礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝廷は善光を百済亡命政権の元首に擁立した

2018-08-27 02:59:07 | コラムと名言

◎朝廷は善光を百済亡命政権の元首に擁立した

 利光三津夫氏の論文「百済亡命政権考」(『法学研究』第三五巻第一二号、一九六二年一二月)から、「緒言」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、紹介した箇所のあと、改行して、次のように続く。

 大義名分を明かにし、君臣の別をきびしく定めている律令の制下にあつては、王号を称し得るものは、五世以上の皇親に限られている。従つて、臣下の喚び名に「王」の字を用いることは、その訓のいかんを問わず憚らねばならないことであつたと思う。当時臣下にして「王」の字を帯することを聴され〈ユルサレ〉たものは、この百済王氏を除いては、文武の朝の背奈王〈セナノコニキシ〉氏、聖武の朝の高麗王〈コマノコニキシ〉氏があつたのみである。而して、背奈、高麗の二氏が王号を称することを聴されたのは、百済王氏の先例があつたればこそであつて、その先例なかりせば、背奈、高麗氏に王号が聴されるべき筈はない。その理由は以下述べるところによって自ら〈オノズカラ〉明かとなろう。野村忠夫氏の研究によれば、百済王氏は、神亀、天平の間において、その一族は、すべて内位に叙せられるという数少ない貴種の一つであつて、これと比肩しうる貴族は、大化以前よりの大豪族である藤原、多治比〈タジヒ〉、石川の三氏と、この期に賜姓した橘氏との四氏があつたのみであるという(二)。従つて、初めて百済王氏に対して王号を賜与した朝廷は、百済氏を皇親に準ずるものとしてこれを優遇する意向を有したものと観てよいのではなかろうか。
 奈良時代に、百済王氏がこのような殊遇を賜つたのは、百済氏が百済国王の子孫であるからであるといつてしまえば、それまでであるが、それだけでは説明できない事情がある。即ち、新撰姓氏録によれば、高麗王氏は、高句麗好台七世の孫延興王の後であるという。高句麗国王と百済国王との地位を比較すれば、高句麗は百済よりも大国であつたのであるから、高句麗王の方が上位であるべきである。故に百済氏がその王族の子孫たるが故に優待せられたとすれば、高句麗国王の子孫である高麗氏もまた百済氏以上に優待されなければならない。しかるに高麗氏の一族は最初から内位〈ナイイ〉に叙せられることはなく、百済王と比肩される貴種とは見做されていない。また、新撰姓氏録〈シンセンショウジロク〉諸蕃に記載されている諸氏には、後漢の霊帝の子孫であるとか、呉王孫権の子孫であるとか、諸蕃帝王の裔と称する者が少くないが、それらの諸氏はいずれも外位〈ゲイ〉に叙せられた後に、内位に叙せられている。従つて、百済王氏一族のみが、朝廷の殊遇を賜つたことについては、特別の理由が存在したと考えなければならない。
 私は、その理由を探求して、百済王氏がかくのごとき殊遇を賜つたのは、天智の朝において、国際政治上の必要から、わが朝廷がこの氏の祖である百済の善光を、百済亡命政権の元首に擁立しなければならなかつたからであるまいかという考えに到達するに至つた。書紀、続紀の善光に関する記事は頗る簡潔であるが、これを当時の国際情勢に照して解釈してゆくと、わが朝廷は、当時の敵国たる唐、新羅が夫々〈ソレゾレ〉百済、高句麗の王族を擁して傀儡政権を樹立したことに対抗して、善光を日本における百済国の亡命政権の首班に擬した事実が観取せられるのである。
 百済王氏に関する先学の研究は数多いが、善光が、わが国に樹立された百済亡命政権の首班の位置に就いたであろうというようなことを述べたものは曽つて存在しなかつたように思う(三)。また上代における日韓の関係を述べた論著も枚挙にいとまがないが、天智の朝、わが国に百済亡命政権が存在したであろうことを述べたものは見当らない。故にこれは或いは私の創見であるかも知れない。それだけに私としては、それが単なる臆測に止まるものでないことを立証すると同時に、人をしてこの新説を納得せしめるために努力を致さねばならない。故に私は、日本の史料のみに依存せず、ひろく朝鮮及び中国の史料を旁捜して七世紀における東亜の大勢、極東諸国の国際関係を解剖し、日本が善光を首班として百済亡命政権を樹立しなければならなかつた事情を述べ、その国際情勢と見合して書紀、続紀の善光に関する零細の記事を読解するときは、天智の朝に善光を首班とする百済亡命政権が存在した事実を認めざるべからざる所以を論述したが、稚拙の史筆能く人をしてこれを納得せしめ得るや否やを危惧する。冀くば〈ネガワクバ〉、読者の史眼によつて、この平板なる叙述の裡に、七世紀の極東における国際情勢を明瞭に脳裡に描いて、拙文を味読せられんことを。
【注】
(二)野村忠夫氏「律令官人の構成と出自」(大阪歴史学会編「律令国家の基礎構造」所収)参照。
(三)百済王氏にづいては、多くの研究があるが、その中〈ウチ〉出色のものとしては、今井啓一博士「百済王敬福とその周辺」(続日本紀研究四ノ一〇)、「百済王氏と蝦夷経営」(同、五ノ一)、「摂津国百済郡考」(同、五ノ一〇、一一)、「摂津国における諸蕃とその居住地について」(説苑、五ノ三)、「帰化人と河内国」(ひらおか、4、6、7、8、9号所収)、関晃氏「帰化人」(一七〇~一七一頁)等が挙げえられる。しかしこれ等の諸研究は、いずれも持統朝以降の百済王氏、換言すれば、律令国家体制下に、一流の官僚貴族としての地位を与えられた後の百済王氏を主たる対象としたものであつて、百済王氏一族が奈良時代において、何故に一流貴族としての地位を与えられたかという問題については触れるところ殆ど皆無である。

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