礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その4

2018-08-04 03:02:41 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その4

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」を紹介している。本日は、その四回目。本日、紹介する部分は、西原学説に対する筆者の疑問・批判が明確に提示されているところなので、注も含め、ていねいにお読みいただきたい。

(4) 学校における国旗国歌儀礼について

① 一般的考察  
 学校における国旗国歌儀礼について西原が短い文章で非難している場面は多いが、明解かつ詳細な憲法判断をしている文章は、管見の限り見つからなかった。下記は『良心の自由 増補版』の一節(初出は1990年代初期)である。簡潔に一般的な評価を下している(下線は引用者)。
「 入学式、卒業式等における『君が代」の斉唱は、特定の国家像を子どもに受け容れさせ、その特殊な「国家」に忠誠心を持たせようとするイデオロギー的な働きかけを目的とする儀式に生徒を強制的に参加させるものである。従って、これがイデオロギー的教化に当たると感じ、自らの良心的立場からこれに参加できない、あるいは子を参加させられないと考える生徒・親が一人でもいるなら、『君が代』斉唱の強制は良心の自由を侵害し、憲法に反する
 親・生徒は、この儀式への参加を拒否する権利、具体的には『君が代』斉唱の間会場を退出する権利を有する。また、その行事が行われることと、参加を拒否する権利を有することが、生徒・親に確実に伝達されていなければならない。そして、この権利を行使することで他の生徒から仲間外れにされる危険性があれば、そもそも『君が代』斉唱は許されない。同様のことは、『日の丸』に対する直立不動の姿勢を求める儀式にも妥当する。
 このような良心の自由の解釈は、良心の絶対的規範に反するため良心の破壊につながる法的義務からの解放を求める権利を基本的人権としての良心の自由に含める、本書の立場からは当然といえる。ここでは、この解釈が学校という場面でも、学校行事が問題になる際には維持できることが明らかになった。〔24〕」
 この部分は、ドイツの公立学校において許容されている宗教教育の限界についての基準を日本の公立学校に適用した部分である。前述したように学校儀式における国旗国家儀礼は西原の判断では「学校が関わることはできるが子どもに強制できないもの」と分類されている。したがって、「特定の国家像を子どもに受け容れさせ、その特殊な「国家」に忠誠心を持たせようとするイデオロギー的な働きかけ」〔25〕であろうとも許容されうる。憲法に反するかどうかの分かれ目は、それが「強制」であるか否かという点、かつ「これがイデオロギー的教化に当たると感じ、自らの良心的立場からこれに参加できない、あるいは子を参加させられないと考える生徒・親が一人でもいる」か否かという点である。
 学校における<強制>をどのように評価するかは難しい問題をはらんでいる。当該問題の場合、成績評価への反映や懲戒処分以外の対応をどこまで<強制>と評価するかが問題となる。強い叱責は学校ではありふれたことであって、教師からの指示に対する生徒の順応が習慣化している程度が強いほど、表だった<強制>なしに事実上の<強制>が行われうる。西原の場合は、さらに、生徒間の仲間外れも<強制>に含めて、国旗国家儀礼の違憲性判断の材料としているのが特徴である。しかし、仲間外れは、当事者の受け止め方次第の部分が大きく、そもそも本質的に同調圧力が強い学校という場では多様な原因で生ずるもので、国旗国歌儀礼拒否のみを原因としている場合でない可能性があり、国旗国家儀礼についての法的判断の条件としては即座に採用することが困難な場合が多いだろう〔26〕。
 <強制性>の有無を問わず、学校儀式での国旗国歌儀礼については客観法的憲法判断と教育内容としての適不適の判断は必要である。「一人でもいるなら」という条件は、訴訟条件としては必要であっても、客観法的違憲判断それ自体にとっては不要である。同様に、教育プログラム自体の評価も異議を申し立てる人間の有無とは別個に行うことができる。いずれについても西原は消極的である〔27〕。範例としたドイツの公立学校での宗教教育は、元来多くの家庭や地域(教会)で実施されていたものを公教育が学校の中に取り込んだものである〔28〕。日本の学校での国旗国歌儀礼は家庭や地域で行われてきたものではない。明治国家が天皇制国家への臣従精神を育てるために公教育に導入したものが原型である。そもそも、国家の信条的中立性の要請を踏まえれば、国家が学校に強制してはならないものであり、学校の権力性を考えれば個々の生徒の思想・良心に深く関わりうるものとして、導入自体が避けられるべきものである。問題となっているのは、国旗国歌についての知識の伝授と歌曲の一つとしての歌唱指導ではなく、学校儀式で国旗国歌儀礼を実施することである。それは、現憲法制定の歴史的背景と個人の尊重という根本原則を踏まえれば、たとえ国旗国歌法以後であってもたとえ強制がなくても、憲法の原則と合致しないもの、戦後公教育の理念と本質的に矛盾するもの、という評価は無理なく出てくる。学校儀式で国歌を歌いたい人と歌いたくない人を等価に置くという西原の考えは、現憲法と戦後公教育の<戦後性>を正しく踏まえるものとは言えない。

