◎天井裏から大判51枚ほか1451枚の古金銀が
このブログで、西尾中学校の文集『イトスギ』(一九五二年三月)を紹介したのは、二〇一七年の一月九日から一一日までの三日間であった。加藤米子さんの作文「地震」、土川典子さんの作文「かたみ分け」、加藤伊蘇志さんの作文「終戦後のわが家」の順に紹介した。
三日目に紹介した「終戦後のわが家」は、非常に長い作文だったので、紹介は、「2、父のこと」にとどめた。ここで言う「父」とは、「孤高の在野史家」加藤泰造のことである。今回、この作文を読み直してみると、「1、家の日記」にも、加藤泰造に関する重要な情報が含まれていることに気づいた。
以下に、同作文の導入部分、および「1、家の日記」を紹介させていただきたい。
一九五一年度「日本綴方の会」全国最高位当選
読売新聞主催全国綴方の会入選
児童文学者協会編「中学生作文読本下」掲載
終 戦 後 の わ が 家 三の五 加 藤 伊 蘇 志
思えば長い五年であつた。僕は母たちと別れてもう五年にもなる。その五年間、僕の家では僕と祖母は西尾で留守居、母と弟と妹の三人は三和〈ミワ〉で百姓というふうに、二里も離れて別々に、生活の苦しさとたたかつて来たのだ。しかも、もうすぐみんないつしよになれる。僕はうれしい。そしていろいろ母の苦労や、家のことが考えられてきてならないのだ。それで僕は僕の家のことについてかいてみようと思う。
なぜ僕たち一家がこの五年間、二つに分れ、僕が母たちと別れてくらさねばならなかつたのかといえば、終戦の結果農地改革がおこなわれ家が一度に貧乏になつたことと、祖父と父の二代にわたる生活の立て方に原因があるからである。
1、家 の 日 記
数日前のひまな日のことてある。祖母がお使に出たあと僕は留守居をしていた。何気な祖母の室へ入り、本だんすを開いてみたら明治三十年頃からの、もう茶色に変色してしまつた細長い和とじの日記が何冊も出て来た。五糎ほどの厚さを持つ、二つ折りの日本紙に少しくずれたつづけ字が綴られている。墨の色も昔のままで、手にのせてみると、ずつしりと重かつた。祖父と父の書いたものらしい。僕は興味にかられて一気に二十余年の記録を読み通した。
日記によれば、日清戦争の頃にはまだ僕の家の本宅は三和村にあり、祖父の順彌【じゆんや】が軍医少尉となつた時に西尾へ移住したのである。当時は、年貢、借家賃のほかに政府から恩給がさがつたので、女中三人やとつてそうとう楽にくらしていたらしい。明治三十七年〔一九〇四〕日露戦争が起つた。その時、祖父は軍医として満洲に出た。そして、はじめは朝鮮の京城で勤務したが間もなく、平壤、新義州、奉天、長春まで野戦砲や兵隊の後を追つて行つた。祖父の役目は、負傷者を敵に見つからない所で手あてをして、担架にのせて近くの野戦病院へ送る役目であつた。祖父は戦争が終つて大尉で家に帰つて来た。その後数年たって「チューキ」にかかり、大正五年〔一九一六〕十一月二十四日に死んだ五十七才である。
その時、父の泰造は二才になつていた。父は大正二年〔一九一三〕三月二十三日に生れ、小学校、中学校を卒業して独学するようになつた。その為本も多く買つた。父は幼時から弱かつたらしく温泉や海岸へ療養に行つた記事が所々に見える。
その頃からしばらく三和の本宅は空家であつたらしく、父は昭和十二年〔一九三七〕にその家をこわして西尾の家の今の座敷を作つた。その時に大判小判が出たらしい。あとで当時の新聞を見せてもらつたら「愛知県幡豆郡西尾町大給加藤泰三さんは、同郡三和村大字下永良〈シモナガラ〉字藤下〈フジシタ〉三十三にある空家になつている本宅を、西尾町に移すことになり、十二日朝、大工や人夫を雇つて取りこわしにかかつたが、午前十時頃座敷八畳の間と………天井板を外すと、ボロ切れに包んだものがあらわれ、中から大判、小判がざくざくと飛び出た。金の大判五十一枚、一朱金四百枚、二朱金七百枚、一朱銀三百枚、合わせて千四百五十一枚、お金にして約三万円………。」と書いてあつた。祖母に聞いてみると、祖父の順彌の先代宗龍【そうりゆう】が家督をゆずる時しまつておいたものらしい。その時出したいろいろなものはみな、父が馬鹿正直で太平洋戦争に寄附してしまつた。今それがあつたら、どんなにみんなが楽にくらせるのだろうと思えてならないのだ。
さらに日記をくつて行くと、母の嫁入りの時の記事もある。母君枝は、昭和十一年〔一九三六〕三月二十日、二十三才で父の所へ来ている。父より三才若い。その頃、父のからだが弱つていたので、一家そろつて奈良へ行つたり、長野の善光寺へ行つたことも書いてある。
僕はそれを読みながらいろいろと僕の知らない祖父や父たちの日常生活を頭に浮べてみた。また当時はどうして、そんなに楽に生活ができたのだろうかという疑問が湧いて来た。そこで僕は、その日記の中から、当時の家の収入をしらべてみた。それによると、年貢が米で三百俵(田一反につき三俵一斗、畑一反につき二俵三斗)の他に祖母への扶助料が年千百五十円と借家賃が入つている。その収入源は三和にある田六町、畑八反、山林一町、借家二十軒内外である。僕はただ驚くばかりだつた。
こうしてみると、僕の先祖たちの生活は、先祖伝来の土地と、僕の知らない昔の小作の人たちの働きによつて守られていたのである。僕はしばらく目をとじた。そして僕の記憶に残る細く青白い父の手と、五年間のはげしい百姓労働によつてかしくれだち、あかぎれにふくらんでしまつた母の手とを比べてみた。昔、僕の家の田を耕していた何十人かの人々の手を思い、生活を思つた。僕の心は暗かつた。
この作文は、「1、家の日記」、「2、父のこと」、「3、農地改革。財産税。相続税」、「4、その後のこと」の四章からなっている。第二章は、すでに紹介した。第三章、第四章の紹介は割愛する。
なお、家永三郎の「忘れられた在野史学者加藤泰造」によれば、この加藤伊蘇志さん作文は、『西尾市史』に転載されているという(当ブログ四月八日のコラム参照)。