礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎「忘れられた在野史学者加藤泰造」

2019-04-06 03:10:41 | コラムと名言

◎家永三郎「忘れられた在野史学者加藤泰造」

 一週間ほど前、神田神保町の歩道上で、家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)という本を入手した。古書価二〇〇円。読んでみて驚いたのだが、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章が収録されていた。
 この加藤泰造という在野史学者の存在は、数年前、偶然の機会で知った。その後、『独学で歴史家になる方法』(日本実業出版社、二〇一八)で、「学問狂・加藤泰造」として紹介させていただいたこともある。しかし、家永三郎が、すでにこうした形で紹介していたことは知らなかった。ちなみに、同文章の初出は、『信州白樺』の第六四号(一九八五年五月)である。
 同文章は、三八ページ分もある長いものある。全文を紹介するわけにはいかないので、以下に、その主要な部分を紹介させていただきたい。なお、〔 〕内は、家永による補注である。

   忘れられた在野史学者加藤泰造

  一 『日唐令の研究』

 一九三七年九月のある日、表紙に『日唐令の研究 法学博士滝川政次郎序文 加藤泰造著述』との文字のある箱入り洋装二九五ページの一冊の活字本が私の許に送られてきた。奥付に「昭和十二年九月二十日発行【非売品】編輯著作兼発行者 加藤泰造 愛知県幡豆郡西尾町大字大給一一〇番地」とあり、まったく未知の人であるが、地方在住の篤学者の自費出版書であることを示している。巻頭に滝川政次郎の序文があり、「大宝養老の令と唐令との比較研究については、従来宮崎〔道三郎〕、中田〔薫〕、三浦〔周行〕の諸先生を初めとして仁井田陞氏及び余等の論著があるが、近江令と隋唐令との比較研究を専ら行へるは、この書が初めてである。(中略)著者はよく丹念に日本書紀の中から近江令の逸文と思はれるものを捃摭して、これと唐令との比較研究を行つてゐる。著者は学問の中心地から遠く離れて、只管書物によつて独り研究を続けてゐるから、主題の選び方や論述の重点が学界の関心に触れないのは、蓋し巳むを得ない。併し(中略)本書が真面目なる研究の結晶であることは、余の認めて憚らないところである。この著の出版が著者の中央学界進出の機縁とならんことを念願」する旨、記されている。内題には「特に開皇令・大業令・武徳令・貞観令と大化ノ詔乃至近江令との継受的関係に就いて」というサブタイトルがついているので、本書の研究テーマがただちに理解できる。内容は、きわめてたんねんに散逸した彼此の令文の復原につとめながら、比較的材料の多い開元両令や養老令を対象に加え、それらの諸令間の継受関係をおびただしい史料原典と先行研究の成果を援引しつつ進めた実証的研究でみたされている。
 私はこの年三月に大学を卒業して研究者生活の第一歩をふみ出したばかりの無名の青年であったのに、どうして私の住所氏名を知ってこの書を贈られたのか不明であるけれど、当時の私は、七世紀から八世紀半にかけての仏教文化に関する卒業論文を提出して学校を出、卒論の各部分を増補して独立の論文にまとめ逐次雑誌に発表していたので、法制史の方面、ことに唐令と日本令との比較などは専門外ながら、本書所見の史料については若干の知識もあったところから、早速いささか意見を加えた礼状を発送したようである(私の加藤宛書簡は、案文を残しておらず、内容も記憶していない)。これに対し、同年九月二十八日付便箋三枚の返事が送られて来、これを最初に加藤との書信の往復が一九三九年まで約二年間にわたり続いた。今私の手許には、右三七年九月二十八日付書状(書状は、封筒を保存していないので、文面から年を推定した。以下同じ)・同二十九日書状・同年十月二日付葉書・同二十日付葉書・一九三八年十月二十二日付書状・同十一月二十一日付書状・同十二月二十七日付書状・一九三九年十月四日付書状・同十日付葉書の合計九通の書簡が保存されている。その後の書簡がないところから考えると、その後は書信の往復が絶えたのであろう。爾来一九八四年初めにいたるまで加藤の消息は全然不明であった。僅か二年間の短期間の交信にとどまったとはいえ、加藤の書簡は、ほとんど世俗の話題にふれずすべて学問研究に関する内容にみたされていて、学問の道を歩みはじめていた私に対し、学問研究に全身を投入している加藤の情熱がひしひしと感じられ、怠惰な私にとりこよない刺戟となったのである。その一例を次に紹介する。
《再啓、小生、拙著『日唐令の研究』二四三頁に於いて、金石粋編杯に、魏□代の俗人の維那の見えるところから、妄りに臆測して唐代の維那も俗人? の如く申し候へ共、大誤に付き、訂正仕り候。コレクション=ペリヨ、二三一四、大方広仏花厳経惣目巻尾(史林21ノ3那波助教授唐鈔本唐令の一遺文五八五頁引用)及び羅振玉氏蔵(?)僧明哲牒(渉州文録補25丁表)に依れば、唐代の都維那・維那は、明白に僧にて有之候。従って、仏祖統記に見える顕慶二年の西明寺の維那、懐素も僧なりと存ぜられ候、なほ、拙著『日唐令の研究』一二頁に於いて、永徽令の原文的逸文は全く伝はらずと申し候へ共、那波助教授前掲御論文に依れば、燉煌より、永徽令の東宮王府職員令の残巻が出土致し居り候に付き、訂正致し候。重ねて拙著の粗漏に慙ぢ入り候、敬具》 (三七年十月二十日付葉書全文。読点原文どおり)
 一枚の葉書に、実証的精神と自著の不備を率直に認め真実を追求する謙虚で誠実な学究の熱意がみちあふれているではないか。【中略の上、次回へ】

*このブログの人気記事 2019・4・6

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 国家儀礼としての学校儀式・... | トップ | 昭和20年10月14日、京... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事