礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国家儀礼としての学校儀式・その7(桃井銀平)

2019-04-05 02:31:36 | コラムと名言

◎国家儀礼としての学校儀式・その7(桃井銀平)

 桃井銀平さんの論文「国家儀礼としての学校儀式」を紹介している。本日は、その七回目(最後)で、「5,儀礼の含意」を紹介する。

5,儀礼の含意
(1) 儀礼の空間的・時間的構造の基本
 参列者全員が正対する正面中央に国旗が掲示されている。国旗の<まなざし>のもとに儀礼の全てが行われる。国旗によって秩序立てられた空間が儀礼固有の場となり、固有の時間が進行する。学校長・東京都教育委員会職員・教職員・来賓が居並ぶなか、卒業生・新入生が入場する。
 まず、無人の正面に正対し(多くの場合、「礼」のあと)、天皇の統治ないし天皇の国の永続を願う歌が歌われる。国旗を背にして校長が卒業証書授与・入学許可、式辞を行う。国旗を背にした東京都教育委員会職員が祝辞を述べる。
 多くの学校では、誰もいない壇上正面の国旗に向かって「一同起立」「閉式の辞」(多くは、「礼」が続く)で儀礼は終わる。そして、卒業生・新入生が退場する。国家儀礼としての卒業式・入学式が時間的にも完結する。
(2) <もの>への賛美と<聖なるもの>の顕現
 10.23通達に基づく学校儀式においては、「君が代」=天皇の統治または天皇の国家の「千代に八千代に」=永続を願い賛美する歌が、御真影と同じ位置に配置された国旗「日の丸」に向かって斉唱される。儀式の空間的時間的構造、参列者の姿勢、「君が代」の歌詞の発語によって、「日の丸」は単に日本国家を象徴するものではなく、「天壌無窮」の「宝祚」である「天皇」またはそのような天皇が君臨する日本国家を象徴しうるものとなる。まさに宗教学者R.オットーの言う<聖なるもの>が顕現しうる儀礼となる〔35〕。宗教学者オットーは、宗教の本質を<聖なるもの>の経験に置いているが、その経験の根本は「ヌミノーゼ」(魅する、戦慄させる神霊的なもの)であって、それは儀礼を通じても感じ取られうるものであると記している〔36〕。
 <もの>に向かって賛歌を歌うことによって、その<もの>は単なる<もの>ではなくなる。宗教学者M.エリアーデは次のように言う。「聖なる石、聖なる木、は石としてあるいは木として崇拝されるのではない、-それらが崇拝されるのは、それが聖体示現であるからであり、もはや石や木ではなく、かの聖なるもの、<全く別なもの>である何かを示しているからである。〔37〕」旗という<もの>に対する所作、歌われる賛歌の歌詞、儀礼全体のなかでの位置づけ、空間の隔離と内部構造、これらは全て相まって<聖なるもの>の顕現を促す〔38〕。
 エリアーデは、<聖なるもの>の顕現は、「聖なる空間」を生み出し、<聖なるもの>への祭儀は、「聖なる時間」への移行を実現する、という。エリアーデは次のように言う。「聖なるものの啓示によって世界は存在論的に創建される。何の目標もなく、見当の着けようもない無限に均質の空間のなかに、一つの絶対的な<固定点>、一つの<中心>が聖体示現によって露らわれてくる。〔39〕」「宗教的人間は祭儀の助けを借りて通常の時間的持続から聖なる時間へと<移行>する。(中略)・・・宗教的な祭、祭典の時はすべて神話の過去、<太初の>時の聖なる出来事の再現を意味する。〔40〕」 宗教においては、<聖なるもの>との関係で自己を空間的・時間的に位置づける、すなわちコスモロジカルな次元での世界の創造・変容が行われるというのである。
 エリアーデの言う「一つの<中心>」とは、この場合、<聖なる天皇>または<聖なる天皇制国家>である。「<太初の>時の聖なる出来事」とは、この場合、爾余の諸条件が整えば、敗戦前天皇制国家の起源神話である「天孫降臨」であり得る。前出「天壌無窮の神勅」は、その際のアマテラスのニニギへの命令書のことであった。
 宗教・宗教儀礼を語る言葉で、近代国家の学校儀式を語ってきたが、国家儀礼化した学校儀式が宗教的性格をまとうのは不思議ではない。近年、M.K.ユルゲンスマイヤーなどにより、近代国民国家自体がもつ宗教的性格が強調されている。近代国民国家は建前上の政教分離・世俗化にもかかわらず、国民を生命を賭してまでの忠誠心で統合するために本質的に宗教的性格を持たざるをえなかった。ユルゲンスマイヤーによれば、世俗的ナショナリズムと宗教の「両者はともに信仰の表現であり、両者はともに一つの大きな共同体への自己同一化と忠誠をともない、そして両者はともに当該共同体のリーダーに授けられた権威の究極的道徳的正当性を主張する。〔41〕」当然これは国家儀礼のあり方に反映する。
