礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

スケールの大きな研究に没頭した加藤泰造

2019-04-09 05:33:19 | コラムと名言

◎スケールの大きな研究に没頭した加藤泰造

 家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)から、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。昨日は第三節「加藤泰造の生涯」の全文(一九三~一九六ページ)を紹介したが、本日は第四節「加藤の歴史研究」の前半(一九六~二〇〇ページ)を紹介する。
 なお、本日の引用部分に関しては、〔 〕内は家永による補注である。

  四 加藤の歴史研究

 加藤の未刊遺稿『日本上古史』には、自分の研究歴、その間に読んだ書物の名と著者名、それらの書物への意見感想などが具体的に語られていて、いつごろから、どのような動機で歴史研究を始め、どのように学問を深めていったかの経過を知ることができるし、この遺稿のほかに、『未定原稿 私考日本歴史 (経済編)』という外題〈ゲダイ〉の草稿の内容があり、私家版『日唐令の研究』とあわせ見ることによって、その学問研究の成果の一端をうかがうことができる。ここでは、これらから看取された加藤の学問の特色と思われる点に限り、かつ私の理解できる範囲のみについて、卑見を述べることにしたい。
 第一に、加藤がたいへん早熟で、その好学の精神がつとに少年期から燃えあがっているのが注目される。小学校五年生のときに北垣恭次郎『国史美談』(このシリーズは、一九二〇年代末期に小学生向きの日本史読物のベストセラーであった)「に感化せられて、歴史を愛好するようになり」、一九二六年岡崎中学校に入学後、慢性胃腸カタルで休学、その間に本多浅治郎『西洋史講義』・西村為之助『東洋史精義』「を読んで、益々歴史に対する興味を深めた」。「本格的に史学の研究に着手したのは、昭和六年(一九三一年)で、丁度、年齢一九歳の時であつた」。「『氏族制度の崩壊と官僚制度の発生と』・『大化の改新の社会政策的意義』・『隋麗戦争』等の草稿に着手した。其の頃、津田〔左右吉〕博士の諸論著の影響を受けて、信用できる最小限度に於いて歴史を書くよう心掛けるようになつた。又滝川〔政次郎〕博士の『法制上より見たる日本農民の生活』に依つて、奈良朝時代の社会状態の暗黒面を知った結果、上古史そのものの本質に就いて深い暗示を与えられた」。『日唐令の研究』出版に当り、はるばる「満州国」まで出かけて滝川の序文を求めたのは、このように滝川の律令制研究から多くを学んでいたことによるものであろう。
 一九三二年には、津田左右吉の著作に関し、津田宛に数回にわたりその考証に関し質問の書簡を発し、津田は四月九日付、六月二日付で返信を加藤に送っている(佐藤氏提供の二通のコピーによる。なお一通の書簡があること前述のとおり)。前者は二百字詰原稿用紙八枚、後者は同一四枚にわたり字枠を無視し細字でギッシリ書き綴られた長文のものであって、津田の未公開の遺文として貴重な価値ある史料と思うが、社交性に乏しかった津田が、この無名の年少研究者に対し、これだけ懇切な書簡を発しているのは、加藤の学問への真摯で熱烈なとりくみに感動したからにちがいない。四月九日付津田書簡の冒頭には、「何よりも先づ拙著を綿密に御読み下されたことを著者として感謝します」と書き出されており、六月二日付のは、冒頭で健康を損じたことと手のひけない仕事のために三通の書簡に接しながら返信の遅れたことをわびたうえで、「種々御研究、特に史料の精細なる吟味をおこゝろがけになってゐるやうに思はれますので、よそながら喜ばしく存じます」と記され、それぞれのあとに加藤の提起した疑問に対し、きわめて精細な実証的見解が詳しく述べられている。当時記紀研究の最高峰を極めていた津田から、これだけ評価され、これほどに行き届いた回答を書く気持に導いた加藤の研究の水準が間接に窺われると言えるのではあるまいか(津田は早稲田大学教授であり東京帝太の東洋史学の教授たちと親交があったけれど、その記紀研究はアカデミズム「国史学」界で必ずしも十分に評価されていたわけではなく、津田もまた広い意味では「民間史学」に属する研究者としての側面があり、同じ在野の研究者加藤と相通ずる面もあったと思われるが、加藤の問題提起に深く鋭い内容がふくまれていなかったならば、津田がこれほど積極的な対応をするはずのなかったことも、またたしかである)。
 加藤が、『日本上古史』に日記に拠って列記しているところによれば、次のような草稿を順次執筆している。
 一九三三年 『隋麗戦争』(前年より)・『推古紀十一年の記載に対する卑見』・『再興任那に対する卑見』(前稿の改題)・『氏族状態』(先年の続稿)・『隋末唐初の大動乱と突厥』
 一九三四年 『氏族状態』(昨年の続稿)
 一九三五年 同右
 一九三六年 『氏族状態』(昨年より)・『蘇我ノ大臣の執政時代』・『大倭朝廷の衰微時代』・『大倭朝廷の興隆時代』・『日本帝国の建設』・『筑紫諸国の興亡』・『陳帝国の滅亡』・『隋帝国の建設と高祖文皇帝の初政と』・『隋帝国の公法』
 一九三七年 『氏族状態』『筑紫諸国の興亡』(ともに昨年より)・『石器時代の花綵列島』・『上古中期の日本』・『上古末期の日本』・『上古に於ける文化』・『序説』・『隋帝国の公法』(昨年より)・『隋帝国の私法』・『隋帝国の極盛時代』
 一九三八年『石器時代の花綵列島』(昨年より)・『無人島時代の花綵列島』・『日本上古史序説』・『日本上古史年表』
 加藤は、『日唐令の研究』に続き『百済戦争』を、遠い将来に『中古前期の日本』を公刊する予定であることを記し、『日本上古史』は『中古前期の日本』に対する備考として編集したもので公表するつもりはない、とも記している。『日本上古史』で知られる研究歴は『日唐令の研究』出版直後までのようであるが、右執筆草稿名を一覧しただけでも、七世紀を中心とする日本・隋の政治史法制史からさかのぼって石器時代にまで目を向け、すこぶるスケールの大きな研究に没頭していたのをうかがうことができよう。私は偶然にも加藤と同年の生れであり、右の加藤の研究期間はちょうど私の旧制高校三年から大学卒業の翌年までの時期にわたっている。私をふくめて当時大学の史学科の学生たちの実態と照し合わせてみると、きわめて少数例外の人を除き、たいていの学生は、せいぜい三年生(旧制大学は三年で卒業)になった春、右の期間でいうと一九三六年の春になってあわてて卒業論文のテーマをきめ、その年の十二月までに書き終って提出するのがふつうであり、一九三三年から論文を書き続けている人など皆無にちかかった。大学は必ずしも専攻学科を勉強するだけの場所ではなく、在学中広く多方面の教養を吸収することも大事であるから、大学生が加藤ほど論文執筆に専念していなかったことをすべてマイナスとして評価するのではないけれど、専門研究に関するかぎり大学で学ぶ学生よりも、独学の加藤のほうがはるかに早くから継続的かつ多角的に専攻テーマについて研究を深めていたことだけはまちがいなく、その好学の念の旺盛な点において大学の怠惰な学生と比べたならば天地の差があったと言うことさえできよう。【以下、略】

 第四節「加藤の歴史研究」の後半は割愛する。また、このあとの第五節「加藤の歴史観と社会思想」、第六節「加藤泰造再評価の意義」も割愛する。
 明日は、この加藤泰造という孤高の在野史家について、若干の補足をおこなう。

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