奇縁にもかなり親しかった同級の亀山厳氏が半田に居住されていたことから、同級の方数人に問い合せ、後は糸をほぐすように御遺族のこともわかった次第です。
 十月二十六日に勤務が午前でしたので、西尾市に出かけて、君枝夫人にお会いし、泰造氏の生いたちや人柄をうかがい、幸いに残っていた土蔵(現在長男の以曽志氏宅)の本箱にある約一〇〇冊のノート類の資料を見せていただくこともできました。
 時間も限られ、また私の力不足から不充分な調査しかできておりませんが、とりあえず現在までに知りえたことと資料の一部をコピーしてお送りします。
 なお昭和二十年に泰造氏が召集をうけ、入隊するさいに、君枝夫人に遺言のような形で、自分に、もしものことがあったら、お世話になったこの方々にあいさつと礼状を出してくれと五人ほどの氏名・住所を書いたメモを渡されたそうです。夫人の話によれば「その中でも家永三郎先生と滝川政次郎先生の名前は忘れたことがなく、ずっと気にかけていたのですが、戦後の激動と主人の急死にとりまぎれ、今にいたってしまいました。無音にすぎたことをくれぐれもおわびして下さい」とのことでした。名望資産家の若夫人から一挙に混乱の社会に投げ出され、四人の子どもをかかえ、大変な苦労をされ、蔵書なども全て処分せざるをえなかったそうです。「日唐令の研究」は一冊のみ残っているそうです。(愛知県内の図書館にもありません)私の訪問や調査をとても喜んでおられました。
 泰造氏の業績については、私自身には分析評価する力がありませんが、資料を散見しただけでも、実証的、科学的な、しかも未来を展望する研究態度であり、ユニークで篤志な研究者であったように思われます。多くの原稿があり、第二、第三の出版を目標にしていたようです。戦争による障害と薄命が惜しまれ、正当な評価と紹介がぜひなされてほしいという感を深くしております。
 稿本ノートなど十点あまりお借りしてきましたので、先生が御希望になるなら、宅急便などでお送りいたします。(資料目録も折をみて作るとよいと考えていますが)また、これこれについて、調べろということがありましたら、遺族への電話問合せもできますので、遠慮なく御指示ください。
 まずは取り急ぎ御報告まで。(下略)》
 このときと、次いで同月三十一日付便とに封入された佐藤氏の調査結果プリントならびに加藤遺稿の一部の大量のコピーによって、私ははじめて『日唐令の研究』の生み出された主体的基盤と『日唐令の研究』以後における著者の研究の進展の一端を知ることができたのである。【中略の上、次回へ】

 文中、「長男の以曽志氏」は原文のまま。正しくは「長男の伊蘇志氏」である。

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家永三郎「忘れられた在野史学者加藤泰造」

2019-04-06 03:10:41 | コラムと名言

◎家永三郎「忘れられた在野史学者加藤泰造」

 一週間ほど前、神田神保町の歩道上で、家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)という本を入手した。古書価二〇〇円。読んでみて驚いたのだが、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章が収録されていた。
 この加藤泰造という在野史学者の存在は、数年前、偶然の機会で知った。その後、『独学で歴史家になる方法』(日本実業出版社、二〇一八)で、「学問狂・加藤泰造」として紹介させていただいたこともある。しかし、家永三郎が、すでにこうした形で紹介していたことは知らなかった。ちなみに、同文章の初出は、『信州白樺』の第六四号(一九八五年五月)である。
 同文章は、三八ページ分もある長いものある。全文を紹介するわけにはいかないので、以下に、その主要な部分を紹介させていただきたい。なお、〔 〕内は、家永による補注である。

