礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

萩原健一さん主演、映画『瀬降り物語』(1985)

2019-03-30 04:54:57 | コラムと名言

◎萩原健一さん主演、映画『瀬降り物語』(1985)

 ショーケンこと萩原健一さんが二六日に亡くなったという。萩原健一さんは、ザ・テンプターズの時代から知っている。のちに、役者になったことも、もちろん知っている。
 今から、十年ほど前、東映ビデオ『瀬降り物語』を入手した。前から探していたビデオだった。容易に見つからなかったが、偶然、近所の古書店で見つけた。『瀬降り物語』の「瀬降り」は「せぶり」と読む。いわゆる「サンカ用語」である。
 この映画の主演が萩原健一さんだった。その演技が良かった。一九八五年(昭和六〇)の東映映画で、監督・脚本は中島貞夫さん。助演は藤田弓子さん。
 映画史上に残る屈指の名作だと思うが、興行的には成功しなかったという。
 今日、ウィキペディアには、「瀬降り物語」の項があるが、十年ほど前、ビデオで『瀬降り物語』を鑑賞したときは、この項はなかったように思う。いずれにせよ、この項からは、いろいろなことが学べる。たとえば、次のようなことである。

① 中島貞夫監督は、もともと、「サンカ」に興味を持っていた。
② この映画のプロトタイプは、一九六四年に脚本が作られた『瀬降りの魔女』だった。脚本は、中島貞夫監督と倉本聰さんだった。
③ この映画を作るため、中島貞夫監督は、サンカ小説家の三角寛に面会している。サンカを実写したフィルムも見せてもらったという。
④ しかし、この『瀬降りの魔女』は、クランクイン直前、大川博社長(当時)によってボツにされた。
⑤ 一九八五年の『瀬降り物語』のタイトルだが、岡田茂社長(当時)は『山窩物語』とつけた。しかし、ある事情で、このタイトルが使えなかった。

 もし、この映画が、『山窩物語』というタイトルで公開されていれば、その反響は、どのようなものだったのか、などと考えてみる。ちなみに、『瀬降り物語』には、サンカ、山窩などの言葉は、いっさい出てこない。
 萩原健一さんの冥福をお祈りしたい。萩原健一さんの追悼の意味をこめて、どこかのテレビ局に、『瀬降り物語』を放映してもらえないものか。

*このブログの人気記事 2019・3・30(時節がらか9位に新年号関係が)

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