礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国家儀礼としての学校儀式・その6(桃井銀平)

2019-04-04 02:31:18 | コラムと名言

◎国家儀礼としての学校儀式・その6(桃井銀平)

 桃井銀平さんの論文「国家儀礼としての学校儀式」を紹介している。本日は、その六回目で、「4,所作-起立して行う敬礼と斉唱」を紹介する。

4,所作-起立して行う敬礼と斉唱
(1) 人以外のものに対するあいさつ
 10.23通達及び職務命令には明記されていないが、上記のように「開式の辞」の後「国歌斉唱」の前、および「閉式の辞」の後に「一同礼」との声をかけて「礼」をする場合が多い(卒入学式ともに9例中7例)。この場面は、壇上正面中央(演壇)には誰もいない。この「礼」は、戦前の祝祭日学校儀式では儀式開始時・終了時の「敬礼」にあたる。開始時のものは御真影に対する「最敬礼」に相当するとも言える。『礼法要項』は天皇に対するものとして「最敬礼」を規定しており、祝祭日学校儀式では、冒頭で御真影の覆いを撤した後、「次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に対し奉りて最敬礼を行ふ。」というように御真影に対して「最敬礼」をすることになっている。なお、『礼法要項』によれば、「最敬礼」と「敬礼」の大きなちがいは上体を傾ける角度で、前者は約45度、後者は約30度である〔26〕。
 青木保は「あいさつ」は3つのレベルおよびそれに一定対応する3つの次元があるという。日常のあいさつ-「動物的」、「敬礼」-「社会的」、「拝礼」-「超越的」。この第3の類型は、「王や生神や偉人」、「写真や形象のような物」、自然物に対して行うものである。特別な意味をもつ類型で、超越性・象徴性・儀式性が見られるあいさつである〔27〕。 国旗に向かって国歌を斉唱する直前や「閉式の辞」の後に誰もいない壇上正面中央に向かって行われる「礼」はまさしく、青木の言う「拝礼」である。単なる礼儀上のあいさつではない。
(2) 起立 
 国歌斉唱の前にする「礼」は7例全て立礼である。一方、卒業式も入学式も、卒業生が学校長式辞以下を坐礼で行う例は9校中5例ある。しかし、その内の3例は、国歌斉唱の前に起立して国旗のある正面中央に向かって敬礼している。敗戦前の礼法では、立礼は特別の意味をもっていた。『礼法要項』作成の中心となった人物による『礼法要項解説』〔28〕では、御真影に対する最敬礼について「校長は、学生、生徒の前に出て、正面に向かって適当な所で止り、そこで稍〃屈体して慎みを表し、その儘数歩・進んで最敬礼を行ふ。次に元の位置に引下がってもとの姿勢に復して、或所まで後退して、後元の位置に還る。」と記されており、この校長の動きからすれば、坐礼による最敬礼はありえない。また、『礼法要項』は、「敬礼・挨拶」の【注意】として、以下のように記している。「一、坐ってゐる人に対しては坐って敬礼し、立っている人に対しては立って敬礼する。腰を掛けてゐる長上に対しては立って敬礼する。〔29〕」
 『礼法要項解説』では、人への応答における<立つこと>の意義について「腰を掛けてゐる場合、長上に対しては、敬礼は勿論、応答も立ってすることがある。同輩に対しては敬礼は立ってするが応答は腰を掛けたままでよい。」と記している。〔30〕敗戦前祝祭日学校儀式の場合、少なくとも生徒は<起立>姿勢のままであったようだ〔31〕。
 国歌斉唱時の<起立>については、東京都教育委員会の場合、懲戒処分にあたってはその不履行を特に重視している。国定教科書『修身』で「国歌」または「君が代」という題目がある2種の内の1つ(第4期国定教科書(1934年)『尋常小学校修身書 巻四 児童用』「国歌」)には「「君が代」を歌ふときには、たって姿勢をただしくして、静かに歌うふのをきいたり、奏楽だけをきいたりするときの心得も同様です。外国の国歌が奏せられるときにも、立って姿勢をただしくしてきくのが礼儀です。」と、国歌斉唱のマナーとして起立姿勢を記している〔32〕。 起立姿勢は<礼>であれ、<斉唱>であれ、伝統的に重視され、相まって特別の敬意の表現となっている。
 一方、キリスト教徒にとっては、礼拝時の起立は特別な意味を持っている。カトリックの典礼神学者石井祥裕は次のように述べている。「どの宗教的儀式でも起立は尊敬や称賛を示す盛儀の姿勢であるが、キリスト教の典礼でも基本の姿勢である。ミサなどの典礼祭儀の始まりと終わり、司会者が導く会衆一同の祈願、そして福音朗読などは起立して行うのが常である。神の前に起立する民の姿は、神とキリストへの賛美を表し、キリストの復活の栄光をかたどるものである。〔33〕」教育史学者佐藤秀夫によれば、そもそも明治前期に森有礼が唱歌と御真影を主要要素とした学校儀式を考案した際にモデルとしたのはキリスト教の礼拝である可能性が強いという〔34〕。そのような要素は、「日の丸」拝礼=聖像・十字架拝礼、「君が代」斉唱=賛美歌歌唱、校長式辞=司祭または牧師の説教というかたちで、戦後の学校儀式に厳として継承されている。「起立」へのこだわりは、そもそもの出自によっても強く刻印されているようだ。