 壇上正面中央の「日の丸」に起立正対して「君が代」の歌詞を歌うことは、単に事実を陳述することではなく、強い行為遂行的性格を持つ。言語を行為として分析した言語学者J.L.オーステインの言う発語内行為の5類型で言えば、「態度表明型(Behabitives)」に分類される〔42〕。永続への願望と賛美が表明される<聖なる君主や国家>は忠誠の対象となる。したがって、一種の国家忠誠宣誓儀式である〔43〕。 こうして、卒業式・入学式は<国体>賛美の国家儀礼になってしまった。敗戦前と異なるのは、御真影というイコン(聖像)が「日の丸」というシンボルに代わったことで<国体>との関係がより間接的になったことである。
(3) 国体コスモロジーの表出
 国歌斉唱とともに中心的儀礼行為である卒業証書授与・入学許可、校長式辞は国家=天皇の権威を体現した校長による象徴的権限行使またはオースチンの言う「権限行使型(Excercitives)」発語内行為といえよう。国歌斉唱と相まって、この儀礼行為により、卒業・入学及びその儀礼は身近な集団の生活の区切り目と通過儀礼であるだけではなく、天皇の国のまさに「臣民」としての公教育上の区切り目と通過儀礼にもなる。もちろん『教育勅語』奉読は不在である。しかし、国体思想は儀礼の所作を中心にしてよりシンボリックに伝えられる。『教育勅語』に言う「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス。」という思想の儀礼的な表出が行われるのである。
 オースチンの言語行為論は哲学の分野で大きな影響力を持ったとともに、文化人類学で儀礼の分析に応用されてきた。日本では青木保の業績がある〔44〕。青木保は、儀礼のことばこそが行為遂行的性格が極めて強く、オーステインの言う「不適切性infelicities」の危険がよく避けられているという〔45〕。オーステインは、行為遂行的な発言が陥りがちな「不適切」な事態を4種の「不発」(下位の2分類は「誤作動」2種と「誤執行」2種)と2種の「濫用」(その内の一つは「不誠実」)に分類している〔46〕。国家儀礼としての卒業式・入学式は、日常の学校生活の延長では十分にイメージできるものではない。親しい友人、クラス・クラブの仲間、個性的な何人もの教師、父・母・・・・これら身近な人々との濃密な関係の延長線上には国家儀礼は当然には位置すべき場所はない。また、文化人類学や宗教学が通常対象とするような儀礼に比べれば慣習化・伝統化の度合いが格段に低い。さらに、言説としての国体論の浸透という点では、教科教育の内容はまだ不十分である。このように、国家儀礼としての学校儀式では、いまだ「不適切性」の問題が生ずる蓋然性が高い。したがって、教育行政は異常なまでに教職員・生徒の所作についてこだわり統制の下におこうとするのである。
 儀礼はコスモロジーをコミュニケートする。この場合のコスモロジーとは、人間と世界についての全体的なイメージのことである。それは「いまの、ここでのわたし」を世界の中に安定的に位置づける。全体が国家儀礼として完成・定着すればするほど、参加者(卒業生と新入生、教職員)にコスモロジーのレベルでの働きかけ=コミュニケーションが効果的に行われるのである。それは、個人の人生を国体論の中に位置づける、すなわち、個人の存在をまずもって天皇及びその国家との関係で根拠づけるということである。
 身近な集団の通過儀礼でありうる卒業式・入学式は、子供の成長・旅立ち・自立について個人の価値に基づいた豊かなコスモロジーをコミュニケートできるものであった。対面式・呼びかけ式の儀式、会場を見守る正面壇上の絵画、自由に選ばれた歌曲、これらのシンボル・言葉・身振りをとおして身近な集団と個人に即したコスモロジーが表現されるものであった。ターナーが強調するリミナリテイにおけるコムニタス現出の可能性ももつものであった。学習指導要領国旗国歌条項、10.23通達・職務命令は、学校儀式をそれとは異質のコスモロジーをコミュニケートする場にしてしまった。子供の成長・旅立ち・自立は国家の国体コスモロジーの中にしっかりと位置づけられるべきものになってしまった。〔47〕 以上

