礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

韓史における天日槍の位置は極めて曖昧

2018-08-12 00:12:53 | コラムと名言

◎韓史における天日槍の位置は極めて曖昧

 福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)の第一期「創業時代」第三章「国初と南方との関係」から、「四 天日槍は何れの国の王子なるか」のところを紹介している。本日は、その三回目。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。なお、漢文の部分(『三国遺事』巻一紀異、『日本書紀』垂仁紀)は、やむなく返り点と送り仮名を省いた。

 この帰化の年代は、或は垂仁の朝と云ひ、或は応神の朝と云ひ、或は孝霊孝元と云ひ、或は遠く神代なりとも云ひて、其事蹟の甚だ明瞭なるに似ず、年代に就いては、極めて茫漠たるを免れず。之を韓史に考ふるに、三国遺事に、第八阿達羅即位四年丁酉、東海浜、有延烏郎細烏女、夫婦而居、一日、延烏帰海採藻、忽有一巌、(一云一魚)負帰日本、国人見之曰、此非常人也、乃立、為王、細烏恠夫不来帰、尋之見夫脱鞋、亦上其巌、巌亦負帰如前、其国人驚訝、奏献於王、夫婦相会、立為貴妃、是時、新羅日月無光、日者奏言、日月之精、降在、我国、今去日本、故致斯怪、王遣使求二人、延烏曰、我到此国、今何帰乎、雖然、朕之妃有所織細綃、以此祭天可矣、仍賜其綃、使人来奏、依其言而祭之、然後日月如旧、蔵其綃於御庫為国宝、名其庫為貴妃庫、祭天所名迎日県、又都祈野と。
以上は稍〈ヤヤ〉似寄りの談なれども、更に此前後の王代に就いて述ぶれば、祇摩の後を逸聖と云ふ、儒理の長子なり、逸聖の後を阿達羅〈アダツラ〉と云ふ、逸聖の長子なり。阿達羅殂し〈ソシ〉て子なし、昔脱解の王子仇鄒角干の子伐休、風雲を卜ひ〈ウラナイ〉、予め〈アラカジメ〉水旱及び豊倹を知り、又能く人の邪正を識別し、人之を聖と云ふ、国人仍て〈ヨッテ〉之を立つ。伐休二子あれども、皆父に先だち、遺孫其後を継ぐ、之を奈解と云ふとあるのみにて、此間に其れと覚しきものを見出すことを得ず。日本古代史に、「新羅王の系を按ずるに、朴氏は阿達羅尼師今〈アダツラニシキン〉に至つて、昔氏脱解の孫伐休に譲れり、紀に天日槍対曰、僕新羅国王之子也、即日本国有聖王則以己国、授弟知古、而帰化とあれば、昔氏の長王子にて、朴氏の嗣となるに相当したれど、日本に帰化したるに因て〈ヨッテ〉、知古の子伐休を立たるにて、伐休は開化帝の世に相当す」とあれども、日槍を昔氏の長王子と云ひ、伐休を知古の子と為すは、何に拠られたることなるや明かならず。去れば阿達羅前後の時代と、天日槍との間には、何等の照応なくして、東海延烏郎の談は、唯偶然相似たりといふに過ぎず、迎日県の名、亦後世此小説に基ける命名なるべく、要するに、韓史に於ける日槍の位置は、極めて曖昧なりと云ふの外なし。

追記(2018・8・14) 引用文のうち、『三国遺事』の漢文には、返り点と送り仮名を施さなかったが、次の三か所のみは、原文にある返り点と送り仮名に従って、書き下し文と、その読み方(案)を示しておきたい。
1 負帰日本    負テ日本ニ帰ク(おふて、日本におもむく)
2 細烏恠夫不来帰 細烏夫の来帰セザルヲ恠ミ(細烏、おっとのらいきせざるをあやしみ)
3 巌亦負帰如前  巌亦負テ帰クコト前ノ如シ(巌またおふておもむくこと、前のごとし)
 すなわち、1と2における「帰ク」は、「おもむく」と読み、2の「帰」と意味が異なると考えたのだが、博雅のご教示を俟つ。


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