② 一見相反する2つの具体例
〔北九州市の事例〕
 『良心の自由 増補版』の5年後、2006年に刊行された『良心の自由と子どもたち』では「教師の抵抗義務が成り立つとき」の例として1990年代の北九州市の事例を採り上げている。いわゆる<北九州ココロ裁判>における事例である。
「 北九州市では、一九九〇年代から教育委員会が中心となって国歌斉唱の強制を進めていた。その強制の枠組の中で教師は「範を垂れる」ために、入学式・卒業式の国歌斉唱時には「起立して、心を込めて斉唱する」よう職務命令が出された。それに対し、子どもの心の自由を守るために自分たちは立ち上がれない、と考える教師たちがいた。
 天皇制の永続を祈るような歌を口にできないという一人の子どもがいて、予行演習の時に教頭に怒鳴られながらも立ち上がって国歌を歌うことができずにいる。そしてその子は、教師である自分も「君が代」に抵抗感を持っていることを知っている。卒業式当日、子どもは針のむしろに座りながら自分を見ている、「先生はどうするの?」と。そこで教師である自分が自分の心を裏切って立ち上がれば、その子を最終的に追い詰める。自分の心に正直に生きることより多数派に迎合することの方が正しいことなのだ、と示すことになるから。そういう状況で、教師として子どもに対する強制の最後の引き金を引くことはできないと考え、処分覚悟で座り続けることを選んだ教師たちである。〔29〕」
 この事例での教師の不起立を西原は国家権力の末端を担うものとしての抵抗義務だと位置づける〔30〕。しかし、私には、むしろ君が代に抵抗感を持つ自己の思想・良心に従った行動を一人の子どもに促されたという事例、同じ思想・良心を持つ同じく少数派の子どもとの熱い心情的つながりを謳い上げた事例に見える。ここで教師自身が自己の思想・良心から国旗国歌儀礼に従えない、という点が決定的であると思えるが、その点について西原は焦点化していない。仮に教師個人が国旗国歌儀礼に疑問を感じていなかったらどうするのであろうか。その場合でも教師には<抗命義務>としての不起立を選び取るべきなのであろうか。そうなるとこの教師が身を以て生徒に示したのは思想・良心の自由の大切さではない。
 次に、西原による事例紹介の限りでは「天皇制の永続を祈るような歌を口にできないという一人の子ども」の保護者は登場しない。この子どもが単独で学校による君が代斉唱強制に対峙しているように見える。教頭による恫喝は予行練習の時に行われている。親は教頭の強制をどう受け止めたであろうか。このように問題構造の全体が示されていない。同じ北九州市の事態について、田中伸尚は子どもの保護者が自分の子どもを護るために行動を起こした事例を紹介している〔31〕。自己の責任において人権を主張する主体としての親は、西原が設定した問題構造の中には位置づけられていない。
 一方で、疑問を感じずに儀式に参加していた多数の生徒との関係はどうなるのであろうか。学校儀式での国歌斉唱を自らの思想・良心にかなったものとして肯定的に受け止めた子どももいた可能性がある。また、国歌斉唱自体には特段の考えはなくとも一生の思い出となる卒業式が日本の学校の<伝統>にのっとって一糸乱れぬ行動で厳粛な雰囲気のもとに行われることを、強く望んでいた子どもがいた可能性もある。北九州市の教師は、どちらの生徒の側にたつべきであったのか。またその際の判断基準は何であるべきなのか。西原のいう<抗命義務>とは、ここでは、圧迫を感じている子どもの心情に寄り添って同じ行動を取るということであるようだ。ここに、学校での国旗国歌儀礼についての教師自身による客観法的判断はどう関係するのであろうか。