注〔35〕 ルドルフ=オットーは、宗教の本質は<聖なるもの>の経験に存するとする(『聖なるもの』岩波書店。原著は1917)。
注〔36〕たとえば以下の記述。「魅するものが活躍する舞台は、なにも宗教的憧れの気持ちだけに限られているわけではない。それは「荘厳さ」という要因のなかにも生き生きと現存している。個人が聖なるものに向かって心を集中し沈潜して行う黙想や礼拝の荘厳さや、共同体として真剣にかつ熱心に執り行われる儀礼の荘厳さのなかにも現存している。」同上p87。プロテスタントのオットーは、<聖なるもの>の実在を前提に論じているが、そうでなくとも人間の意識にとっての<聖なるもの>の顕現の条件は論ずることが出来ると思う。
注〔37〕ミルチア=エリアーデ『聖と俗』p4(法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス 14 1969年 風間敏夫訳。原著は1957)
注〔38〕 敗戦前、日本国民は御真影=<もの>に対して、あたかも高貴な<ひと>に対するような応接を強いられた。美学者多木浩二は、そこに<聖なるもの>の出現を見た。「人々は、それが天皇自身でなく天皇の写真であることをしりつつ、天皇にお供し、お迎えするようにふるまったのである。人々はかつての巡幸のときのように直接天皇を眼にするものではないことはわかっていた。しかし儀礼の意味とは、現実にはそうではないとしりながら演じることのなかに生じる。こうした振る舞いがこの集団に中心、あるいは聖なるものを生むのである。」(『天皇の肖像』p223(岩波書店1988))
注〔39〕エリアーデ同上p13
注〔40〕同上p59。エリアーデ自身は空間と時間の「非聖化」を近代社会の特色とする(p6)が、私自身は以下で述べるようにそのように単純には考えない。
注〔41〕『ナショナリズムの宗教性と世俗性』(玉川大学出版部1995。阿部美哉訳。原著は1993)p28-29
注〔42〕オーステインは、発語行為に内在する行為(「発語内行為」)を、(1)判定宣告型(Verdictives)、(2)権限行使型(Excercitives)、(3)行為拘束型(Commissives)、(4)態度表明型(Behabitives)、(5)言明解説型(Expositives))の五つに分類している(坂本百大訳『言語と行為』(大修館書店1978原著は1962)p252)。
注〔43〕 10.23通達と職務命令が強いる儀礼の本質は、Barnette判決が判断の対象とした儀礼と同じ「国家忠誠宣誓儀式」だとする点で、世取山洋介の指摘は正鵠を射ている(『法律時報』第80巻9号など)。
注〔44〕『儀礼の象徴性』第2章「儀礼のことば」(岩波書店1984)。他に、鈴木道子『奥三河・花祭と神楽』(東京書籍1989年)がある。
注〔45〕同上青木著p161-162「「これは儀礼である」というメタ・メッセージに枠づけられたコミユニケーションの中にあっては、言語と行為の関連は自明な前提に含まれており、行為が偽りである云々の不適切さの条件も、「これは真実である」というメタ・メッセージによって成立しないのが一般となる。」(p97)、
「「儀礼のことば」は、これまで見たところからも知られるように、きわめて「行為性」の強い性格を有する。「儀礼のことば」の発するメッセージは、メタ・メッセージとして作用するが、それは「日常的現実」に対して「真実」というメッセージを運ぶ。この「真実」は儀礼という枠づけ内(フレーム)で発現するものであるが、それは「ことば」と「行為」を不可分のものとして、「いうこと」は「行なうこと」また「行なうこと」は「いうこと」という二重の定式を示すことで、「日常的現実」に対する「効果」となり、また「反省作用」となる。そして、「儀礼のことば」は言語の作用だけでなく、沈黙も含めた非言語の作用として、強いメッセージを発し、「見えるもの」の間だけでなく、「見えないもの」とのコミュニケーションを成立させようとするのである。」
注〔46〕『言語と行為』p32(坂本百大訳訳。大修館書店1978)。この6種に対応する遵守条項は以下の6項ある。
「(A・1) ある一定の慣習的な(conventional)効果を持つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きは ある一定の状況における、ある一定の人々による、ある一定の発言を含んでいなければならない。
(A・2) 発動(invoke)された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当(appropriate)でなくてはならない。
(B・1) その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2) 完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1) その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情をもつ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすよう構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情をもっていいなければ ならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意 図していなけれ ばならない。そしてさらに、
(Γ・2) これら参与者は、その後も引き続き、実際に(actually)そのように行動しなければならない。
さて、以上六つの規則のうちいずれか(あるいは複数個)の条項に違反するとき、いわゆる遂行的発言は、(なんらかの仕方で)不適切となる。」(同上p26-27)。
注〔47〕 1989年の学習指導要領改訂は、国旗国歌条項は国旗掲揚・国歌斉唱を「義務化」し、さらに儀礼の中心的な場面を祝日儀式から卒業式・入学式へと転換させた画期的なものであった。文部省『高等学校学習指導要領解説 特別活動編』(1989年)は「日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、生徒が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して正しい認識を持たせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである」と述べ、さらに入学式や卒業式については「学校、社会、国家など集団への所属感を深める上でよい機会となるもの」としている。

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