   忘れられた在野史学者加藤泰造

  一 『日唐令の研究』

 一九三七年九月のある日、表紙に『日唐令の研究 法学博士滝川政次郎序文 加藤泰造著述』との文字のある箱入り洋装二九五ページの一冊の活字本が私の許に送られてきた。奥付に「昭和十二年九月二十日発行【非売品】編輯著作兼発行者 加藤泰造 愛知県幡豆郡西尾町大字大給一一〇番地」とあり、まったく未知の人であるが、地方在住の篤学者の自費出版書であることを示している。巻頭に滝川政次郎の序文があり、「大宝養老の令と唐令との比較研究については、従来宮崎〔道三郎〕、中田〔薫〕、三浦〔周行〕の諸先生を初めとして仁井田陞氏及び余等の論著があるが、近江令と隋唐令との比較研究を専ら行へるは、この書が初めてである。(中略)著者はよく丹念に日本書紀の中から近江令の逸文と思はれるものを捃摭して、これと唐令との比較研究を行つてゐる。著者は学問の中心地から遠く離れて、只管書物によつて独り研究を続けてゐるから、主題の選び方や論述の重点が学界の関心に触れないのは、蓋し巳むを得ない。併し(中略)本書が真面目なる研究の結晶であることは、余の認めて憚らないところである。この著の出版が著者の中央学界進出の機縁とならんことを念願」する旨、記されている。内題には「特に開皇令・大業令・武徳令・貞観令と大化ノ詔乃至近江令との継受的関係に就いて」というサブタイトルがついているので、本書の研究テーマがただちに理解できる。内容は、きわめてたんねんに散逸した彼此の令文の復原につとめながら、比較的材料の多い開元両令や養老令を対象に加え、それらの諸令間の継受関係をおびただしい史料原典と先行研究の成果を援引しつつ進めた実証的研究でみたされている。
 私はこの年三月に大学を卒業して研究者生活の第一歩をふみ出したばかりの無名の青年であったのに、どうして私の住所氏名を知ってこの書を贈られたのか不明であるけれど、当時の私は、七世紀から八世紀半にかけての仏教文化に関する卒業論文を提出して学校を出、卒論の各部分を増補して独立の論文にまとめ逐次雑誌に発表していたので、法制史の方面、ことに唐令と日本令との比較などは専門外ながら、本書所見の史料については若干の知識もあったところから、早速いささか意見を加えた礼状を発送したようである(私の加藤宛書簡は、案文を残しておらず、内容も記憶していない)。これに対し、同年九月二十八日付便箋三枚の返事が送られて来、これを最初に加藤との書信の往復が一九三九年まで約二年間にわたり続いた。今私の手許には、右三七年九月二十八日付書状(書状は、封筒を保存していないので、文面から年を推定した。以下同じ)・同二十九日書状・同年十月二日付葉書・同二十日付葉書・一九三八年十月二十二日付書状・同十一月二十一日付書状・同十二月二十七日付書状・一九三九年十月四日付書状・同十日付葉書の合計九通の書簡が保存されている。その後の書簡がないところから考えると、その後は書信の往復が絶えたのであろう。爾来一九八四年初めにいたるまで加藤の消息は全然不明であった。僅か二年間の短期間の交信にとどまったとはいえ、加藤の書簡は、ほとんど世俗の話題にふれずすべて学問研究に関する内容にみたされていて、学問の道を歩みはじめていた私に対し、学問研究に全身を投入している加藤の情熱がひしひしと感じられ、怠惰な私にとりこよない刺戟となったのである。その一例を次に紹介する。
《再啓、小生、拙著『日唐令の研究』二四三頁に於いて、金石粋編杯に、魏□代の俗人の維那の見えるところから、妄りに臆測して唐代の維那も俗人? の如く申し候へ共、大誤に付き、訂正仕り候。コレクション=ペリヨ、二三一四、大方広仏花厳経惣目巻尾(史林21ノ3那波助教授唐鈔本唐令の一遺文五八五頁引用)及び羅振玉氏蔵(?)僧明哲牒(渉州文録補25丁表)に依れば、唐代の都維那・維那は、明白に僧にて有之候。従って、仏祖統記に見える顕慶二年の西明寺の維那、懐素も僧なりと存ぜられ候、なほ、拙著『日唐令の研究』一二頁に於いて、永徽令の原文的逸文は全く伝はらずと申し候へ共、那波助教授前掲御論文に依れば、燉煌より、永徽令の東宮王府職員令の残巻が出土致し居り候に付き、訂正致し候。重ねて拙著の粗漏に慙ぢ入り候、敬具》 (三七年十月二十日付葉書全文。読点原文どおり)
 一枚の葉書に、実証的精神と自著の不備を率直に認め真実を追求する謙虚で誠実な学究の熱意がみちあふれているではないか。【中略の上、次回へ】

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