礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭和20年10月14日、京都市岡崎西天王町にて死去

2019-04-07 00:43:30 | コラムと名言

◎昭和20年10月14日、京都市岡崎西天王町にて死去

 家永三郎『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、一九八七)から、「忘れられた在野史学者加藤泰造」という文章を紹介している。本日は、その二回目。昨日は一八二~一八五ページのところを紹介したが、本日は一八八~一九一ページのところを紹介する。

 戦争が激化し、日本本土も戦場となって国民生活は混乱し、知人の安否もさだかでなくなった。戦後およそ四十年、杳〈ヨウ〉として消息の聞えなくなった加藤のことを、私はいつも気にしながら、社会情勢の激変後に尋ね出す自信もなくそのままに過してきたが、おそらくもはやこの世にないのではないかと案ぜざるを得なかった。私も老齢となり、残された時間は少なくなった。自家出版の著作一冊をのこして消息を絶ったこの篤学者を私が世に紹介しないで終ったならば、永久に忘れ去られてしまうかもしれない。こう考えて、私は、西尾に近い半田市に居住し高等学校社会科の教育に当っている佐藤明夫氏が地域の歴史掘り起こしの活動をしていられるのを知っていたので、地域史研究の一環として加藤泰造についての調査を依頼してみようと思いついた。私の依頼を快諾された佐藤氏の努力のおかげで、はじめて加藤の安否・経歴ばかりでなく、未刊の原稿まで大量に発見されたのである。不幸にも私の案じていたとおり加藤は敗戦直後に世を去っていた。加藤と私とは永久に相見る機会のなかった学友として終始し、永く幽明境を異にしてしまった間柄であることが判明したのであった。
 近現代史でも、少しく長期間を経過すると不明となってしまう事実が少なくない。ことに十五年戦争末期から戦後の混乱期を経た後には、それ以前の事実の調査はしばしば困難をきわめる。加藤の人物と業績とをどのようにして発掘できたか、それ自体現代史研究の一範例となると思うので、直接に発掘者佐藤氏の文章によってその経過を語っていただくことにしたい。

  二 佐藤明夫氏による発掘の経過

 私の依頼に応じた佐藤氏からの報告の第一報は、一九八三年九月十四日付の次のハガキとしてもたらされた(関係のない部分は省略する。以下同じ)。
《お尋ねの加藤泰造氏の件ですが、名古屋歴史科学研究会関係の古代史の研究者も全く知らないそうです。西尾市史にも記載されていません。
 西尾市役所社会教育課に依頼したところ、昭和二十年十月十四日に京都市岡崎西天王町十五にて死去されたことだけ判明しました。
 もう少し時間をいただいて、微力ながら調べてみたいと思います。地域のほり起しにもなりますので。(前後略)》
 佐藤氏がついに加藤の遺族を探し出し、夫人に面会し、故人の多くの遺稿を発見したことが、同年十月二十八日付書簡により報ぜられた。
《先般御依頼をうけた加藤泰造氏の件ですが、学校祭、修学旅行などの校務に追われ、調査がおくれましたが、かなり具体的なことが判明いたしました。
 当初市役所に問合せても死亡年月日以外は知らせてもらえなかったのですが、もしや旧制西尾中の卒業ではと考え、現西尾高校の同窓会に問合せたところ、昭和六年の西尾中学第一回卒業生でした。さらに奇縁にもかなり親しかった同級の亀山厳氏が半田に居住されていたことから、同級の方数人に問い合せ、後は糸をほぐすように御遺族のこともわかった次第です。
 十月二十六日に勤務が午前でしたので、西尾市に出かけて、君枝夫人にお会いし、泰造氏の生いたちや人柄をうかがい、幸いに残っていた土蔵(現在長男の以曽志氏宅)の本箱にある約一〇〇冊のノート類の資料を見せていただくこともできました。
 時間も限られ、また私の力不足から不充分な調査しかできておりませんが、とりあえず現在までに知りえたことと資料の一部をコピーしてお送りします。
 なお昭和二十年に泰造氏が召集をうけ、入隊するさいに、君枝夫人に遺言のような形で、自分に、もしものことがあったら、お世話になったこの方々にあいさつと礼状を出してくれと五人ほどの氏名・住所を書いたメモを渡されたそうです。夫人の話によれば「その中でも家永三郎先生と滝川政次郎先生の名前は忘れたことがなく、ずっと気にかけていたのですが、戦後の激動と主人の急死にとりまぎれ、今にいたってしまいました。無音にすぎたことをくれぐれもおわびして下さい」とのことでした。名望資産家の若夫人から一挙に混乱の社会に投げ出され、四人の子どもをかかえ、大変な苦労をされ、蔵書なども全て処分せざるをえなかったそうです。「日唐令の研究」は一冊のみ残っているそうです。(愛知県内の図書館にもありません)私の訪問や調査をとても喜んでおられました。
 泰造氏の業績については、私自身には分析評価する力がありませんが、資料を散見しただけでも、実証的、科学的な、しかも未来を展望する研究態度であり、ユニークで篤志な研究者であったように思われます。多くの原稿があり、第二、第三の出版を目標にしていたようです。戦争による障害と薄命が惜しまれ、正当な評価と紹介がぜひなされてほしいという感を深くしております。
 稿本ノートなど十点あまりお借りしてきましたので、先生が御希望になるなら、宅急便などでお送りいたします。(資料目録も折をみて作るとよいと考えていますが)また、これこれについて、調べろということがありましたら、遺族への電話問合せもできますので、遠慮なく御指示ください。
 まずは取り急ぎ御報告まで。(下略)》
 このときと、次いで同月三十一日付便とに封入された佐藤氏の調査結果プリントならびに加藤遺稿の一部の大量のコピーによって、私ははじめて『日唐令の研究』の生み出された主体的基盤と『日唐令の研究』以後における著者の研究の進展の一端を知ることができたのである。【中略の上、次回へ】

 文中、「長男の以曽志氏」は原文のまま。正しくは「長男の伊蘇志氏」である。

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