〔国旗国歌儀礼を支持するY氏の場合〕
 北九州の事例を紹介した上記著作の翌年、いわゆる予防訴訟地裁判決をうけて書いた論文で西原は以下の事例を紹介している。これは教師による子どもの思想・良心の自由侵害の事例としてである。
「 私的な例で恐縮だが、私の知人―仮にY氏としよう―の体験を紹介しよう。もちろん、日本国憲法・一九四七年教育基本法体制下の話である。
      *
 Y氏が小学校六年生だった頃も、卒業式で「君が代」斉唱を実施しようとする学校管理職と、その斉唱に反対する教職員との間に激しい対立が存在した。ただ彼の時代、高い組織率に支えられた教職員組合が分会(すなわち、学校)単位で決議を挙げ、いかなる「君が代」指導にも協力しない旨の申し合わせが徹底していた。その結果、Y氏は卒業式に先立つ時期、「君が代」は差別と侵略を象徴する歌であり、現在の日本人として決して歌ってはいけない歌であるという教育を徹底して叩き込まれることになった。
 しかしY氏は、子どもながらそれとは違う信条を持っていた。国を大切にすることだって、あっていいじゃないか。それを表現する歌が「君が代」しかないのなら、それを歌うことが許されないというのはおかしい。
 卒業式当日、「君が代」の場面で立ち上がったのは、校長、教頭とY氏だけだった。児童が皆、つまらなそうに座っている時に一人立ち上がり、声を出すのはものすごく勇気のいることだった。足がガクガク震え、口の中がカラカラになり、たぶん、彼の歌声は人に聞こえるものではなかったかもしれない。
 しかし、その時の教師たちの、非難のこもった目をY氏は決して忘れられない。黙っで座りながら、自らの良心に従って行動しようとする幼い小学生に対して、裏切り者をそしる目を向け、その時以来、二度と目を合わせようとしなかった教師たちの姿を。〔32〕」
 学校における国旗国歌儀礼に批判的であったと思われる西原が、学校儀式で国歌を歌いたい権利を優先するかのごとき主張をすることに衝撃を受けた読者は多いであろうが、このような主張もまた西原学説の柱である。しかし、明らかに孤立して思想・良心への圧迫を感じていると思われる子ども時代のY氏に対して、式場の教師は北九州市の事例のように孤立状態のこの子どもの希望に合わせて起立斉唱をすべきであったのだろうか。その際、教師自身の国旗国歌観や学校儀式に国旗国歌儀礼を導入することへの教師としての見解はどう関係してくるのであろうか。
 また、事例の紹介の仕方には強い主観性がある。Y氏が強い孤立感を抱いたであろうことは容易に推測できるが、「裏切り者をそしる目」「二度と目を合わせようとしなかった」は叙述の限りではY氏の受け止め方でしかない。Y氏がその後具体的な制裁を受けたかどうかは記されていない。この場合の教師集団は明らかに国家権力の末端として行動しているのではない。国家・行政・管理職はY氏の味方である。この事例のY氏は、前述の北九州の事例での生徒に比べて明らかに孤立の度合いは低い。一方、Y氏の友人のなかには国旗国歌儀礼に強い違和感を持ち、教師集団の言動に安心感を抱いた生徒もいた可能性もある。
 なお、「「君が代」は差別と侵略を象徴する歌であり、現在の日本人として決して歌ってはいけない歌であるという教育」の前半は、事実認識としては正しいという見方もできる。後半の「決して歌ってはいけない歌であるという教育」は、権力的に歌わせようとする国家・教育委員会・管理職の存在を前提とすれば、国旗国歌に関する見解の多様性を学校内で保障するものである〔33〕。

③ 浮遊する教師の思想・良心
 西原に従えば、生徒に強制が及ばないようにというのが儀式の場における教師の行為の根本的判断基準となるが、判断は極めて複雑・困難なものとなる。国旗国家儀礼に対する受け止め方は、生徒によって多様である。また、教師の同じ行為であっても生徒によって受ける影響は多様である。教師はどの生徒の思想・良心を優先すべきなのか、教師の行為の生徒への影響をどのようなものとして想定すべきなのか、簡単には決まらない。〔34〕
 学校とは、本質的に強度の同調圧力が働く場である。また、生徒が組み込まれた学校儀式である以上、教師と生徒の関係は必然的に伴い、教師の一挙手一投足は不可避的に教育上の影響力を発揮する。学校・教師の日常的な生徒に対する権力・権威的関係を前提にして、学校生活・子ども個人の人生の重要な節目の儀式に、同調圧力も利用して式次第の一環として国旗国歌儀礼が組み込まれたのである。だから国家は、生徒も含めて一律の行為を求め、教師の動きを徹底的に管理しようとするのである。
 国旗国歌儀礼は、本来卒業式や入学式にとって不可欠なものではない。国家・学校の信条的中立性を重視すれば国旗国家儀礼は学校儀式に組み込むべきものではない。従って、国旗国歌儀礼に肯定的な生徒と否定的な生徒とは等価ではない。強制的に導入された国旗国歌儀礼に対して自己の思想・良心の自由を守るために不起立等で対応する教師もいる。その場合、生徒や参列保護者への影響は皆無ではない。しかし、否定的影響・不快感は、国旗国家儀礼に対して肯定的な生徒・保護者にとっては受忍限度内のことである。
 国旗国家儀礼に対して否定的な生徒及び親はそれぞれの世界観・歴史観・人生観の中で、同調するかどこまで異議申し立てをするか避けるかを、引き受けざるを得ないリスク・コストを考慮して自らの行動を決める。国旗国歌強制問題で生徒または保護者が原告となって憲法上の権利侵害を訴えた事例はいまだない。一方で、訴訟となった事例では、どれもが教師に対しては明瞭に強制が働いている。明瞭な強制下におかれた教師自身についての思想・良心の自由の訴えなしには、客観法的判断の問題(当該行為の強制一般の憲法判断)は提起しにくい。西原による事例分析は、権利を侵害された個人の訴え―それを契機としての当該教育コンテンツ強制自体の憲法判断=客観法的憲法判断、という訴訟構造にはつながらない。訴えをするものが第一に問題としているのは主に第三者に対する憲法上の権利侵害であって、訴えるもの本人の憲法上の権利に対する侵害ではない。すなわち、西原は、バーネット判決のような訴訟構造を範例としているのではない。

注〔24〕前出『良心の自由 増補版』p250-251
 学校儀式における<強制>の判断基準については、佐々木弘通「「人権」論・思想良心の自由・国歌斉唱」の四(『成城法学66号』2001年)が議論の出発点としては有用である。
注〔25〕西原の場合、定義不明のまま「イデオロギー的」という語が非難のニュアンスをともないながら頻繁に使用されている。たとえば、伝習館高校事件の教師が高校生に出した試験問題(「スターリン思想とその批判について」「毛沢東思想とその批判について」)を「特殊なマルクス主義一派の世界観に基づくイデオロギー的働きかけと位置づけざるを得ない。」と断じている(「教師の<教育の自由>と子どもの思想・良心の自由」(広田照幸編『自由への問い5 教育』(岩波書店2009)p157)。なお、本論文の著者としては、<特定の立場によるものとしての性格が強い思想>という程度の意味において使用している。
注〔26〕この点は前出佐々木「「人権」論・思想良心の自由・国歌斉唱」p63に詳細な検討があり、有意義な検討の枠組みを提供している。
注〔27〕『学校が「愛国心」を教えるとき』(日本評論社2003)p16-17
「 もともと、歌うことが正しいか正しくないかは、個人の信条の問題である。だから、歌いたい人が歌いたくない人に歌わせる権利がないのと同じように、歌いたくない人が歌いたい人に歌うなという権利はない。
 歌いたくない側が<沈黙の自由>を持ち出すこともフェアではなかろう。自分の歌いたくない気持ちの表明を強いられるから皆で歌う機会を作ることは許されない、という主張が一見成り立つように思える。しかし、その主張の中では、歌いたくない側の立場が絶対化されている。儀式のあり方に関する問題は、<国家の信条的中立性>に関わる問題を度外視すれば、教育的あるいは政治的な決断の問題であって、基本的人権の問題ではない。
 基本的人権の問題が生じるのは、多数決でも犯すことのできない個人の領域に踏み込んだときである。儀式に歌を入れないと決めたとしても、歌いたい人は、儀式の前後で歌いたい人だけ集まって歌うことができるだろう。儀式の間は我慢していてもいいはずである。同様に儀式に歌を入れると決めれば、歌いたくない人は、他人が歌うのを黙ってみていたり、自分がそのとき席を外したりといった我慢を強いられることになるが、そこまでは耐えられる範囲に入るであろう。耐えられないのは、多数決で決めたことだから一緒に歌う点も守れ、という強制が及んだ場合である。ここで初めて、基本的人権の問題が生じる。」
しかし、「国家の信条的中立性に関わる問題」は「度外視」してよいのだろうか、疑問に思うところである。
注〔28〕「ドイツでは、国家と教会の特殊な関係から、宗教的性格を持つ学校での宗教教育が直接禁じられてはいない。(中略)ドイツでそのような決定が下されたのは、歴史的経験による。宗教の授業の制度も、十九世紀中葉に政治的妥協の産物として成立した。」(前出『良心の自由 増補版』p247)。
注〔29〕前出『良心の自由と子どもたち』(2006年、岩波書店)p202-203。 この事例は市立小学校か市立中学校かは不明である。前出『学校が「愛国心」を教えるとき』は同じ北九州市の2事例(一つは中学校と明記)を紹介している(p73)が、『良心の自由と子どもたち』で紹介された事例との異同は不明である。北九州市におけるこの時期の生徒への強制のすさまじい実態は、田中伸尚『教育現場に「心の自由」を! 『君が代』強制を問う北九州の教職員』(岩波書店 2005)に記されている。西原学説はこの裁判の第1審の途中から圧倒的な影響を与えた。
注〔30〕上記引用部分に関しては本文ではなく小表題に「抵抗義務」という語が使われているだけだが、同じ北九州市の問題を扱った「不服従を讃える道 国旗・国歌の儀式的利用と教師」(『法律時報72-8』2000年7月)では教師に課せられたものを「まさに公務員であるがゆえに憲法上引き受けざるを得ない<抗命義務>」と明記している(p3)。
注〔31〕前前注の田中書に、「sさん」という小学6年生の母親が教頭・担任の強制に抗議して校長に面会した事例が紹介されている(p27-31)。親も子どもも独自の判断で可能な対処・抵抗をしている。どこまでこだわるかはあくまでも侵害された当事者が判断するものである。他者の権利の擁護のために異議申し立てをする教師の場合、どこまでこだわるべきなのであろうか。
注〔32〕「「君が代」伴奏拒否訴訟最高裁判決批判 「子どもの心の自由」を中心に」『世界2007.5』(岩波書店)p137-138 この文章は国旗国歌強制反対の立場の人々に強烈な反発を巻き起こしたものであった。
注〔33〕西原自身、教室で国旗国歌問題に関して教育委員会や管理職に対する批判を行った家庭科教師の授業を「全体として見れば、教育委員会・校長の側から子どもに向けられた圧力に対するバランス的要素としての意義を持つ」と弁護している。(前出『学校が「愛国心」を教えるとき』p212)
注〔34〕なお、西原によれば、別のところでは、儀式の場は「各教師が、日常的な教育活動の割り当てを離れ、単なる校長の補助機関として学校行事の運営に関わる場面」と分類されていて、教師個人の思想・良心の自由を優先して判断して良いことになっている(後述(7))。ところが、ここでは、逆に、生徒に与える影響を第一に重視して行動すべきものされている。

*都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。

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