礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

佐藤明夫氏のプリント「孤高の在野史家―加藤泰造について」

2019-04-08 04:09:32 | コラムと名言

◎佐藤明夫氏のプリント「孤高の在野史家―加藤泰造について」

 家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)から、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章を紹介している。本日は、その三回目。昨日は一八八~一九一ページのところを紹介したが、本日は一九三~一九六ページのところを紹介する。
 なお、本日の引用部分に関しては、〔 〕内は、礫川による注である。

  三 加藤泰造の生涯

 佐藤〔明夫〕氏が加藤を埋没から発掘するまでの経過は上記のとおりであるが、佐藤氏が君枝夫人からの聞き取りと遺稿の自伝的部分とから加藤の略歴と出自とを略説した『孤高の在野史家――加藤泰造について――』『加藤家について』と題する二枚のプリントと、私に提出された加藤の遺稿の一部のコピーによって判明した加藤の生涯、特に研究歴と、日の目を見ないまま今日にいたった遺稿からうかがわれる加藤の歴史観とを、できるだけ簡潔に紹介してみたい。本来ならば、私自身が加藤家を訪れ残された資料の全部を閲覧させていただいた上でこれを書くべきであるけれども、老齢で健康不調の私にはその力がないため、すべて佐藤氏の提供にかかる資料のみによった。したがって、以下の所論は、もちろん私の取捨選択と評価とを介しての認識で全責任は私にあるが、実質的には佐藤氏との共同研究にちかい性格を有することを重ねて明記し、改めて深甚な感謝を表する次第である。
 まず加藤泰造の生涯から。加藤家は『家系図』によれば、先祖は加藤嘉明の別家であったが、郷士となり、江戸時代には幡豆〈ハズ〉郡三和村〈ミワムラ〉下永良〈シモナガラ〉で代々医を業としていた。泰造は一九一三年に明治の子として生れ、生後ただちに伯父準弥の養子となった。準弥・明治・郁造の三人兄弟はいずれも東京帝国大学医学部卒業のエリート医師で、養父準弥は開業医として農地約六町歩・借家数十軒の資産を形成した豪家であったから、泰造は、幼少時に養父実父を失いながら、養母と豊かな資産とに恵まれて成長し、自分の好きな道に専念できたのである(補注1)。西尾中学校で百数十人中、一三番ないし二二番の上位の成績を得、学力でも経済的にも最高学府への進学の条件をもっていたにもかかわらず、「上級学校の試験勉強を辛く思つた私は、卒業後、家庭で著述に従事しようと決意し」、独学で少年期から好む歴史の研究に没頭する道を選んだ。「中学校時代に、卒業後、何時か適当な時に、中等教員の検定試験でも受けて見ようかと思つたこともあつたが、段々深く歴史を調べて見ると、寧ろ研究することに興味を感じ、また、自分自身が地主で土地を離れられない関係もあつたから、検定試験の方の勉強はしなかつた」。毎月本屋に十数円(当時の貨幣価値ではきわめて高額である)を支払うほど多くの書物を購入した(大学ノートに蔵書目録の記載がある)ほか、近くの岩瀬文庫に通ってその蔵書をも利用し、尨大な数・量の古典と学術書とを読破している。
 加藤の独学は、自己の主体的決断により受験勉強を拒否して選びとった道であったのである。もちろん就職を必要とせず研究のみに専念していれば足りる資産家であったという条件に恵まれていたためであるけれど、一つの見識と言ってもよいのではなかろうか。
 一九三五年に君枝と結婚し、三男一女を儲けた。戦争末期に三回も兵役による召集を受け、初め二回は診察の結果即日帰郷となったが、一九四五年春の三回目の召集では、千歳三二六二四部隊に入隊、佐賀県松浦郡で敗戦を迎え復員、九月に研究を深めようとさる先生に師事する機会を求めて京都大学付属図書館に就職、単身赴任、その直後の十月四日京都の下宿先で心臓マヒで急死した。享年三十二歳。詳細な死因の不明のままみだりに臆測を逞しくするのは慎まねばならないが、少年時代から虚弱であり、はじめ二回の応召のときも心臓脚気・肺浸潤の診断を受けたというから、短期間ながら兵営での激変した生活が肉体をそこね、それに不馴れな下宿生活のなかで致命的な結果が生じたのではなかったであろうか。もし私の推定がいくらかでも当っているとすれば、加藤もまた戦争犠牲者の一人と言うことができ、戦争の非情を改めて痛感しないではいられない。
 「家族団らんや趣味をもつこともなく、犬を連れての散歩と池のコイにえさをやるのが、気ばらしであった」(佐藤氏『孤高の在野史家』、君枝夫人からの聞き取りによるのであろう)ほどに、学問研究一筋に生きてきた加藤は、ただ一冊の私家本単行本(補注2)と多くの未刊遺稿とに全精力を傾注しながら、ついに学界に登場する機会を得る日もなく、短い生涯をとじたのであった。敗戦後、きびしいタブーから解放され学問の自由の保障を得た日本史学の急速な研究の展開を回顧するとき、平和の到来後僅々一月あまりで烈々たる好学心も空しく夭折した加藤の不幸は、ひとり加藤とその遺族の不幸にとどまらず、日本の史学界の不幸でもあったのではなかろうか。
(補注1) 前節補注所引神谷氏〔「二 佐藤明夫氏による発掘の経過」の補注に、西尾市史編纂室の神谷保正氏の名前がある〕により、泰造の遺子伊蘇志の一九五〇年の中学校二年生のときの作文「終戦後のわが家」が西尾中学校の文集『イトスギ』に掲載され、その重要部分が『西尾市史』に転載されていて、それによって戦前の加藤家の資産の具体的状況を知ることができた。
(補注2) 本稿を『信州白樺』に発表したのち、菊池克美氏の示教により、加藤泰造には、『日唐令の研究』の外に、『唐朝史の研究』と題し、一九四〇年四月京都の彙文堂書店発売の活字本著作のあることを知った。同書は、「楊貴妃」「古代日本・漢土の収穫高」「燉煌戸籍」の三編の論文を集めたもので、『日唐令の研究』のような、体系的研究書ではないが、加藤の古代中国史についての知識を窺うには足りる。【以下、次回】

 以上は、「三 加藤泰造の生涯」の全文である。なお、(補注1)中の「西尾中学校の文集『イトスギ』」は、正確には、「西尾町立西尾中学校の文集『イトスギ 第二号 1952.3』」である。

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