注〔26〕『続現代史資料9』p290-291 最敬礼・敬礼それぞれについては、立礼と坐例と2種記している。採用する場面については『礼法要項解説』でも明記はないが、本文のように判断できる。
注〔27〕青木保『儀礼の象徴性』 p24-28(岩波現代文庫(原著は1984))青木保はあいさつの「象徴的次元」または「超越的次元」のものについて次のように述べている-「さらに重要なことは、人間の「あいさつ」の場合、同じ人間どうし、人と人との間で行われれるばかりではないという点である。人と人以外の場合にもそれが行われる。人間はたとえば超自然的存在を相手に「あいさつ」を行う。神社仏閣といわず山岳や太陽や月といった自然を相手にしても、そこに人間を越えた存在を見出したときには必ず何らかの形で「あいさつ」をする。また写真や形象のような物に対しても「あいさつ」をする。こうした人と人以外のものに対して行なうときには、それは通常の「あいさつ」を越えて「拝礼」となる。」(p25)
注〔28〕国会図書館デジタルライブラリー。礼法研究会編。p153。この会の代表者の徳川義親は、『礼法要項』案を検討した文部省内の調査会の委員長であった(前出佐藤編著『「日の丸」「君が代」と学校』p93)。
注〔29〕『続現代史資料9』p291-292
注〔30〕なお、『日本国語大辞典 第二版』(小学館 2000~2002)は、「最敬礼」について「 最もていねいな敬礼。座礼にもいうが、立礼は、もと、神や天皇にだけ行なった敬礼で、直立不動の姿勢をとり、手を膝に当て、上半身を腰のところで前に折り曲げるもの。」と記し、立礼の意義について記している。
注〔31〕『礼法要項』および『礼法要項解説』には起立か着座かのついての明文はないが、着座を前提とした文章は見られない。また、山中恒『子どもたちの太平洋戦争』p93(岩波書店 1986)には、以下のように記されている。「式場へ入場する際は、いったん停止して、一礼ののち入場する。式の最中は、特別の事情のない限り出入りは禁止される。一同、式場の所定の位置に整列する。ややあって、来賓席へ在郷軍人会分会長・婦人会分会長・地元有力者・保護者会会長などが着席する。生徒は立ったままである。」
注〔32〕『「修身」全資料集成』宮坂宥洪(四季社2000年)p279
注〔33〕「姿勢」(『岩波キリスト教辞典』(2002))
注〔34〕 前出佐藤『続現代史資料8』・解説p33-35

*このブログの人気記事 2019・4・4

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする